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穏やかさとモラハラ気質は共存する

※この記事は、モラハラ被害に遭った人を非難する記事ではない。

そもそも、モラハラの定義が個人によって異なる。巷でよく挙げられる「モラハラの特徴」とは、相手をなじったり、経済的に搾取したり、暴力を振るったり、否定をしてきたり、口が悪く態度が横柄だったり、そういったことが挙げられる。

もちろん、上記で挙げたものもモラハラの典型的な特徴である。しかし、「優しくて穏やかだったけど、結局モラハラだった」といった意見もよく見聞く。それらに対して、「見抜けなかったお前が悪い」というような意見も散見する。いわゆるこの時のいう「見抜く」とは一体なんなのか。我々は予知能力があるわけでも、神様でも霊能者でも神様でもない。ただの人間である。


「モラハラ気質」とはエゴのことで感情の起伏が論点ではない

タイトルにもあるように、モラハラ気質とはエゴそのものである。対極にあるのが愛である。したがって、世の中でよく言われる「穏やかな人がいい、モラハラはやめとけ」という言葉は容易に矛盾する。

確かに、感情的になりやすい人間にモラハラ気質は多い。精神的にキャパシティが狭く人に八つ当たりしたり、自分の言い分を押し通そうとして他者をコントロールする傾向にある。

しかし、穏やかと言われる人間が必ずしも「愛の人間」とは限らないと考える。

どういうことかというと、「穏やかでエゴが強い人間」もたくさんいるからである。たとえ穏やかで感情の起伏がない人間だったとしても、自分の価値観を押し付けたり、人の言うことを聞き入れない人間はごまんといる。ただ穏やかで怒らないという印象だけで、勝手に「この人は優しい人なのだ」と結論づけるのは、エゴに他ならない。

大体、「穏やかだから、この人は情緒が安定していてモラハラ気質じゃないだろう」「(端的に言うと)自分にとって安全だろう、世間一般的に正解っぽい相手だろう」「優しくしてくれるだろう」という動機で近づくことが、そもそも自己保身であり、エゴであり、相手に対して純粋に愛を感じているわけではない。

その人自身を愛しているわけではない。そう思いたいだけの状態になっている。このような動機を持って相手に近づいているとき、気にしているのは相手のことではなく「いかに自分が脅かさないか、いかに自分にとっていかに安全な人間か」しか頭にない。

「相手が穏やかで優しいと思ったのに、モラハラ気質だった」というパターンの裏では、こういうことが起こっているのではないか。

いずれにせよ結局、最初から相手も自分もエゴで動いていたのである。「モラハラする人はこういうパターンだから、このパターンに沿っていないということは優しい人だ」という安易な決めつけ(思い込み)をしている。

※この「モラハラ」の部分を「メンヘラ」に変えても同じことが言える。