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慰霊(いれい)の日

6月23日は慰霊の日。
第2次世界対戦時に唯一、住民を巻き込んだ地上戦となりかけがえのない多くの命や文化遺産を失った沖縄。その20万人以上の御霊への慰めと世界の平和への祈りを捧げる日です。「慰霊の日」について綴ってまいります。

慰霊の日のはじまり

慰霊の日は、現在では6月23日、沖縄県の定める休日で戦没者追悼と平和を祈る日として県民に浸透しています。

沖縄県『慰霊の日』を定める条例
1974年10月21日条例第42号

はじまりは、1961年(沖縄戦終結から16年後)アメリカの統治下にある琉球政府時代の独自の休日として制定されています。琉球政府立法院において、当初は日本軍の組織的な戦闘が終結した日、いわゆる第32軍牛島司令官が自決した6月22日が採用されていたようです。

その後、1965年の立法院議会で「住民の祝祭日に関する立法の一部を改正する立法改正」により6月23日に変更。1972年の日本復帰により「国民の祝日に関する法律」が適用となり、「慰霊の日」は休日から除外。1974年に沖縄県が独自の条例をつくったという背景があります。

毎年6月23日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が開かれ、多くの方が戦没者の追悼と平和の祈りを捧げています。

平和を考えるきっかけ

この慰霊の日にあわせて、沖縄県内の公立小中学校ではあたり前のように平和教育が行われます。私が小学校の頃ももちろんですが、その慰霊の日を継承する期間が一年で最も辛かったことを今でも覚えています。

戦争で無残にも破壊された町、横たわっていたり積み上がる死体の数々、壕の前で怯える人々...その戦争の恐ろしさや酷さを伝えるパネル展示がされ、その過酷ですさまじい戦争を生き抜いた方達をゲストスピーカーに招いての講話会など。感受性が強いのか、その状況にすっぽり自分が入ってしまう感覚になり、身体が反応し気分が悪くなりその空間に居られなくなり保健室へ行くことも多かったです。

そんな一年で最も苦痛な週間に、小学校6年生になると課外授業で「ひめゆりの塔」という映画鑑賞をすることに。ひめゆりの塔は、戦時中の学徒疎開での対馬丸のことや、師範学校の女子が看護士の応援部隊として戦争の最前線で命の限りを尽くした足跡等を描いた作品。事前学習での先生からの話を聞くだけも怖かったのですが、なぜかその後「これに目を塞いじゃいけない、しっかりと事実を知らなくては」とスイッチが入れ替わり、泣きじゃくりながら映画鑑賞をしたことを思い出します。

それからでしょうか。私自身が平和に対する学びや行動について意識が向いたのは。平和であることは万人にとっての共通の願い。それを求めて戦うのではなく、対話をすることが大事。戦争や震災、このコロナ禍での経験や浮かび上がった課題は、次の時代に活かしてこそ、そこで儚く散ってしまった命への敬意にもつながる。それを伝え続けることって大事なんですよね。


慰霊の日をも風化させないように

そんな「慰霊の日」ですが、今朝の地方紙沖縄タイムスをみて少し驚く記事が。その見出しは

全国75.5%の人たちが知らなかった沖縄の「慰霊の日」 きょう沖縄戦から76年

沖縄タイムスとヤフーの共同アンケート(全国2000人の回答者)によると、4人に3人は「知らなかった」という。沖縄県内でも戦争や平和、「慰霊の日」含めてその伝承や教育が風化していることを危惧していますから、全国を含めるとそれ以上であることは残念なことです。

全国的には終戦記念日が中心となるため、沖縄戦に関する報道も沖縄と全国では差がある。全国の人たちが沖縄戦のことを目にしたり、耳にしたりする機会は少ないため、「知らなかった」という数字が大きくなったのだろう。報道のあり方にも問題があると思う。

全国の状況もさることながら、私自身は自分の足元から。少しでも子どもたちに伝えることを、また人が集う場で話題にすることを意識したいなと改めて思うところです。

何よりも、世界が平和でありますように。
平和であり続けますように。



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