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金剛の話

 この日、第二艦隊が従事した作戦は、それほど難しいものではないはずだった。

 第二艦隊の筆頭を務めるのは、金剛型二番艦の比叡である。危険な作戦に従事する第一艦隊で実戦経験を積んだ比叡は、しかし、明朗快活な気性を損なうことなく、困難な局面でも迅速な判断を行うことができる優秀な副官に成長した。同艦隊筆頭の金剛からの信任も篤く、艦隊をふたつの分隊に分けるときには、分隊の指揮を預かることも多かった。

 そんな比叡であるから、春先、新たに第二艦隊の編成が決まり、比叡が筆頭に就任することになったとき、これに異を唱える者はいなかった。比叡もこれに熱意をもって応え、堅実に戦績を積み重ねていった。

 晩夏のある日、第二艦隊にある任務が与えられた。それは、補給物資を積んだ貨物船の護衛だった。貨物船の航行予定ルートは、深海棲艦の出現が散発的に報告されている海域ではあったが、この海域に深海棲艦の拠点があるわけでもなく、仮に戦闘が発生しても、第二艦隊であれば十分に対処できるものと予想された。通常であれば、およそ2日の間、交代しながら海上を航行するだけの任務になるはずであった。

 比叡は、出港に際して「気合、入れて、いきます!」とおどけて意気込んでみせた。それを見ていた金剛は、穏やかに笑って見送ったのだった。

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 夜の嵐。波が高く視界が悪かったことは、敵の接近を許してしまったこととは無関係ではなかっただろう。風が波面を叩き、高波が輸送艦を揺さぶっていた。突然の爆風に側面を警戒していた副官の吹雪が吹き飛ばされ、続いて護衛対象の輸送艦から重い轟音が響いた。比叡はすぐに深海棲艦の襲撃だと理解したが、迎撃態勢を整える指示を出した直後、立て続けに2回の轟音が輸送艦から聞こえた。この高波の中で、ここまで連続して敵の攻撃が当たるということが、どういうことなのか、比叡はすぐに理解した。敵との距離は、もはや手遅れと言えるほどに近いのだ。

 比叡はすぐに決断した。もはや輸送の継続は困難である。乗員の避難のための時間を稼いだ後、輸送艦を放棄し、部隊は全速力で撤退する。

 時間を稼ぐにしても、撤退するにしても、戦艦である自分の役割は変わらない。注目を引き、仲間の盾になることだ。幸い、副官の吹雪の航行機能は十全で、戦闘の継続は困難でも、撤退を先導するには十分であった。

 吹雪に撤退の先導を任せると、比叡は仲間たちに背を向けて、伸びをするように艤装を左右に大きく広げた。そして、前方を睨みつけながら、虚空に向かって主砲を打ち鳴らした。いまだ比叡には敵の姿が見えていない。しかし、敵の意識が自分に集中したことを比叡は感じ取った。これでいい。「戦艦」という無視できない脅威がここに存在することを、敵が理解したということだ。比叡は大きく息を吸い込んで、胸を張った。

「さあ、かかってきなさい!」

 比叡の怒声は、相手に届く前に、交叉した砲声にかき消された。

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 朝。嵐は去り、昨晩が嘘のように澄んだ空気は、少しばかり肌寒さを感じさせた。

 比叡だけが帰投できなかった。

 昨晩、吹雪から状況の報告を受けた司令部は、すぐに増援部隊を送った。部隊は間もなく脱出した乗員を曳航しながら撤退していた第二艦隊の面々と合流し、協力して追撃を撃破した。しかし、接敵現場に戻っても、比叡の姿は見つけられなかった。

 帰還した第二艦隊の艦娘たちは、比叡は常に仲間の身を案じ、撤退する仲間に攻撃が向かないよう、勇猛に戦ったのだと話した。皆が、比叡が誇り高い戦士であったこと、比叡のおかげで命を繋いだことを繰り返した。比叡を誇る言葉は、いずれも沈鬱な表情から紡がれた。比叡の死は悲しい。逃げ帰ってきた惨めさもある。失敗は笑顔で報告できることではない。しかし、だからこそ、比叡の誇り高い最期は、惨めさと悲しみで糊塗することなく、美しく誇り高い言葉で語られなければならなかった。

 第二艦隊の面々から比叡の最期の様子を聞いた金剛は、目を閉じて顔を中空に向け、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、少し間をあけてから小さく息を吐き出すと、いつもの穏やかな笑顔で、帰還した艦娘たちに「立派な最期だったんだネ。比叡は務めを果たしたんだから、ミンナが悲しい顔をしてちゃノーだよ」と優しい声で語りかけた。

※※※

 金剛の言葉を聞いた榛名は、目元を拭い、口元を一文字に引き結んだ。長姉の金剛がこんなに気丈に振る舞っているのだから、その妹である自分が弱っている姿を見せてはいけない。

 榛名は、第一艦隊における比叡の後任として同艦隊に配属され、金剛のそばで学んでいた。そばで見る金剛の背中は大きく、実戦経験の少ない自分は、まだしばらく、その背中を追いかけるばかりだと考えていた。しかし、今日ばかりは、自分が金剛を支えなければならない。

 金剛は気丈に振る舞っているが、比叡の死が悲しくない訳がない。金剛の比叡への愛は本物だったと言い切れる。きっと、皆がいなくなれば、金剛は張り詰めた糸が切れるように悲しみに沈んでしまうだろう。そんなとき、金剛の悲嘆を受け止める役目は自分が担わなければならないと、榛名は思った。

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 比叡の死が皆に伝えられ、鎮守府が追悼の空気に包まれる中、ふいに、榛名は金剛と2人きりになった。

 榛名がどうしても今日処理しなければならなかった事務処理を終え、金剛型戦艦に割り当てられた私室に戻ったとき、金剛は窓際に置かれた木製の椅子に座り、窓枠に肩を預けながら外をぼんやりと眺めていた。太陽は再び傾き、やや赤みを帯びた光が窓から差し込んでいたが、肌に刺さるような熱さはなく、空気は残り香のような温さを含んでいた。

 榛名は、もしや、金剛がここで泣き崩れてしまうのではないかと思った。一方で、長姉である金剛にも、妹のために涙を流す機会が与えられるべきだとも思っていた。

「お姉様は、涙を流したいとは思わないのですか?」と榛名は尋ねた。

 それは単純な疑問であったし、また、この質問が金剛の涙の呼び水になればいいとの思いもあった。

 金剛はゆったりとした動きで榛名の方に振り向くと、いつもの穏やかな笑顔を作り、「どうして涙を流す必要があるんデスか?」と不思議そうに首を傾げた。

 その様子が、本当に心底不思議に感じているようでー

 榛名は、もしかしたら、自分が金剛を誤解していたのではないか、と思った。榛名は金剛の弱さを一度も見たことはなかった。しかし、それは金剛が気高い精神の力でもって、心の内の弱さを克服しているからだと考えていた。金剛の気丈な振る舞いの裏には、榛名と同じように、柔らかく弱い生身の心があるのではないかと榛名は思っていた。しかし、金剛の中には、もっと重くて、頑ななものがあるように、榛名には感じられた。

 金剛は「追悼の式典は、立派なのをやってあげたいネ」と笑顔のまま呟いて、ふたたび窓の外に目をやった。窓の向こうには軍港があり、そして穏やかな表情の海が広がっている。

 榛名は、金剛が「妹の幸せは応援してあげナイとね!」と比叡に声をかけていたことを思い出したが、それがいつのことだったか思い出すことができなかった。

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