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檸檬のころ/豊島ミホ を読んで

僕らはみんな檸檬だった。

固く、刺々しいほど鮮やかな色を抱えながら
なにか物足りず、なにか不安で
傷がつくたびに、弾けるように香る
あの、残酷な日々を思い出す。

あの、保健室の彼女も
野球部のエースも、寡黙な彼も
きっと、私達と同じ世界に生きていた誰かだった。
僕も、その只中にいた、一つの檸檬だった

日々が遠く離れていくほど
ゆっくり溶ける角砂糖のように
嫌な思い出ばかりを忘れていって
振り返ってみれば、なんだか随分きらきらした時代だったように思うけれど
それは、僕がどれほど遠くまで来てしまったのかを証明することにもなっていて
今となっては、あの檸檬の苦味も、よく覚えていない。

“音が鳴って、音楽になって、言葉にはならないんだもの。”
大人になった僕らは、言葉にするのが随分とうまくなった。
本当は言いたくないことも、思っていないことも
口をついて出るようになった。

“これ以上の何が、世界にあるんだろうって。”
世界の広さを知る前に、自分の広さを知ったあの頃。
シーソーみたいに揺れる自分自身を捉えきれずに
目の前の大切な者たちを、ただ不器用に抱きしめていたあの頃。

“だって俺、好きな人にさようならしたことなんか今まで一回もないもん”
これまで何度さようならを言っただろうか。
好きな人に、そうでない人にも。
数え切れないさようならの上に
傷跡さえ見つからないほど古い傷口が、たしかに疼く。
叫んでももがいても、もう戻らない
永遠の後方にいる誰かの声がする。
朧げな笑顔が
不意に霧が晴れたようなはっきりとした形になる
ぎりぎりと締め付けられる胸の奥に、確かにあったはずの、檸檬。

読み終えた僕は堪らずに窓を開ける。
身体じゃない。心が熱くてたまらない。
空気に満ちた深い冬が、肺から全身に回っていく。
シンとした世界で一人、僕は深呼吸をする。

冷たさにツンのした鼻の奥、わずかな痛みの中に、
なくしたはずの、あの淡い香りがあった。

僕らが檸檬だった頃、その残り香に触れたような気がした。

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