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幽体離脱には遠すぎる 【ショートショート】

市街地からほど近い河のほとりの音楽堂。
ステージを飾る白熱灯の点滅と、雲を照らす満月の光。
歌い手はステージを駆け回り第一部を終える。観客は余韻に浸り思い思いに身体を揺らしたり、スパークリングワインを飲んだり、川縁で寝転んだりしている。

僕は自分の視力を疑いながら一点を見ていた。
舞台の前の砂地に並ぶ長椅子の右端に、そっと座る細身の女性。
デトロイトに移ったはずの後輩だ。
近づいて確かめて声をかけようと心に決めたところで、第二部の開演。

地方都市の郊外のライブハウスで僕たちは出会い、イベントに参加したり、楽曲を送ったりする間柄だった。音楽好きの仲間たちとの時間はゆるく温かく、濃密なわりに気楽だった。話しているうちに、彼女が同じ学部出身で同じサークルの後輩でもあったことがわかった。音楽評論のサークルのOBとOGで、話題は尽きなかった。素性とか細かいことを知るよりも前に、感覚や感性で結びつく部分があった。

夜の秋空にまるみのある音が拡がり、星はそれに応えて瞬いた。カルガモの家族も、通りがかりの野良猫も、土手の上の街路樹さえもひっそりと耳をすましているようだった。深く響く声は高音域でも変わらずに、独自の質感を発揮する。手触りのいい綿みたいに軽やかなポップスのカバー、交響曲のように重厚なオリジナル。そして、鎮魂と祈りのレクイエム。

後輩は横顔で笑いながら、ときおり水晶みたいな涙を光らせながら聴き入っている。どの聴き手も、それぞれの記憶や展望に思いを浸している。同じ空間にいて、別々の世界に旅立ち、どこか似通った心地よさを好んで共に味わう、ライブ特有の整然とした自由。僕がたまらなく好きなもののうちのひとつだ。

終盤、ステージを降り、皆と目を合わせながら客席の間を縫うように歩くシンガー。天に拳を上げる彼に、さまざまな形のピースサインで応える人びと。そのなかにいる彼女に気がつき、彼は驚いた表情で目を合わせる。やがて大きく静かに微笑み、ウインクをして舞台へと戻る。「またあとでね!」の意を、僕は感じ取る。

後輩が本業(というと、彼女はいつも少し怒った)の関係で北米に転居したのと同じタイミングで、僕も転勤することになった。以来、歌い手を続ける彼のライブがあるときに、この街を訪れることにしている。僕も彼と同じように「またあとでね!」と心のなかで強く思い、3種盛りみたいなアンコールを心ゆくまで楽しんだ。

閉幕後、数十名の観客が会場を後にして、僕たちは灯を落としたステージの下で手を取り合った。再会を祝い、矢継ぎ早に近況を伝えあった。ほかの仲間たちも一旦帰ってから来ると言っていたから、と話しながら彼の目は彼女を探していた。僕も、同じだった。彼女の姿は、滴るような夜の闇に消えていた。

懐かしいメキシカンバーに集合して、僕たちは歌い手の彼を労い、今よりも少し若い頃の思い出や、性懲りもなく語り合う将来のビジョンに身を浸し、大学生のように瑞々しいひとときを過ごした。彼女がその場にいないことを、誰もが少し物足りなく寂しく思っていたが、楽しい雰囲気に飲まれていたせいもあって、どうということもなかった。

遠く離れた異国の地から、彼女の訃報が届いたのは翌年のことだった。

ちょうど秋ごろ息を引き取っていたという。死因は不明。
昨年中に、海外渡航の履歴はなかったらしい。
シンガーの彼と僕のあいだでは、幽体離脱の説が有力ということになっている。
半分イメージの世界で生きてるような人だったから、それくらいできてもおかしくない。笑い話に変えることで、一生抜けない「かえし」付きの哀しみの、その痛みを和らげたのかもしれない。ことばで論じることのできる魅力とは一線を画する、あの奇妙な笑顔の破壊力。家族でもない、いうほど長い付き合いもない、いつも同じ郊外の店でしか会ったこともない、でも確かに僕らにとって彼女は凄まじい存在感を持ってそこにいたのだ。これまでも、ライブの夜も。
だから初めからいなかったと思うのには無理があったし、したくなかった。

いるはずのない彼女が、あの河原の屋外ステージに来れたのは幽体離脱しかないじゃないか、と彼は大いに酔っ払い、泣きながら言った。戻ろうと思ったら身体が死んでしまっていたのかな、僕は答えた。目を赤くしていたかもしれない。
身体から抜け出して遥々ここへ来た彼女。遠く遠く海を越えて帰国して、さて息をしようと思ったところで肉体が機能を停止していたなんて、どんなに驚いたことだろう。多大なショックを通り越したあと、肩をすくめて諦めたのかな。

秋の切ないセットリストに混じって馴染んで、涙の成分で満ちていたレクイエムの一曲が思い起こされた。

薄紫から濃紺の、低く深く濃く重いメロディーライン。
目を閉じると、砂粒みたいな金色が飛び散った。

溶けそうにない粉雪が、夜空を少しづつ埋め始める。


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