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OSAKA 橋と物語 長靴とオムライス 1/4 at 淀屋橋

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雨滴が二股に別れ窓を伝い落ちる様子を眺めていると、幼い頃のワンシーンが思い出された。あおいは車のバックシートに座り、その流れを目で追っていた。運転席に父、助手席に母が座っている。雨は本降りを過ぎ止み間へと近づいていたが、両親の口論は激しくなっていくばかりだ。あおいは梅雨の始めに母が買ってくれた赤い長靴を脱ぎ、膝を抱えて体を前後に揺すっていた。5歳の小さい体では、すこしも不穏な空気を払えない。信号で車が停まると口論も止まった。薄くなった雨音も車内までは入れず、ふいな沈黙が訪れる。あおいはピリピリとした空気が息苦しく窓を開けたい衝動に駆られた。やがて、父が鼻から息を吹いた。口から出たため息ほどあからさまではないが、静かな車内では十分に母の耳に届いた。母が何か言った。母はあおいを叱るとき、怒りを抑え損ねて、最初と最後で声が変調することがあった。今、母の声は変調し、最後は叫びながら父を罵った。

強い体感として残った記憶だ。あの時、両親が何を口論していたのか、母が最後に何て言ったのか。あおいは憶えていない。雨の日の車窓を伝う雨滴がきかっけとなる追憶は、いい記憶ではないが、数少ない父の記憶なので、あおいは忘れることができなかった。

雨滴が横へと走る。バスが駅前ロータリーを回り停車した。あおいは乗客が全て降りるのを待ってから最後にバスを降りた。乗客たちが早足に駅へと向かうのに、あおいの足取りは遅かった。午後6時前、複数の商業施設が同居している駅周辺は通勤者と買い物客が入り乱れている。あおいは改札でスマホをバッグから出し、改札機前でで足を止めた。メッセージ着信を報せスマホが震えている。確かめるまでもなく母からだ。

あおいは踵を返した。ショーウィンドウが目に入る。七夕をモチーフにした装飾の中、各ショップおすすめの雨の日グッズが並べられていた。その中に赤い長靴がある。あおいはショーウィンドウに近寄り、長靴をよく見た。赤い薔薇のように深みと渋みが混じった赤だ。雨用長靴だがエナメル質ではなく、表面にエンボス加工が施されているため深い薔薇色に見える。幼い頃の記憶にある赤い長靴と目の前の長靴が結ばれているようで、あおいは衝動買いを決めた。

膝の上にスマホの二度目の振動を感じた。電車で運良く座れ、膝に横倒しに置いたバッグと箱入りの長靴が入った紙袋を重ねたので、バッグからスマホを取り出し難かった。電車の混雑が続き、紙袋を膝から下ろせぬまま降車駅まで三十分を過ごすことになった。年中生暑い空気が漂う混んだ電車の中、スマホの世界に逃げられないのは苦行だ。眠りに逃げようとしたが、電車がカーブに差し掛かり、開け放たれた車両の窓から、車輪と線路が弾きあう金属悲鳴が耳を突き、苛ついた。

あおいは恋愛は人生の構成要素占める一部でしかないと、終わった瞬間は思っていた。しかし、三日経ち、心傷に気づき、3週経ち、後悔ばかりが胸を突き、3ヶ月経ち、思いの外、傷の癒えは遅く塞がることがないまま、じゅくじゅくと鈍い痛みが満ち引きを繰り返している。自分の美徳は前向きな性格だと思っていた。仕事やプライベートで嫌なことがあっても、一晩眠ればすっきりと気持ちを新たにできた。失恋にしても一晩とはいかず、三日もすれば吹っ切ってきた。それが今度の失恋は、梅雨の長雨のようにしつこく居座り、心に水たまりを作っていった。広がった雨水は深く染み入って、表面は乾いたように見えても地中にじとじとと残り続けた。

電車はカーブを曲がり終え減速する。車内アナウンスが淀屋橋への到着を知らせる。乗客が乗り込み発車のアナウンスが流れるなか、あおいはとっさに電車を降りた。ホームへ急ぐ人々に逆らい階段を上がると、雨が運ぶ湿気がだらだらと淀屋橋駅の地下道を流れている。北改札からはわずかなストロークで地上へと出られる。濡れた傘を畳みながら降りる人々は普段よりも足取りが遅くもたついている。あおいは右ーに左に彼らを避け、地上へ上がると雨の空気を一気に吸い込んだ。


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