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戦闘機乗りと、美容師と。

クリエイティブ道場!

みなさん、こんにちは航空自衛隊出身の闘うヘア&メイクアップアーティスト原田忠クリエイティブ道場へようこそ!
このクリエイティブ道場はクリエイティブを深く掘り下げ、”美の創造“を探求し、クリエイティブを通じ誰もが美しく輝ける世界を実現してしまおうではないかと、そんな大それたことをテーマに展開していきます。クリエイティブに関わる技術、コト、モノ、人を通じ定期的に記事を投稿して美の創造と革新に挑んでいきたいと思っております。
有事の際、ヘアやメイク、ファッションは後回しになってしまいます。東日本大震災のときにいやというほど無力感を感じたわけです。でも美容の文化や美の力は最後の最後に有事を平時にもどし、心を満たせる力があると信じています。
直接的に人の命を救える仕事ではないですが、美容のクリエイティブな活動が
だれかの心にポジティブに働きかけ、少しでも心の癒しや救い、日々の活力になれば嬉しく思います。

クリエイティブな活動が徐々に元に戻る日を信じて、うちに秘めたるクリエイティブ魂の火を絶やさないためにも、微力ではありますが何かのお役に立てればという思いで、記事化していきます。

「自衛隊官であった当時は平和を守る」
「美容に従事している今は平和を創る」

そんな想いでみなさんと一緒にこの状況を乗り越えて頑張っていきたいと思っております。

今回はJHAグランプリを受賞した際、当時のリクエストQJのライターであった岡高志さんにロングインタビューしていただき、記事化された内容を紹介していきたいと思います。
いまでもこの記事が掲載された17年前の本誌は大切に保管しています。
表面的ではなく、内側をえぐられる感覚、穿られる感覚を初めて感じたインタビュアー・ライター岡さんの記事になります。

当時、33歳という若さ、美容師になるまでの挫折と葛藤、美容師なってからの将来の夢や展望を赤裸々に語っています。



戦闘機乗りと、美容師と。

平和を守る。
それが日本の「自衛隊」の理念である。

日本国憲法は現在、「戦争放棄」を謳いあげている。
戦後60年。
日本は「平和」であった。
戦争の当事国とはならなかった、という意味でだが‥‥。

政治的な話題を、書くつもりはない。
ただ、ひとりの若手美容師が、
自らの身体感覚で紡ぎ出した言葉に、感動したのだ。
彼は言った。
平和は守るよりも、つくるもの。
それができるのは、美容師である、と。

元・自衛官。
航空自衛隊千歳基地で、
航空管制官という重責を担った男が、
美容師となって放つ言葉の真意とは‥‥。


 轟音が、降ってきた。周囲の空気を叩き始める。思わず空を見上げる。視界にジェット機が飛び込んでくる。軍用機。速い。当時、中学生だった原田忠の目は、その機影をはっきりと捉えた。
「ファントムだ」
 F-4EJファントム。航空自衛隊の元・主力戦闘機である。群馬県沼田市。利根川と、その支流である片品川、薄根川によって形成された河岸段丘。その一角にある中学校の校庭の真上を、ファントムは超低空飛行で通過していくのであった。
 原田が、初めてその機影と轟音に触れたのは、体育の授業中だった。以来、ファントムはたびたび沼田市の河岸段丘の間をすり抜けるように飛び去っていった。
「ものすごいインパクトでした。きっと沼田出身のパイロットがいるんだ、と。その人が故郷に凱旋飛行をしているんだと噂してました」
 轟音と、そのスピード感。大空を駆けることへの憧れ。少年・原田忠のこころに戦闘機の雄姿が焼き付く。その気持ちに拍車をかけるように八六年の暮れには映画『トップガン』が公開。トム・クルーズ主演。戦闘機乗りの物語。当時中学三年生だった原田は、その『トップガン』にも夢中になった。

 パイロットになりたい。それは原田にとって最も自然な進路選択だった。旅客機のパイロットではない。戦闘機乗りだ。高校生になると、彼は自衛隊の募集担当者と接触。すると担当者はある日、原田を茨城県の航空自衛隊百里基地に連れて行った。
 百里基地。それは関東で唯一、戦闘航空団を持つ基地であり、首都圏を空から守る任務にあたる。その基地で、原田は初めて『ブルーインパルス』の展示飛行を見た。航空自衛隊唯一のアクロバットチームによるショーである。
「それで完全にしびれました。もう行くしかない。ここに男の夢がある」

 入隊試験は、高校三年のときに実施された。高校卒業程度の筆記試験。これは問題なかった。だが、航空身体検査と呼ばれる適性試験に、原田は戸惑った。
 たとえば、目の前に三枚の写真が示される。いずれも航空機から撮影した写真である。問題は「どのように操縦桿を動かせば、写真のような状態になるか」である。
「わかんないんですよ。いきなりそんなこと聞かれても。なんの予備知識もなく、抜き打ちで検査されるんです」
 あるいは次のような検査もある。長い箱の端に覗き窓がある。箱の中には二本の同じ太さの棒が立っている。覗き込むと、棒が前後に動き始める。たとえば右側が手前に動く。すると左側は奥へと向かう。また逆もある。そのような動きが連続するなかで、両方の棒が一列に並ぶ瞬間を見つける。ここだと思ったら、ボタンを押す。つまり遠近感のテスト。
 また歯科検査もあった。歯に詰め物がある人は不合格。なぜなら戦闘機で高空を飛んで気圧が下がると、詰め物が破裂する危険があるというのだ。
 さらには眼科にあるような顔の固定器具に顎を乗せる。左右の後ろ側から何かが動いてくる。見えたら合図する。つまり視野の広さの測定。すべてがパイロットに必要な適性試験であった。
「合格できなかった。なにかが足りなかった。ぼくには適性がなかった」
 ショックだった。あれだけ憧れた戦闘機乗りへの道が閉ざされたのである。
 ただ、募集担当の自衛官は囁いた。自衛隊に入れば、あと三回は試験を受けるチャンスがあるよ、と。
 原田はもうひとつの適性検査には合格していた。航空管制官。戦闘機乗りもエリートだが、管制官もまたエリートである。だれもがなれる職業ではない。原田は選択した。まず管制官候補として自衛隊に入隊し、再度パイロットへのチャレンジをすることを。入隊すれば、給料をもらいながら勉強ができる。それも魅力的だった。

苛酷な訓練が待っていた

 四カ月間の訓練が始まった。パイロットではなく、管制官でもなく、自衛官としての訓練。
 行軍。匍匐(ほふく)前進。銃の撃ち方。銃の分解と手入れ。さらに、演習。
 新品の作業服を着て、ヘルメットをつけた原田は他の新人たちとともにトラックに乗せられ、演習地へと向かった。背嚢には食糧と水。きれいにプレスをかけた作業服。演習中の着替えではない。演習終了後、隊へ帰るときに着るための服。山中の行軍。テントの設営。一人分の穴を掘り、隠れる訓練。空砲射撃。夜間の照明弾。偵察。雨が降っても、どんなに汗をかいても着替えはない。苛酷な訓練は、そのような演習も含めて四カ月。その間、外界との接触はすべて厳禁。隊舎には時折、「台風」が襲来する。靴磨きや制服・作業服のたたみ方など、規律に厳しい自衛隊では、約二百人の訓練生のなかでたとえひとりでも不備があると、上官が総出で隊舎内をひっかき回す。下駄箱はすべて倒され、靴や服はもちろん、パイプ製のベッドでさえも外に放り出される。つまりは「台風」。連帯責任。自衛隊はそうして責任感と仲間意識を醸成するのであった。

コースアウトはしたくない

 訓練期間が終わると、原田は空曹候補学生となり、二年間の教育期間に移行した。一方、パイロットの適性検査に合格した同期もまた教育期間に入る。パイロットの訓練期間は六年。その間にさまざまな国家試験を受け、いくつもの免許を取っていく。
「コースアウトという言葉があるんです。教育期間のなかで、少しでも適性から外れると思われたら、コースアウト。輸送機へ、ヘリコプターへと移行していくんです。だから戦闘機乗りはエリート中のエリート。戦闘機乗りがF1ドライバーだとすれば、旅客機のパイロットはバスの運転手。事実、そのくらいの差があるんです」
 パイロットにコースアウトがあるのと同様、管制官にもコースアウトがあった。勉強ができなかったり、適性が合わなかったりすると、管制塔には上れない。飛行管理や、その他さまざまな周辺職種へとコースを移行させられる。原田は必死だった。管制官のコースからは外れたくはなかった。当然、パイロットコースに復帰するための勉強は、おろそかになっていった。
 原田はパイロットを断念した。管制官の最終試験に合格すると、原田は北海道の千歳基地に配属された。

人生これでいいんだろうか

 不本意だった。だが、管制官もまたエリートだった。同僚は管制官へのプロセスでも次々とコースアウトしていったのだ。原田は、残った。
 航空自衛隊千歳基地。民間の新千歳空港と共有する大きな管制塔。一日の離発着数約三百五十便超。そこが原田の仕事場になった。レーダー画面上に映る輝点を見ながら数秒後、数分後を予測し、民間機と戦闘機に指示を出す。
「千歳の管制塔には常時十五、六人がひしめいている。しかも、毎日がケンカみたいなものなんです。民間対自衛隊。どの順番で飛ばすか、降ろすか」
 千歳基地所属の第2航空団。それは北海道唯一の戦闘航空団である。主力戦闘機はF15イーグル。最大の任務はスクランブル。日本領空に侵入する国籍不明機に対し、緊急発進(スクランブル)して追い払うのだ。当然、自衛隊側にはつねに緊張感がある。もちろん民間側にも、乗客に対する安全・正確な運航責任がある。お互いに譲れない局面が、日常的に発生するのだ。
 そんな環境のなか、原田のこころは次第に動揺し始める。オレの人生、ホントにこれでいいんだろうか‥‥。

美容師になろう

 管制官となって半年後のことであった。原田はふと考えるようになる。
「飛行機がモノにしか見えなくなってきたんです。たとえば民間機。そこには数百人の命が乗っている。数百人の人生が乗っている。だけどぼくにはモノにしか見えなくなっていた。レーダーの輝点にしか見えなくなっていた」
 また交信にも、原田は疑問を持った。パイロットとのコミュニケーションはすべて無線。声だけの交信である。顔が見えない。だけどパイロットにも、人生がある‥‥。
「なんか、もっと人と接する仕事がしたいな、と」
 自衛隊では向こう一年間のシフトが組まれていた。夜勤明けにオフ。さらに夜勤があってオフ。それが一年間、表となっている。
「オレはずっとこのまま一生、このシフトで生きていくのかな」
 それも疑問となった。だけど、やはり最大の疑問は、戦闘機乗りにはなれないのに、なぜ自衛隊にいるんだろうという根源的な問いであった。
「管制塔の目の前を、ドーンという轟音を立ててF15が飛んでいくんですよ。あぁ、これに乗りたかったんだよなぁ、と思うと、やっぱりね。つらい」
 さらに深夜。二時や三時という時刻でも、轟音で目が覚める。隊舎の窓から外を見上げると、二機のF15が発する炎が真っ直ぐに天へと向かっていく。
「夜間のスクランブルは、基地内だけで離陸するという取り決めがあるんです。基地から外に出ちゃいけない。だから滑走路から飛び上がるとすぐに機首を真上に上げて、垂直に上がっていくんです。ロケットみたいにね。で、上空でゆっくりと回転すると、領空侵犯機に向かってすっ飛んで行く。それを見てるとね、内臓が震える。ホント、しびれる。未だにその光景は夢に出てきますから」
 遠い世界だった。近くて遠くて、けっして手の届かない世界。管制官はそこに、つねに触れていなければならない仕事であった。
「辞めよう。そう思ったんです。一回人生をリセットしよう」
 そのとき、原田はすでに次の職業をイメージしていた。
「美容師になろう」
 実家が、美容室だった。母親が美容師。ただ千歳基地で二十歳を迎えるまで、美容師になることなど一度も考えたことがなかった。高校は男子校。自衛隊も男の世界。そこから百八十度転換して、女性のなかに飛び込めるのか。不安がなかったわけではない。しかし自衛官を辞めると決心した瞬間から、美容師になることが新たな夢となった。
「それから半年間、上官に説得されるんです。管制官というのは育てるのに莫大なお金がかかっている、と」
 自衛隊としては当然である。国民の税金を使って、身体適性と明晰な頭脳、判断力を持った管制官を候補者のなかから絞り込み、徹底的に育てたのだ。これからようやく活躍してもらうというその時に、辞められてはたまらない。説得は丸半年間、つづいた。しかし、原田の決意は変わらなかった。

考える、工夫する、準備する

 山野美容専門学校に入学したのは、二十一歳の春だった。学費は自衛官時代の貯金でまかなった。同級生は三歳若い。原田の弟と同い年であった。
「違和感、ありました。でも自衛隊にいたときも、自分より年上だけど階級が低い人がいたんですよ。大学を出て社会人になってから、自衛隊に入ってくる人たち。世の中にはいろんな人がいるんだな、と」
 原田は級長を任された。社会人の経験者として、クラスをまとめる。その役割を、原田は進んで受け入れた。
 原田は、必死だった。美容師になるために、日々懸命に取り組んだ。しかし、美容師への道も平坦ではなかった。
「手先は不器用です。だから人の倍以上練習しないとダメでしたね」
 原田は毎日、ウイッグをアパートに持ち帰った。ロッド巻き。髪がぴんぴんと跳ねる。まっすぐにも巻けない。あるとき、実家に戻った原田は母親に教えを乞う。すると母親の巻き方は、美容学校の先生の巻き方と微妙に違うのだった。それは大きな発見だった。巻き方が統一されていないのであれば、自分が最も巻きやすい方法を開発しなければならない。そこから、原田は研究を開始するのである。
「早くなる方法を考えるんです。ウイッグを普通に水で濡らして巻いたときと、トリートメントをしたあとで濡らしたときとの違い。ペーパーをどこに置くか。どう入れるか。コームで一発で取れる状態にしておけば、二回やるより早くなりますよね」
 さらにゴムの位置。ロッドの順番。
「段取りを組む。自分の周囲の環境を整えて、準備をしっかりして、スタートする。つねに考えて、工夫していないと、ぼくは遅れてしまう」
 一年間。原田はつねに考え、工夫しながら美容という新しい世界にチャレンジした。就職は、東京の雪が谷大塚にある美容室。山野の先生は原田にこう言って、その美容室を紹介した。
「あなたは原宿とかで若い人を相手にするよりは、もっと幅広いお客さまをやってるお店のほうが合ってると思う。ベーシックな技術もあるし、七五三だったり、成人式だったり、いろんな技術を身に付けた方がいいと思う」

美容師の修業

 入店すると、確かに技術は幅広かった。なかにはシャンプーしてセットして、逆毛を立ててスプレーして、そのまま帰って二週間後、再びシャンプーのために訪れて、帰っていく。そんな昔ながらのお客さんもまだ、雪が谷大塚には存在した。
「ホントに幅広い技術を学ぶことができました。教育のカリキュラムもしっかりしていましたし、基本的な技術から成人式デビューくらいまではしっかり教わりました」
 不満は、なかった。むしろ感謝していた。尊敬できる先輩もいたし、その人を目標として頑張った。ところが教育期間も終わり、デビューを果たし、後輩の指導を始めるころになると、原田のこころに微妙な変化が現れる。
「なんか足りない」
 そう思ってしまったのだ。
「ヘアだけでいいのかな、と。雑誌を見ても、ヘアのことだけしか見ていない自分がいるんです。周りはまったく見ていない。それでいいのかな、って」
 美容師は、女性をきれいにすることが仕事だった。だけど原田は、ヘアのことしか見ていなかった。確かに、ヘアのプロは女性をきれいにする。しかし女性はメイクもするし、洋服も選ぶ。
「メイクもわかって、洋服のこともわかって、トータルコーディネイトできたらもっとすごいな、と」
 欲が出てきた。もっと、もっと。
「あんまりお店を替わるのは好きじゃなかったんです。友だちが原宿とか青山の有名なお店に入って、若い女性ばかりカットしてたりすると、ちょっとうらやましいなという気持ちもありました。だけど今はここで修業しなきゃいけないんだ、と」
 修業‥‥。
「そういうイメージ、ありましたね。ここで今、やらなくちゃいけないことがある」
 時代は九十年代半ば。美容はブームに乗りつつあった。原宿に、青山に、スポットライトが当たり始める。だけど美容師はオールマイティーに技術を駆使できるべきだ。それが原田の信念だった。だからこそ、メイクにもファッションにも、視野が拡がる。
「自分をいじめるのが好きだった。自分で試練を見つけて、チャレンジして、乗り切ったら幸せがくる、と。周りが騒いでいるぶん、いまはここで鍛えないと、頑張らないと、次に行けない」
 やはり、修業であった。

text by Takashi Oka(岡高志)


と、いうわけで自衛隊を辞めて、美容師になり、サロンワークを始めるまでの前編を読んでいただきました。

次回、後編は、サロンを辞めてヘアメイクアップアーティスト養成スクールSABFAへの入学から、ヘアメイクアップアアーティストの道を進み、JHA受賞を果たすまでのお話になります。

是非、楽しみにしていてください。
ではでは! 皆さんお体ご自愛ください!
こちらHPになります!ご興味のある方は是非‼️ https://www.haradatadashizenbu.com


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クリエイティブ道場!
⭐️ヘアメイクアップアーティスト原田忠のクリエイティブに関わるアレやコレを徒然なるままに記事化してます‼️ ご興味のある方は是非😉 まとめサイトはこちら➡️https://lit.link/tadashiharada