守らずとも燃える炎(2)
突然起き上がった俺に、子供は「うわっ」と叫び声を上げる。手元から離れたペンライトの光が、ころころと転がっていくのが視界の端に映った。
痛みも気にせず子供の肩を掴んで、俺は絞り出すように問う。
「……今、なんて」
「は?」
「名前、もう一度、」
「よ、ヨーイチだけど……」
「苗字は」
「……新田」
『新田ヨーイチ』。
もう何度、この名を繰り返し頭で唱えただろう。忘れたくても忘れられなかった、呪いの名。
子供の顔に目をこらす。そこに、幾度となく夢に出てきた、ゼロイチの面影を見出そうとするが、きらりと瞳が光る他は、暗闇に塗りつぶされて見えなかった。
「……痛い」
子供の細い声に、慌てて俺は手を離した。彼はしばらくこちらを訝しむようにじっと見つめてきたが、やがて再び俺の治療にとりかかる。今度は膝。
献身的なその行動に、思わず問う。
「……お前は、なんで人を助けるんだ」
「……姉ちゃんが、困ってる人がいたら助けなさいって言うから」
「姉?」
「そう」
「……自分の意思はないんだな」
「必要ないよ」
「え?」
「姉ちゃんはいつだって正しいから」
純粋でまっすぐな言葉で彼は返す。
「俺は姉ちゃんのこと、信じてるから」
キン、と耳鳴りがしたのは、殴られたせいではないだろう。
「……どうしてそう、言い切れる」
「え?」
「どうして、姉がすべて正しいと言い切れるんだ。間違っているかもしれないだろ」
「そんなことない」
「ここはクロアナ街、前世犯罪者たちの吹きだまりだ。クロアナとして生涯を送るということはつまり罰……そこに温かい手をさしのべることは、その罰を妨げる行為だ」
「……違う」
「……お前、嘘をついてるだろ」
彼は押し黙る、その沈黙に、俺はかすかな気配を感じ取っていた。彼は、クロアナのことがあまり好きではないようだった。俺の治療も事務的にてきぱきとこなすところから、姉の言いつけを守るという以上の信念を感じない。
「本当はお前、クロアナが嫌いなんだろ」
追い討ちのようにそう問えば、動揺するようにライトの光が揺れた。
そうだ。信じるということは、恐ろしい。
信じていたもの、すがっていたもの、それがすべてまやかしのように消えてくのが、俺はたまらなく怖い。
あの日俺は自分の中にある何かを失った。まるで臓器の一つを奪われたかのように。彼女を信じているというその心は、間違いなく俺の一部となっていた。それを無理やり剥がされれば、血が出るのは当然だ。
彼もきっと、その一部を奪われないようにと躍起になっている。血が、痛みが、噴き出ぬよう。
「でも……俺は、姉ちゃんのことを信じてるから、だから」
しばらく彼は考え込んでいたが、やがて消え入るような声でつぶやいた。
「だから今日まで、ここで生きてこれた」
ここまで、生きてこれた。
言葉が、わんと頭に響く。
この長い、途方もなく長く感じた10年間。すり切れるほど脳内で再生した、彼女の声が蘇る。
『10年後に、クロアナ街に行ってみて』
彼女の言葉を信じて、俺は、今日まで生きた。
その呪いの言葉によって、今日まで生かされた。
「お前は……」
暗闇の中。ぼうっと淡く光る彼の瞳が、俺を見つめている。それはゼロイチのように無機質ではない、弱々しく、微風に揺れる灯火のようで、おそらく彼はこの先、何かに打ちのめされることになるだろうと漠然と思う。自らが信じた何かに裏切られ、温かな自身の炎に燃え尽くされるだろう。
しかし同時に、また漠然と思う。それでも燃え尽きたそのあとで、その灰の中にのこる光がある。埋み火のように、それは消えない炎だ。
何人もの前世を、人生を見てきたから、わかる。
彼は、強い。
「……はい、終わったよ」
彼はそう言って、パチンと救急箱を閉じて立ち上がった。
「大丈夫? 立てる? ここでずっと寝てたら、またイジメられるよ」
「大丈夫だよ。それと……助かった。礼を言うよ」
俺は立ち上がって、再び彼の顔を見た。やはり表情は見えない。それでもまっすぐな二つの目が、こちらを見上げているのだけわかった。俺もかつては、こんな瞳をしていたのだろうか。あの人のことを信じている。そう衒いもなく言葉を紡ぐことのできる瞳を。
「……俺達、また会えると思うか」
「うーん……あんまり」
「だよな」
「それに、おじさん意地悪なことを言うし、あんまり会いたくない」
「次会うときは優しくしてやるよ。そうだな……言葉遣いも柔らかくして、一人称も『僕』とかに変えて」
「それじゃおじさんって気づけないよ」
「だろうな。それでいい」
お大事に、という言葉とともに、彼は家へと、信じる姉がいる家へと帰っていく。
『私たち、また会えるよ』
この先の未来、どこかで、彼女は俺の前に現れるのだろうか。
俺は、人を。
彼女の予言を、信じれるだろうか。
目が覚めると、ボロボロに朽ちた天井が俺を見下ろしていた。昨日の記憶が、ぼんやりする頭に蘇ってくる。あの子供と別れた後、家に帰る気力が出ず、近くの廃墟に身を隠したのだった。幸いにも手首に巻いた携帯端末は、ヒビが入っていたが壊れておらず、時刻が確認できた。午後4時。
廃墟から出ると、嘘のように赤い夕日が辺りを包み込んでいた。自身の体を見下ろせば、あちこちに貼られた治療テープが見える。几帳面に貼られたそれらに小さく笑みを溢し、その場を離れようとした、その瞬間だった。
ガラスの割れるけたたましい音が聞こえて、振り返る。
そう遠くはない家から聞こえてきたその音は、クロアナ街ではありふれた物音だった。しかし、燃えるような夕日と、あまりにも人気ない静けさに、何故か心がざわつく。俺は踵を返してゆっくりその音がした方へと歩き出した。そういえば……あの子供は、あの方面へと帰って行かなかったか。
その時、微かな足跡が聞こえて俺は再び廃墟へと身を隠した。そっと窓から外をうかがうと、くたびれた通学鞄をもった男子児童が、音の元へと向かうのが見えた。昨日は暗すぎて顔が見えなかったが、それでもわかる。
彼だ。
俺は勘が鋭い。だから若くして、特別管理官まで上り詰めることができた。嫌な予感に確信が芽生え、早足で彼が消えていった小さな家へと近づく。開け放たれた扉から、部屋の中が見えた。
玄関に立ち尽くす少年。
そこに向かい合う、知らない男。
その男は腕を大きく振りあげている、その手には、傘が砕け散った重々しいランプが握られている。
それが今まさに、少年の頭上に振り下ろされようとしていた。
声も上げずに踏み込んで男の手を押さえつける。反動でランプが手からこぼれ落ち、ゴトンと鈍い音を響かせた。そのまま手首をひねり、相手の体幹が崩れたところに体重をかけて床に組み伏せる。あとは頭にブレインスキャナを……
腰に伸ばした手に触れたごわごわしたズボンの感触に、とうの昔にあのインターフェースを手放したことに気づいた。10年も経っているのに、体は、錐体路は、ずっと一連の動作を覚えている。呪いのように、逃げられない。
その時、視界の端に赤色がちらついて、俺は横を見た。
目線の先に、女が倒れていた。生き物のようにばらばらと散った髪の隙間から、赤い筋が、俺のすぐそばまで伸びてきていた。家が傾いているせいだろう、赤い液体は、やがて俺が組み伏せた男の白いシャツに届き、じわりと花が咲くように色をにじませた。
大きく息を一つ吐き、男の首を打って気絶させ、靴紐を解いて手首を縛り上げた。
「おい……大丈夫か」
呆然と立ち尽くす少年に問う。返事はなかった。
横たわる女の頭から流れる血を、子供は目を大きく見開いて、じっと見つめている。その子供の足下で、パキ、という音が鳴った。散らばったガラス片が踏みつけられた音。その時に俺は静かに悟った。彼の中で、何かが、壊れたのだと。すがる者が、信じていたものが、壊れた音。
俺は携帯端末を起動して、ずっと避け続けていた組織に、連絡を入れる。
夕日の赤に染まる街並みに、目が覚めるような青い車が映える。前世監理車が古い家を取り囲む中、クロアナは連行され、床に倒れていた女性は病院へと搬送された。命があるかは定かではなかった。
少年の側には、ブレインスキャナを腰に刺した監理官がいた。彼は保護され、おそらく保護施設である「魂の家」に入るのだろう。俺と同じように、彼は監理官となるのだろうか。
「……どうして、あなたがここに」
不意に声をかけられ、俺は顔を向ける。少年に付き添っていた女性監理官だった。美しく整った顔に驚きを滲ませたその相貌に、覚えがある。
「ああ……久しぶりだな」
そう俺が言えば、彼女は口を固く結ぶ。
「こんな場所で、何してるんです」
「たまたま、現場に居合わせたんだ」
「たまたま、」
彼女は冷たい声で俺の言葉を反芻する。
「たまたま、クロアナ街にいたって言うんですか。そんな格好で」
「ああ」
「……落ちぶれたものですね」
「好きでこうなったわけじゃない」
「知ってます。だからこそ軽蔑してるんです」
「うん」
「……どうして謹慎が明けてすぐ、私たちのところに戻ってきてくれなかったんですか」
彼女はつとめて冷静にそう言った。しかしその語尾に、僅かな震えが滲んでいることに俺は気づいている。10年前に、彼女は今と同じような顔をしていた。俺が怪我をして、一時的に班を離れる時。彼女は自分のことを責め、ひどく傷ついているのだと、鈍い俺でも分かった。そして、彼女の気持ちに気づいていても、俺はそれに答えることは出来なかった。
「……あなたは、わたしの憧れでした」
「………」
「なぜ、私なんて庇ったんですか」
「部下が危ないのに、助けない上司がどこにいる?」
「そういうところが、甘いと言っているんです。わたしは、特別監理官という立場を守るためにはどこまでも冷徹になる、あなたの覚悟が」
燃えるような冷たい視線をこちらに向けながら、彼女は言う。
「あなたのその強い意志が好きでした」
過去形だった。
彼女は跪き、少年の手を静かにとった。もう俺とは話すつもりはないらしい。
彼女と少年が、俺の前を横切り去っていく。
「ヤッチー監理官」
俺は、彼女の横顔に声をかける。
「俺は、監理官になろうと思うよ。もう一度」
「……今更、もう遅いです」
氷のような声色でそう言って、矢土は再び歩き出す。俺は、その傍にいる彼の瞳を見つめた。壊れたランプ、粉々に砕け散った光が霧散するように、彼の光もそこで消えた。でもおそらく彼は灰から這い上がる。静かな目に埋み火を宿して、おそらく再び俺の前に現れる。矢土がそうだったように。
二人の背中を見ながら、そう思う。
彼の瞳に光が宿るまで、生きてみようと。
『ねえ井坂くん。私たち、また会えるよ』
ただ、確かめるのだ。己の両眼を見開いて。
*
「監理官としての最初の通過儀礼、知ってる?」
「はい」
青年は静かな声で返答する。
「上司が部下の前世を見る」
「正解」
僕は頷く。僕は知っている。こんなことをしても意味がないこと。空の頭を撃ち抜いても、ゼロイチの記憶は見れないこと。
「それじゃあ、そろそろ始めよっか」
そう言って僕は、スキャナを彼の額に当てる。
「はい」
彼は想像したとおり、二つの目を真っ直ぐに見返してきた。身動ぎ一つしない鋭い眼光。出会った頃の危うさは影を潜め、揺るぎない意志が煌々と燃えている。
また出会えた。
冷たく、それでいて、決して消えない力強い炎。
「緊張してる?」
「いいえ」
「だよね」
まぶしいその光に、俺は、僕は、目を細める。
「だって、ヨーイチ君だもんね」
<end>
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