回想録 #1 私と大将とキリンビール

バイト明けの午前4時は,いつもキリンビールだった.

明け方まで働く夜の町の住人のために,その店は朝7時まで営業していた.飲みくたびれた若者,酩酊した中年,仕事終わりの風俗店関係者,そして当時の私のような飲食店スタッフが,白けた空が見えないふりをして,その店に集まっていた.

なんてことは無い小さな和風居酒屋なのだが,明らかにオーラがカタギではない,和装のいかついおじいさん(大将)が『っらっしゃいぃ!!!』と迎えてくれる.席について,メニューもろくすっぽ見ること無く,いの一番に頼むのは,いつもビール.なぜならこの店,ビールが当時一杯150円という,超破格で提供されていたのだ.10杯飲んでも1500円.この超良心的価格が,アルバイトでどうにか生計を立てていた私のような貧乏学生には,涙が出るほど嬉しかった.

『はい,お疲れさん!!』と,大将がビールを運んでくれる.少しだけ小さめのグラスではあったけど,それでも150円は安い.同じバイト仲間と軽く乾杯をしてから,1杯目は一気に飲みきってしまう.見ていた大将が,わかったよ,という風に頷いて,黙って次のビールを用意してくれる.カウンター席の上に掲げられた黒板には,本日のオススメがずらっと並ぶ.お刺身もご飯も美味しいけれど,学生風情にはちと値が張る.私が狂ったように食べていたのは,ニンニクの丸揚げ.スーパーで売っているような小ぶりなものではなく,女性の拳くらいある大きなニンニクだ.じっくり中に火が入っているから,丸で芋のように柔らかく,独特の臭みや辛みもない.これに味噌をつけながら,あれよあれよとビールが無くなっていく.仲間達との会話にも花が咲き,時間がどんどん進んでいく.気が付けば,飲んだビールはとうに10杯を越え,仲間のうちの一人は机に突っ伏して眠り,店の角に備え付けられたテレビから,『おはようございます!』とアナウンサーの爽やかな声が聞こえてくる.そろそろ行こうか,と席を立てば,仲間のうちで1番の先輩が『今日はいいよ』と会計を済ませてくれる.回らなくなってきた呂律を隠すように『ご馳走さまです!』といいながら,もう一品頼んでおけば良かったかな,などと図々しい事を考えている.

店を出ると,朝日はすっかりのぼっていて,出勤途中の社会人達がちらほら歩いているのが見える.気を良くした先輩は,『よし!酒買って,俺んちでもういっぱいやろう!タクシー!』と千鳥足でタクシーを呼んでいる.どうせ部屋に着くなり眠って何も覚えてないくせに,と苦笑いしながら,自分の足取りも十分怪しいことに,私は気が付かない.アルコールに濁らせた頭の中で,明日のバイトは何時入りだったか,と思いをめぐらせ,やがてタクシーの優しい揺れに意識を持っていかれる.迷惑そうなタクシードライバーの表情も,隣の先輩の意味不明な独り言も,私は知らないふりをしていた.全てに未熟で,今よりずっと鋭かった私の感覚は,こうやって意図的に,鈍らせ濁らせていったのだと思う.

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