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個人の尊厳を認め権威を認める

松下幸之助 一日一話
11月17日 権威を認める

一つの会社の経営でも、また個々の責任者が一つの部署を運営する場合でも、そこにみなが認めるような権威というものを求めて、それに基づいて事を成していくことが能率的、効果的な運営をしていく上できわめて大切だと思う。

会社の創業の精神、経営理念なり使命感、あるいは経営者自身の人徳なり熱意、そういったものをみなが得心して権威として認めるようになれば、物事が能率的に治まっていく。今日では権力というものを否定する風潮が強く、さらにそれが進んでいい意味の権威までも認めないような傾向もみられるが、それはかえって非能率を生むものであるとも言えるのではないだろうか。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

松下翁は権威を認める理由を「社員たちは愚である。だから、この愚かな社員たちに意見を聞くよりは、偉大なる一人の社長の独断独裁によって経営が行なわれることが、もっとも望ましい」と仰っているのではなく、「社員たちは仕事を離れれば、自分と変わらない独自の優れた賢い人間たちであり対等であるからこそ、仕事の時は、それぞれの役割にある責任を明確化して効率的に仕事をするのがいい」と仰っているのではないでしょうか。換言するならば、企業におけるMVVを礎とした「ディシジョン・メイキングのプロセスに対するコンセンサスビルディング」を求めていると言えます。

松下翁は、米国式の価値観や働き方を実際に目の当たりにして感じたことを以下のように仰っています。

私は近年、三、四回ヨーロッパやアメリカへ行って、いろいろな工場を見たけれど、アメリカの感じは、みんな明朗だ、ということだ。民主主義の国だから、社長も現場で働いている人たちも、みんな親しみ深く自然にやっている。お互いに人間同士のエチケットはわきまえているがそれぞれ個人の平等感が強い。私がアメリカの工場で働いていたら、おそらく上役も部下の人も「幸ちゃん」というにちがいない。社員が社長をそう呼んでも不思議ではない。ところが日本でそんなことを、やったら大変だ。「何や生意気な奴や」ということになるだろう。そのくらい、アメリカではお互いの間が自然でザックバランである。かりに社長がニックネームで呼ばれたからといって、社長の権威が損なわれるわけでもないし、社長を馬鹿にしているのでも何でもないというところはだいぶ気が大きい国である。

しかし仕事の責任を追求するのはきわめてきびしい。当たり前のことだが、与えられた仕事を果たすことが人間の尊い義務なのだから……。しかし仕事を離れたら一切が平等なのだという。その原理をちゃんと知っている。日本人は地位の高い人を見ると「偉い」と思うけれども、こういう考えは自分で自分を窮屈にしてしまうものだ。

私は怖さを感じないで働けるような会社にしたいと常々思う。社長がコワイという気分があるのはよくない。威厳や力だけで部下を引きずっていこうとしても、かえって能率を下げることになる。皆が自主的に働けるような、お互いの理解と協調が第一に必要だ。日本にはまだ封建思想がのこっているから、一朝一夕には直らないかもしれないが、これからは若い人たちにどんどん仕事をやってもらわなければいけない時代である。…
(松下幸之助著「物の見方考え方」より)

社会的な地位の高い人が偉い人なのではなく、立場というものは他者よりもその役割に適している人、つまりはそれぞれが適材適所の仕事を遂行し、それぞれの立場に相応した責任を果たしているだけであり、偉さは変わるものではないと仰っている訳です。換言すると、地位の高い人でも、その地位に応じた責任を果たしていないのであれば、偉い人ではないということでもあります。逆に、上司に恵まれず下坐行をしながらも自らの職責を果たしている人は偉い人であると言えます。恐らく松下翁は、ご自身以上に社長に適した人間が居たならば、自ら社長を辞するか、或いは、その人間の下につく降格を望まれたのではないでしょうか。そこに偉さがあるとも言えます。

また、松下翁は独裁政治、権力政治の批判に加え、民主主義の大切さを以下のように述べています。

 大衆は愚衆である。だから、この愚かな大衆に意見を聞くよりは、偉大なる一人の賢人があらわれて、その独裁によって政治が行なわれることが、もっとも望ましい――かつての大昔、だれかがこんな考えを世に説いて、それが今日に至るも、なお一部には、達見として尊ばれているようである。
 たしかに大衆には、こうした一面があったかもしれない。そしてこうした考えから、多くの誤った独裁政治、権力政治が生み出され、不幸な大衆をさらに不幸におとしいれてきた。しかし、時代は日とともに進み、人もまた日とともに進歩する。今や大衆は、きわめて賢明であり、そしてまたきわめて公正でもある。この事実の認識を誤る者は、民主主義の真意をふみはずし、民主政治の育成を阻害して、みずからの墓穴を堀り進むことになるであろう。
 くりかえして言うが、今日、大衆はきわめて賢明であり、またきわめて公正である。したがって、これを信頼し、これに基盤を置いて、この大衆に最大の奉仕をするところに、民主政治の真の使命があり、民主主義の真の精神がひそんでいると思うのである。
 国家繁栄への道も、ここから始まる。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

大衆を社員、政治を経営と置き換え「今日、社員はきわめて賢明であり、またきわめて公正である。したがって、これを信頼し、これに基盤を置いて、この社員に最大の奉仕をするところに、民主的経営の真の使命があり、民主的経営の真の精神がひそんでいると思うのである。」として良いのではないでしょうか。

経営学的には、トップダウン式の意思決定構造が最も業務をスピーディかつ能率的に遂行することを可能にすると言えますが、その必須条件として指導者なり責任者なりが、人格者としての徳を有していることが求められていると言えます。「この人は私よりも人間的に優れているから言うことを聞こう、付いていこう」といい意味での権威になる訳で、ただ単に役職や年齢が上だからという理由だけでは、素直に言うことを聞こうとならないのが人間というものではないでしょうか。

人徳が低く地位と器がそぐわない人間が、指導者や責任者であった場合、「この人の言うことを聞かないと後々めんどくさいことになるから、一応言うことを聞いておこう」と、一見するとトップダウン式で組織が機能しているように見えますが、悪い意味での権威や権力となってしまい、決して能率的な結果には繋がりません。むしろ、非能率の結果に繋がってしまいます。

中には、自分は経営者や責任者であるから、立場が下の人間よりも自分の言っていることの方が正しく偉いのだと主張する、権威を履き違えた人間もいますが、徳を背景としたいい意味での権威の扱い方を心得たいものであると私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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