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映画「銀河鉄道の父」

 今日、突然映画館で映画を見たくなり、観に行った。
 
 洋画を観たかったが、タイミングが合わなく、わたしの興味のある作品は公開されていなかった。帰ろうかと思ったとき、「銀河鉄道の父」のポスターを見つけた。わたしはこの作品に出演している森七菜さんに興味があった。以前、まちなかで彼女の出ている雪肌精の広告を観たことがあった。険しいけれど何かを決意した、そんなときにお肌は輝く!というようなメッセージをそのときわたしは読み取れた。そしてそれは彼女だからこそできる表情なのかもしれないと思い、なんだかそのオーラに個人的に惹かれたのだ。また田中泯さんも、以前からよく知りたいと思っていた方だった。ただなんとなく”ダンス”に興味を持っていた、東京に住んでいた20代前半のころ、渋谷の映画館で田中泯さんの「名付けようのない踊り」のチラシを見て、何者なのかしら…この方??と思い、その時は作品を観なかったが、記憶にとどめていた方だった。

 「銀河鉄道の父」では、わたしは予想通り、森七菜さんに圧倒的に魅了された。菅田将暉扮する宮沢賢治が高等学校への進学したい旨を一度お父さん(役所広司)に伝えたとき、断られた。しかし、森七菜扮する宮沢賢治の妹・トキがお父さんに指を一本たて、「一歩先の時代を行くお父さんだから、お兄ちゃんの進学を認めてあげて」というようなことを、あのまっすぐな瞳でいうところ、わたしが雪肌精の広告で観たあのオーラが、トキとしても発揮されていた!と思った。
 また、作品は宮沢賢治の生涯をもとに製作されたのだろうと思うが、このシーンはフィクションだったのだろうか?とも思う。というのは、女性の社会進出が叫ばれる昨今、森七菜という、映画界でも注目される若手の女優に、明治から昭和初期の時代が舞台の作品で、積極的なセリフを与えたところに、わたしは現代社会らしさを覚えた。女性の社会進出が昔よりは盛んになったが、まだまだ特に地方では、女性--特に20代--は昭和の名残りが残っている社会に取り残されているような気持ちになることがほぼ日常的にある。そんな状況のなかであのシーンは20代女子のわたしとしては感慨深かった。

 もうひとつ、トキで印象に残ったところがある。田中泯さん扮する宮沢賢治のおじいちゃんが、おそらく認知症のような状態になり暴れてしまい、家族も収めることができずにいたとき、トキが、ハッとするような厳しいセリフをおじいちゃんに向けた後、抱きしめてあげたところだ。わたしはこのシーンを観て、強いやさしさを見ることができた。厳しいなかのやさしさ。医学では治すことのできない領域に、やさしさなら踏み込めるのであろうと改めて思った(しかし、簡単に医学では治せないものを、自然療法でというわけにもいかないだろうけれど)。

 宮沢賢治の強いやさしさも見れた。作品の冒頭シーンで、賢治の父が汽車の中で話しかけた女の子の赤ちゃんを、男の子と間違えて「男の子はりりしくなくちゃ」というようなことを言う。商売人、今でいうビジネスマンであった父は、長男であった賢治にビジネスの仕事を継いでほしかったが、賢治は文士となった。ビジネスの世界では営業成績を数字で上げるために勝負をするものであろうかとわたしは思う。そしてそれは長年、強さが求められる男社会だっただろう。しかし、文章や物語もまた、ビジネスとは違う種類の強さ(やさしさ)が必要であるとわたしは今日、この作品を観て再び感じることができた。

 作品では、トキが結核となり、療養することになる。そこで宮沢賢治が物語を創ってトキに読み聞かせてあげるようになる。これがもう感動だった。生死を分ける状況になったとき、なんとかこの状況を打破したいというギリギリの状態になったとき、人は持っている力を最大限に発揮するのだろうか。賢治の場合、妹のトキのために・トキを喜ばせるためにという強い想いが後世に残る作品づくりのきっかけとなった。

 芸術のパワーはすごいと再認識した瞬間だった。

 フィクションのなかでは、現実に存在することやもの以外のことを、空想して描くことができると思う(壁抜けとか)。生死をさまよう状態とはつまり、現実世界と空想世界をさまよう状態になることなのだろうか。そんなときに、フィクションという形式で、わたしたちが日常生活で見過ごしがちな大切なことを思い出させてくれるのかもしれない。

アメニモマケズ。



 

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