言葉で定義することのメリットデメリット

先日Art Based Education研究会で大阪市立大学大学院都市経営研究科川村尚也准教授をお呼びしました
先生は経営学の学びにアートによる学習を取り入れられています
どんなふうに導入されているのか、そもそもなぜアートを取り入れているのか、その評価の仕方は?
など丁寧に講義してくださいました

その中で印象的な言葉があります
・ネガティブ・ケイパビリティ
・エステティック・ディスタンス
・クリティカル・ラーニング

今日はその中のクリティカル・ラーニングという言葉を取り出してみます

クリティカル・・・日本語に訳すと批評的なという言葉になるかもしれません。保表という言葉のイメージの多くが批判と混同されがちなので
批評的な学び
という言葉を使うより
クリティカル・・・それだけしかないのかと疑う、もっといいものがないか探す
そういった言葉があてはまるとのこと

なんだ。それなら私のワークはいつもそんな場じゃないか
私自身も模索しているため参加者から容易に突っ込まれる、嫌だと拒否されたりこんなのは?と逆提案されたりもする

ならば、自信を持って私の場は「クリティカル・ラーニングの場なのだ!」と翌日の自分の朗読のワークでさっそく言ってみました

「この場はクリティカル・ラーニングです!」
はたして・・・

そうしたところ、場はもちろん活性化しました
しましたが、やっているうちに・・・なにかがおかしい・・・
いつもと違う・・・それはなんだろう?
そこでハッと気付きました!
みんな安心してクリティカルラーニングである場を受け入れてるのです

そうなると、場はオープンに活性化していきますが、個人的な深掘りにはいきにくかったのです
とちゅうからあれ?と思ってファシリテーターの自分のモードを閉じるほうに変えました

この経験でわかったことは、既存の学校教育現場において「クリティカル・ラーニングである」と設定する意味と
皆が来たくてお金を払ってくるワークショップでは、すでに構造がクリティカルラーニングであるのだからことさらいう必要がない、むしろそれを意識することにより、違うことが起きる(もちろんそれはそれでおもしろいが)
ということが判明しました

もうひとつ、これは、言葉の枠に入れてしまうと起きることなのかもしれません

私の活動は多くの人にわかってもらうには今やっている活動をひと言で言うことがよく求められます
それにより人はああ、そんなことをやってるのですねと、一応安心してくれるようです

けれどそれにより全人的に感じていたものを一つの言葉の中に入れたことでその隙間からこぼれ落ちるものがあります

今の社会では端的に言葉で言えることにそのメリットが置かれていますが
言えないことを感じる場を作る、そんなことを感受した人とのやりとりがしたい
そこも同じくらい大切だなとあらためて思います

20代の頃、ワークショップのやり方もわからずひたすらがむしゃらにやっていた頃の写真です
こんな風に飛び込んでいくこと、ゆだねていくこと
様々なことをためしながらこれからもやっていくのだと思っています