評/2024年1月25日

「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい

笹井宏之「ひとさらい」



俺が短歌を始めるきっかけになった忌まわしい歌の評を今からしようと思います。暇だから。この歌に出逢ってなければ短歌なんて詠まずに済んでたのにという憎悪と感謝でいっぱいの一首です。
短歌そのものをほとんど知らなかった俺が如何にこの歌に衝撃を受けたか、多分どれだけ言葉を尽くしても語り終えることはないと思う。それでも何かひとつだけ挙げるとしたら、飛躍。俺は未だにこの歌ほど見事な飛躍を知らない。人類が、言語が辿り着けるひとつの極致がこの三十一文字にはある。
上の句の情景だけでも美しいのは言うまでもない。点字をなぞる、という動作。それはきっと誰でも想像ができるし、実際に(義務教育の一環などで)行ったことがあるものだろう。あの静けさ。目に入る文字ではなく、声として出るそれでもなく。そっと触れて理解するもの。点字。
その点字が示す「はなびら」という四文字。この情景の美しさが浮かんだとき、"それ"が見えたならばそのまま視覚的な方面に下の句を紡いでもなんの不思議もない。実際大半の歌人はそうするのではないだろうか。それほどまでに上の句だけで完成した風景がある。
しかし笹井宏之という天才は軽やかにそこから飛び立つ。上の句と下の句のあいだに空白をひとつ置く。そして、「ああ、」という感嘆詞から導く。「桜の可能性が大きい」と。桜の可能性。ふざけんなよ、どうやったらそこに飛べるんだよ。意味わかんねえ。
そのたった一文字の空白。それが受け手に伝えるものは、詠者が「はなびら」という点字をなぞったときに桜の可能性に思い至るまでの一拍。詠者自身もその飛躍に自己を超えたものを感じている。それは「ああ、」という二文字の感嘆詞に表れている。ていうかたった二文字で表している。なんだこいつ。
断言するが凡百の歌人だったら「この飛躍に辿り着いた自分」という自意識に振り回されて品の無い装飾をしたくなる。しかし笹井宏之はそれをしない。まるではじめからそこにあったかのように無造作に言葉を置く、置きやがる。それがより一層、飛躍を演出する。強調する。読み手を誘う。
「はなびら」という点字をなぞって、笹井宏之は思う。「桜の可能性が大きい」と。決して「これは桜だろう」ではない。可能性が、大きい。揺らいでいるものを揺らいでいるままに受け止める姿勢。読み手を勝手に自分の飛躍に付き合わせておいて、着地点は示さない。あくまで彼は「可能性」だけを示す。
ゆえに読み手は深みに嵌る。「自分だったら何の花だと思うだろう?」と。そしてまんまと追体験をさせられる。言葉と言葉のあいだを軽やかに飛び越える喜びを、半ば強制的に。少なくとも俺は追体験させられた。そのせいで歌を詠み始めた。俺が歌を詠み始めたときには既に笹井宏之は故人だった。
おいふざけんなよ、なに死んどんねん。お前のせいで短歌なんていうものを始める羽目になったのに文句を言おうにも既にこの世に居ない。いやマジでふざけんなよ。誰に文句言えばええねん。勝手に死ぬな、責任取って生きのびろマジで。
歌の評から俺の憎悪に話が変わってしまった。閑話休題。評に戻る。
俺はさっき「上の句だけでも情景として美しい」と述べたが、それは下の句についても同様のことが言える。ひとりの人間が「桜の可能性」に思い至ったというその感動。不意の美しさに思わず息を呑むひとりの青年。いとも容易く目に浮かぶ。まるで隣でそれを見ているかのように。
上の句と下の句、それぞれがそれだけで鮮やかに情景を想像させるほどの美しさを持ちながら、なんとも始末の悪いことにその二つが見事に接続している。「短歌ってこんなにおもしろいんだ、美しいんだ」と誰もが思うだろう。サラダ記念日しか知らなかったな。自分にもつくれるかな。つくってみよう。
あまりにも美しい、完璧と言っても何の問題もない飛躍は人々の心まで軽やかに飛び立たせる。まるでそれこそが言葉そのものが本来持っている力かのように錯覚させる。点字を超えて、桜を超えて、三十一文字を超えて、「可能性」は万人に開かれる。この歌はそういう最悪の力を持っている。
俺の評はここで終わり。この歌に出逢わなければ、マジで、本当に、マジで。ふざけんなよ。俺はもう「はなびら」という文字を見るだけで、「点字」という言葉を聞くだけでこの歌を思い出す。こんなもん呪いやんけ。おかげさまでまんまと歌を詠み始めもう7年目だ。以上、おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?