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寛容の心で包含し畏れられる

松下幸之助 一日一話
11月20日 寛容の心で包含

世の中にはいい人ばかりはいない。相当いい人もいるが相当悪い人もいるわけです。ですから、きれいな人、心の清らかな人、そういう人ばかりを世の中に望んでも実際にはなかなかその通りにはなりません。十人いたらその中に必ず美ならざる者も正ならざる者も入ってくる。そういう状態で活動を進めているのが、この広い世の中の姿ではないでしょうか。そこに寛容ということが必要になってきます。

力弱き者、力強き者があるならば、両者が互いに包含し合って、そこに総合した共同の力を生み出してゆく。そういうところにわれわれ人間のいき方があるのではないかと私は思うのです。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

松下翁の仰る「寛容の心で包含する」とは、換言しますとグローバル化した社会におかれた現在の企業に求められている「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)」であると言えます。松下翁は「作為的な人材育成は成功しない」という考えを前提とした上で、経営者による「人材育成」と「人の使い方」がその会社の成否を決めると仰っています。具体的には、経営においては資本をつくるよりも人を育てる方がはるかに難しく、使命感を持った人材育成が出来るかどうかに加えて、具体的な人の使い方については以下のように述べています。

そこでは、それぞれの人がもつ特色を見出して、これを生かしていくという配慮がやはり一番大切でしょう。十人の人がいれば十人ともみな違うそれなりの特色をもっています。その特色を見出し、生かしていくようにするということです。

私が今日あるのは、そういうところに多少長じていたからではないかとも思います。私の場合、傍から見たら ”あの男はあまり優秀ではない” といわれるような人であっても、 ”なかなかいいところがあるではないか、えらい男だな” と感心することが、なんどもありました。

"あの男は、文句ばかりいっていて困るんだ" といわれていた人が、縁あって私の会社へ入ると結構がんばる。よそでは欠点だとされていたことが、うちでは長所になる。それは、短所は気にせず、長所だけ、特色だけ見て使うということがあったからだと思います。これはそうむずかしいことではないと思います。しかし、そのことによって、人が育つか育たないかということが決まる一面があるわけです。

また私の場合、かりに性格的にはあわないということがあったとしてもそれを仕事にはもちこまないよう心がけてきました。たとえあわない人でも、あの男は仕事がよくできるからというようなことで大いに用いていく。こと仕事についてはきわめて公明正大だったと思います。そういうところにも、部下の信頼を得る一つのポイントがあったのではないかと思うのです。

しかし、いずれにしても、私は、いつの場合でもきわめて真剣でした。失敗すれば血が出るわけで、毎日毎日必死で仕事をしていましたから、ほめるのも叱るのもとにかく真剣で、自分というものをそのままさらけ出していました。自分というものを化粧せずに、部下とじかに接してきたということがいえると思います。そうすることで私という人間がどういうものであるかということを、部下の人がつかみやすかったでしょうし、そういう過程を通じて、多くの人が私を助けてやろうという気にもなってくれたのではないかという気がしています。
(松下幸之助著「経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」より)

松下翁が経営において実践されてきたことは、中国古典において寛の徳を有する名君として名高い、殷(いん)の湯王(とうおう)の姿に重なるところがあります。殷の湯王は、自らを戒める言葉として「苟日新、日日新、又日新」と洗面の器に刻み込みんでいたとして有名ですが、その湯王の名補佐役である伊尹(いいん)は湯王の具体的な徳を3つ挙げています。

一、部下の諌言によく耳を傾け、先人の教えからも熱心に学ぼうとした。
一、部下として上の者に仕えるときにはまじめに職責を果たし、責任のある地位についたときには組織の隅々まで掌握していた。
一、人に対しては寛容な態度で接したが、自分については厳しく律し、しかも妥協しなかった。

最後にある「人に対しては寛容であるが、自分には厳しかった」という「寛」と「厳」の徳を有していた指導者として、「三国志」で有名な蜀(しょく)の「劉備(りゅうび)」が挙げられます。陳寿(ちんじゅ)の著した正史三国志には以下のような記述が残されています。

「先主の弘毅寛厚、人を知り士を待するは、けだし髙祖の風あり、英雄の器なり。その国を挙げて孤を諸葛亮に託して、心神弐(うたが)うなきに及んでは、 まことに君臣の至公、 古今の盛軌なり。」(正史三国志)

人間の大原則は「自分には厳しく、人には寛容に」であることですが、人間というものは放っておくと、自分のことは棚に上げ逆に「自分には寛容で、人に厳しく」なってしまうものです。論語の姉妹編とも言える「孔子家語」には次のような言葉があります。

「水至って清ければ則ち魚なし。人至って察なければ則ち徒なし」(孔子家語)

河の水が澄みすぎていると、魚も住めなくなる。人間も、なまじ見えすぎると、小さなことまで咎め立てしたくなって、人が寄ってこなくなるという意味です。

つまりは、好ましい人間関係を築く上では、根幹にかかわる部分については厳しく対処すべきであるが、小さな過失や欠点については、それとなく注意する程度にとどめておくくらいが丁度いいということではないでしょうか。

加えて、蜀の劉備が三顧の礼で宰相として招聘した20歳も年下の諸葛亮(孔明)もまた、「寛」と「厳」の徳を有していた指導者の一人であると言えます。「寛」と「厳」の徳については、指導者の理想の姿として「宋名臣言行録」に以下のような言葉があります。

「寛にして畏れられ、厳にして愛せらる」(宋名臣言行録)

寛で臨みながら部下から畏れられ、厳で臨みながら部下から愛されるという意味です。一般的には、寛で臨むと愛され、厳で望むと畏れられますが理想は逆であるとしています。

寛で臨みながら畏れられるのは、その中に厳の要素を入れておくからであり、厳で臨みながら愛されるのは、その中に寛の要素を入れておくからです。具体的な厳の要素とは信賞必罰のことであり、この「寛にして畏れられ、厳にして愛せらる」を実践したのが、諸葛亮であると言えます。正史「三国志」の著者である陳寿は、孔明のことを以下のように評しています。

「邦域の内、みな畏れてこれを愛す」(三国志 蜀書)

孔明は国中の者から、畏れられながら同時に愛されたという意味です。

孔明は、政治の基本姿勢として部下に対しては信賞必罰の厳しい姿勢で臨みながらも、厳しさの中にやさしさを持ち、更には、公平無私の姿勢を貫いたと言われています。

昨今では、SNSに起因した過度に国民を煽るメディア放送などにより、「水清ければ魚住まず」という世の中になってきています。加えて、畏れられる指導者もいれば、愛される指導者もいますが、「寛」と「厳」の徳を有し国民の手本となるような「畏れられながら同時に愛される指導者」というのは、残念ながら僅かしかいないと言えます。松下翁はその一人だったと言えるのではないでしょうか。松下翁のように素直な心で世を見極め「寛の中に熱意と覚悟と信念、厳に中に愛嬌」を持つことを目指したいと私は考えます。



中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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