死にたいと検索する癖。

私はふと死にたいと思うことがあり、そんな時に、safariやYouTubeで"死にたい"と検索する癖がある。
特に死にたいと思う瞬間というのは、人からどう思われているかを考える時。

人からネガティブなことを思われることが反射作用的に恐怖と結びついているというか、胸が高鳴る。
恥ずかしい、という感情が一番。もうやめてくれ、という言葉がそれに続く。
このnoteやYouTube活動で、いいねがついたり、いいねがつかなかったり。
その度に私は怖いんだ。人が怖い。
誰からも何も思われたくない。誰かの記憶の中で存在していたくないんだ。

でもだからと言って文章を書いたり活動を辞めたいとは思わない。
私のような性質を持っていながらも情報発信を続けることで何か少しでも伝えられるものがあるかもしれないから。

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今、YouTubeで曲を聴いていて、ふと記憶から羞恥心が連想され、発作的に"死にたい"と検索した。
すると、こんな画面が出てくる。

私は、これにかなり助かってる。
心をワンクッション置かせてくれるこの機能は、自分の感情を俯瞰するのに役に立つ。

感情に呑まれている状態から検索して、関連動画がばーっと出ることを脳はオートで予測するんだけど、実際には出てくるのはこの画面で、「出たよこの画面」という気持ちになる。
それが私を冷静にする。
だってその時点で自分の心・感情から、外部の情報(この画面)についてのことへ思考が切り替わるから。

そこから、あとは気を抜かずに、再びネガティブな感情を想起させないようにする。
「あぶねー」心乱すところだったよ。

別にネガティブな感情が起こることは悪いことではない。その時点では善でも悪でもないんだ。
問題なのはその感情に、理性までもが呑まれてしまう状態になること、心の制御がきちんと行われないことだ。
私はそう思っている。

なぜなら心を無にするとか、ネガティブを感じないというのはありのままの自分を認めずに蓋をすることになるから。
あくまでその感情が起こることは認める。
認めるというのはポジティブなアファメーションをするというよりは、ただその感情の側に居てあげるイメージ。
そうして次第に溶けていく(流れていく)。

そういった心の制御を行なっていく。
けれどそうしなくても今回はYouTubeの機能が私の感情を止めてくれたので、それがなんだか嬉しいような、面白いような感情を持ったので、今回それを書こうと思った。

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流れて消えてしまった感情をわざわざ想起してまで感じ切る必要は、私はないと思っている。問題として立ち塞がった時、然るべき時でいい。
また、その死にたさも自分の一部なのだと愛しく思う必要もないし、本来の私自身というのは感情とは別個のものであることを自覚していると心が楽になる。
私たちは自由に、そのままに生きてやがて死ぬという現象だ。


多くの人はこの機能をどう思っているだろうか。
人によっては助かったりすると思う。
でも実際の動画に「ご自身の責任において視聴ください」みたいなテロップ、あれは過剰すぎるというか、本当に危険な動画だけでいいと思うけどね。

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