イルカと話す少年の日誌
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美しい街のはずれの小さな森、
樹々の間を縫うように歩み進む。
最後の木の枝のさらに奥、
視界が一気に開けたら、
白い白い浜辺と、青い青い珊瑚の海。
急斜面を前のめりに下りきる。
砂がつくのも気にせずに、
少年は寝転び空を仰ぐ。
聞いたことのない鳴き声を耳にして、
澄んだ浅瀬に身体を向ける。
陶器のように滑らかな体表、
水分を含んで潤んだ瞳、
前鰭を振る動きは人間の挨拶にも似て、
高い清らかな声を響かせる、
まだ若い、イルカの雄。
少年の住む街はその国の首都の近郊で、
両親は勤勉で善良だったので、
豊かさも快適さも十分の、
貨幣と引き換えにたいていのものは手に入る暮らしを、彼らはしていた。
遠い過去、
惑星ごと水の膜に覆われる前の時代、
紙幣が力を持っていたらしい。
少年はそれをスクールで習った。
画面の向こうに広がる太古のような、世界。
国と国に境があった、何世代も前の人類の歴史。
種族間の境界だけが、区別と差別の源泉になった。
豪速で発達した翻訳機も、種を超える力には届いていない。
少年は耳を澄ますことに集中した。
声は脳の深く、意識の底に跳ね返った。
それを掴み、握手するようにそっと握ると、
伝搬してきたのはただの挨拶だった。
"HELLO"
その文字は語った。
旅してきたのだと。
遥か南、赤道よりもさらに向こうの大きな大陸の海から。
虹の架かる熱帯の森、
浜を染める夕暮れのピンク、
大地に潤いを与えるスコールの水飛沫。
ダイレクトに入り込むイメージは色や香りを伴う情報の粒のように、
少年の内側を照射した。
言葉はたったの5文字だった。
世界が凝縮されていた。
少年は、
立ち上がり、
走り、水に飛び込んだ。
イルカは、
泳ぎだし、
笑うように共鳴した。
少年も伝えた。
陸地の花々や、
目を見張るような建築物の数々のことを、
イルカに。
知っている、
とイルカは言った。
見たことはないだろう、
と少年はかえした。
言葉ではない方法で、
彼らは会話した。
水中で。
少年が、
初めて泳いだ日だった。
熱くなった身体を冷やす海水の心地よさも、
見たこともない珊瑚の林の鮮やかさも、
蝶のように舞う魚たちが反射する陽の光も、
なにもかも初めてだった。
こういうときにはアドレナリンという物質が、
たくさん出ると少年は知っていた。
でも、そうするとどんな感じがするのかは、
まだ知らなかった。
嬉しくて、
楽しくて、
満ち足りて、
わくわくして、
その体験は、おやつにも、夏休みにも、誕生日やクリスマスにも、
よく似ていた。
そしてなによりも、
生まれたときとよく似ていた。
少年は、
もう二桁の歳になっていた。
しなければならないことがたくさんあった。
国境のない世界で遂行すべき任務があった。
明晰な頭脳を持ち、
潤沢な資産に恵まれ、
温厚な性質を最大に生かし、
抱えきれないほどの期待と、
背負いきれないほどの人望と、
失われることのない自身の衝動と、
応えなければならないものがたくさんあった。
少年は、陸に上がった。
水を払い、
子犬のように頭を振り、
飛沫は辺りに散って、乱反射した。
小さな虹がいくつも架かり、
そこにまた新しい小さな世界がいくつも広がった。
生まれたままの姿で、少年はいたかった。
文明は、いつの時代も繰り返す。
栄枯盛衰は、個体の歴史のそれに似て、
終焉を迎えるという点においても同様だった。
終わりは始まり、始まりは終わり。
実のところ、イルカにも同じようなことがあった。
情報端末に記録されるよりも昔のあの頃、
もう少し獰猛な姿で、捕食者として繁栄していた。
陸地に生きる夢を見て、
ある者が、それを試みた。
大変な苦難を経た。
皮膚は乾き、割れ目を潤す海水もなく、
なにも掴めない前鰭と、歩くには相応しくない後鰭。
それでも、
指のある手と、肉球と、体表を保護する毛皮を、
次世代も、その次の世代も得ることになった。
水中に残った者もまた、発展した。
すいすいと、七つ以上の海を航行した。
大海の賢者は陸地を繋ぎ、
安寧の時代を構築した。
異種間の邂逅。
それぞれの選んだ道のさらに向こう、道は必ず繋がっている。
どこか懐かしい、
なぜか麗しい、
そして少し愚かしい、
憎めない、別の生き物。
そっちはどうよ?
現在晴れ模様。
雨のち曇りのち晴れ。
本日晴天なり。
元気にしていたのかい?
ぼちぼちでんなあ。
小耳にはさんだんだけど、
そうそうそういえば、
なんだよじっと見て、
それはなんの意味なんだ?
やるじゃないか、
いい声してるな。
言葉よりも、肌で交信を。
考えるのも、感じるのも、思い起こすのも、
電子信号より崇高で、リアルで、豊かなこと。
大人になった少年は、思いの全てを電子知能で文字化させた。
できごとの全てをデータとして記録した。
何千年向こうの国に、光のような速さで伝承した。
暗号のような配列で、数字とアルファベットは無限の物語を綴った。
言語よりもアートのような外観で、ブックカバーに採用された。
学者を目指す若者たちに好評の。
新緑溢れる森を抜けて、
少年は走って浜辺に出る。
つんのめって、転びそうになりながら、
賢そうな知性をたたえた横顔で、
好奇心に満ちて、
楽しそうに。
電子配列のブックカバーをかけた文献は、
父親からの贈り物。
父親は、そのデザインの考案者。
走って駆け抜けて、最高のビーチで少年は出会う。
同じ個体?別の誰か?それは大した問題にならなくて、
同じ種族は根っこのところで繋がっているから。
水棲のつるりとした肌の哺乳類は、また笑顔で話す。
言葉は5文字。
"こんにちは"
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