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仏教とは?軽〜くさわり👍


 他宗教多宗派の方々は「仏教」について何の知識もなかったでしょうから、「仏教ってこんな宗教なんだ。へぇ〜」と読んでみてください・・・

日本人の方々は再確認して、参考にしてくださいませ。

「仏教の心」を現した歌って、やはり中島みゆきさんの「地上の星」ではなかろうか?

●あなたの隣人は前世で出会った人

「仏様って釈迦如来様、不動明王様・・・など色々おられるが、

全部で何人いるのですか?」

なんてご質問もありますが、

「皆さまがご存じの有名な仏様や菩薩様だけでも50人、主要なところでは3000人、全部合わせると何万人もおられます」と答えるのが正解なのかも?

それが未来永劫、姿を変え、心を整え、この世にあの世に存在しているのです。

「生まれた所違う。性格が皆違う。育った環境が違う」

 人間として「同じ形」をしているが、全く違う生き物なのである。




貴方の周りに「初めて会ったんだけど、昔から知り合いだったかのような・・・何かしら助けてくれる」人はいませんか?

貴方の周りに「何かしら意見が対立して、生理的に受け付けない」人はいませんか?

 人は死後49日をもって輪廻転生・・・

 「仏様」になる人もいれば「人」になる人もいれば、「犬猫」「蝉」「花木」様々なものに「命」として存在していく。

 だから「仏様」は厳密「神」では無いんです。

 現世にて「素晴らしい考えを持ち、深淵なる思いやりを持ち、人々に寄り添う」方が死後「神=仏様」となったんです。

 そう人間の昇華した形なのです。

 そして現世にいる全ての人々もまた「仮の姿」なのです。

 それが未来永劫、姿を変え、心を整え、この世に存在しているのです。


 前世に何かしら「良縁」のあった人達や「教えを与えてくれた」人たちの中から仏様が選んで、貴方が成長できるように「修行場」を用意してくれているのです。


 人と人が初めて出逢います。

でも相手もまた自分の言うことが正論だと思っています。

それでは「私」と「私」がお互いに正論をぶつけ合い、堂々巡りになるだけです。

「お互い」のボリュームを大音量にして、お互いに「うるさい、静かにしろ!」と怒鳴りあっているようなものです。

静かにしたいのなら、まず自分が「私」のボリュームをちょっと下げて、

穏やかな気持ちになるのが先決だと思うのです。

●他人を責める前にまずは自分

仏教にこんなお話があります。

ある時、お釈迦様が弟子たちに

「尖った石や小枝がごろごろ転がった道を歩くにはどうするか?」と尋ねました。

すると弟子の一人が「道を鹿の皮で覆えば、裸足でも歩けます」と答えましたが、

それに対してお釈迦様はこう答えました。


「鹿の皮ですべての道を覆うことはできませんよ。それよりも自分たちの足を鹿の皮で覆ったらどうですか」と。

道を全部・・・世の中を全て

自分の都合通りに平らにすることはできません。

それなのに、なぜこの世の中は平和じゃないんだとカッカしては本末転倒ではありませんか。

平和とは外側に求めるのではなく、自分の心の内側に見出すものだということです。


 まずは「お互いの意見を述べ合い」怒りを持たず、話し合いをする。

 自分の考えをまず臆することなく伝え合うんです。

 伝えなければ、相手は理解してくれません。

 「お互いの意見の違い」を理解し合う。

 「お互いの意見を」譲り合う 


 ここで最も大事なことは「お互いに」である。

 よく「人の道」を説かれる時、「他人を受け入れなさい」と金言のように語られますが、「お互いに」でなければ、ただの片方のマウントの言葉に成り下がってしまう。


「他人を受け入れなさい」といつもいつも折れてると、貴方自身の存在自体否定され、YESマンとして機械的奴隷に扱われてしまうのだ。

相手も素晴らしい大切な存在ですが、貴方もまた素晴らしい大切な存在なのです。


 だから一方的「譲り」は絶対ダメなのである。


 なので、双方で考える「幸せ」で論じるのでは無く、神の心の「優しいかどうか」で話し合い、結果「今回は私が譲るから、次回は私に譲ってね」とお互いを尊重し合い


 答えを導いてくださいませ。

 お互い助け合いましょう。

 お互い思いやり合いましょう。

相手も素晴らしい大切な存在ですが、貴方もまた素晴らしい大切な存在なのです。

 でも、中には「常に自分中心」のわがままな奴もおります。

 そんな方には、少し離れ冷静に事務的に対応しましょう。距離を取りましょう。絶対に甘やかしてはいけません。

 時が経てば「あ、あの時俺が悪かった」と反省するかもしれません。

 その時は、また受け入れ初めから話し合いをすればいいのです。

 またおかしくなれば、また距離をとるって感じで・・・

 

 どうしても「無理!」「許せない!」ラインまで到達すれば、その人から離れることを考えて下さい。

 その人を追い出すか?またはあなたが出て行くか?どちらか一つです。

●しかし他人を諭すべき時もある

 「立ち向かう」ことは知恵・知性です。

 暴力ではありません。

 相手の人もあなたも間違っていれば、将来どこかで反省し、「学ぶ場」が必ずくるはずです。

 今世だけで無く、来世でも・・・

 もしあなたが離れたとしても、それは「逃げ」ではありません。

 また、新たな「貴方を成長させる修行場」が用意されるだけです。

すぐに無理なら、それはお休みが必要な時です。

そうやってあなた自身「安らげる場所」を探せばいいのです。

頑張らなくていいんです。

自分に負けなければ。


「他を受け入れなさい」

「他に自分を受け入れてもらいなさい」はワンセットです。

あなたは「他を受け入れなさい」ですが

相手も「他を受け入れなさい」です。

一方通行は「マウント」でしかない。

◆私が真言宗を信仰した理由

 では教祖弘法大師空海の心に沿ってお話いたします。

 私自身、人生で挫折も経験し心折れた時、助けてくれたのも、実は「宗教」でした。

ひょんなことからお寺の修行をさせて頂ける機会を頂き「仏教とは?」「僧侶たるものの心得」などを学ばせて頂きました。

 私の好奇心により、他宗派との違いも含め「教義」を比較学習させて頂きました。

仏教において、「聖人」の昇華された方が「仏様」として信仰されています。

しかし「密教」は唯一「現存されなかった架空の仏様」として「自然神の太陽神である大日如来様」大日如来様を発明し、信仰する宗派です。

理論的には至極当然の話です。

お釈迦様はじめ数ある「仏様」はおられますが、この世界には「宇宙、自然」という人智を超えた存在が必ずおります。

それが唯一神信仰の「神様の存在」です。

 その中でこの真言宗の教祖である「弘法大師空海=お大師様」の怒涛の人生の連続、常人では理解し難い史実として、西安市の「青龍寺」の恵果和尚より「密教」を習得し日本帰国後、この「密教」を日本の神道につながる

「他を認める」、女性蔑視をも否定する「優しい教え」を確立いたしました。


「お大師様という天才はいかにして成立したのか?」という大命題を基に思考を進めていくと、どんどん引き込まれていく自分がおりました。

 なぜか?

 まず、「お大師様本人はどんな人物なのか?」という疑問の原点の興味が出発点となりました。

 まずそこが心の原点かと思います

●真言宗の教祖、弘法大師空海とは?

お大師様の父方である「佐伯氏」は、東北地方の蝦夷氏つまりアイヌ民族の一派で、アウトロー的認識をされた集団の頭領で、朝廷との戦いに敗れ京都に連れてこられた人なんです。

 ただ未知の民族?集団なので、付き合い方がわからないだけで差別、攻撃されてただけの集団です。

 源頼朝、徳川家康など「征夷大将軍」と任命されたのはこの「蝦夷氏」を討伐する大将なんです。

 これを考えると、アイヌ民族は長年に渡り、理不尽に差別され、忌み嫌われていたんだなと推測されます。

 かたや母方である「阿刀家」は代々天皇の家庭教師を受け持つ由緒正しい家系の出なのです。


 まあ現代的に言えば「任俠である組長さんが東大?学習院の教授の娘が恋に落ちて結婚しちゃった漫画のようなシナリオなのです。

任侠とは「弱きを助け強気をくじき、信義の為には命も惜しまない男らしい人」と言うべきか。

 すいません・・・

 本来お互い線引きされ交わることのない二人が一緒になり、遺伝子的に父方の「豪快さ」「荒々しさ」のDNA

と母方の「頭脳明晰」にて繊細なDNAも併せ持つそんな人物であったろうと推察されます。


 事実、「男子たる者、官吏となれ」と今の世の両親と同じような想いを胸に当時の「東大法学部」である「東大寺」に入学いたしました。

 田舎から都に上京して羽目を外したのか、歴史書物からも「女遊び」にも執心だったようです・・・

 豪快さ、明晰さを兼ね揃えた魅力ある人物である故、周囲の俗人は人の粗を探してマウントを取ろうとする。

世の常です。

その「出自」を逆手に取られ、周りの教授陣、友人らから執拗な差別を受けていたようです。

 事実「三教指帰」と言う本をお大師様は執筆しました。

 周りの儒教や道教の理不尽な教義をもって、出自でマウントを取ってくる、そんな奴らを論破していったのでしょう。

 大学の教授陣、周りの学生がマウントしてくるならば、「立ち向かいます」よね。

それは捻くれているからではなく   

「純粋で優しい心の持ち主」であるからこそ、

「国?朝廷?出自?身分?年齢?収入?」などつまらない基準でマウントしてくる「無茶な言い分を言う不逞の輩」に立ち向かっただけです。

大学教授とて「心が稚拙」であれば「不逞の輩」です。

 「マウント」が大事なの?

「出自」って、気にすること?

それが他人を蔑む理由?

人それぞれでは?

 

 大学を中退し、人生の中で数回放浪の旅「雲隠れ」の時期があったようですが、お大師様にとっては「今後の人生の戦略、心の整え」にて大切な時間であったに感じられます。

 疲れたのでしょう。

疑問符のつく理不尽なものに立ち向かうことに。

そして「新たな思想」仏教である真言宗を作ることを決意されたんです。

 

 その後、延暦寺にて天台宗を開宗した最澄は国を代表する使節団にて、至れり尽くせりの留学を終え「密教」を学び日本に戻ってきた。

 対してお大師様は私度僧、つまり国に認められていない勝手に頭を丸めて僧を名乗っている者であり20年留学する約束の一般留学の募集にて遣唐使として派遣された。

 しかし中国に上陸するも一団ごと海賊扱いされ処刑される流れのところ、中国語も皇帝のしきたりも知らぬお大師様は皇帝をも感動させる漢詩を書き晴れて中国への入国が認められたんです。

 その後密教の総本山である長安の青龍寺に入門し惠果和尚と出会い修行に励み、たったの2年で密教を習得し日本に戻る際には密教に必要な門外不出の仏具を頂いてきたんです。

 ちなみに最澄は国の使節であるにもかかわらず仏具を頂いておりません。

 後々その仏具が日本に帰国の際20年の留学をたった2年で舞い戻ってきた罪を天皇から許される流れに繋がっていくんです。

 考えてもみてください。

 当時あり得ない「他を認めなさい」と考えるわんぱくな一人の人間が、生きて帰れるかわからない遣唐使の旅を完遂し、中国で海賊に間違われ処罰されるどころか感動させる漢詩を詠み人々に語り継がれると言う稀有な存在どころかある意味「宇宙人」レベルの強烈な人物なんです。

 あり得ないレベルです。

 しかし実際実在し足跡もまた事実なのです。

 でも、人がしがらみの中で立ち回るべき「正攻法」ではなく「戯曲の文調」と言う「意表をついた対応」ではありますが、これはお大師様が真摯に自分自身ができる心のこもった最大限の対応」をしたまでなんでしょう・・・

 そうすれば事態が好転していった。

 「生かされるべき存在」

 そう、人にも天にも全ての意味において。

 そのような稀有の才能に満ち足りた人が日本ー唐の過酷で壮絶な海路を難破する事なく生きて帰ってこれた。

 偶然なのか必然なのかただ確実に言えることは「お大師さまは歴史に紛れもなく存在し日本に密教を伝え、昇華し今も人々を守り続けていると言うフィクションではなく否定することのできない事実なのです。


 ここで大事なことは、この現代に至っても

「人は皆違う。他人を認め理解する。他人に自分を認めてもらい相手に理解してもらう」と言う大事な想いが宗教には欠落しています。

 今一度、この真言宗のこの大切な思いを宗教宗派に関わらず「人の良心」に問いかけ訴え続けるべきなんだと考えます。

 遣唐使として海を渡り、長安と言う当時世界有数の「人種、文化、思想の坩堝」の中で、より強烈に想いを強め、未来永劫万人に相通じる「人は皆違う。蔑むべきではない」と言う考えが確信に変わり、構築されていったように推測します。

 それは俗世の人が嫌がりながらも受け入れて生活してしまうしがらみ、処世術など一切排除し「本当に大切なもの」「人はどうあるべきか」を究極なまでに突き詰めた人でした。

 そして真に「人の生のままの姿でどう生きるのか?」皆にとって優しい社会を築きたかったかったのだろうと本気で考えておられたのだろうと思います。


 今皆さんが信じておられる宗教宗派を大切に・・・その上で「他人の思想」も理解し思いやれる「優しさ」が「皆の幸せ」に一つ一つ繋がっていくんです。


 弘法大師空海が学んだ「密教」とは端的に言うと仏教と日本の「全てのものには生命が宿る」とする多神教の神道に近い考えをするヒンズー教が混ざり合った宗派です。

 「身体のエネルギー」「宇宙という世界観」を重視し、お釈迦様は大日如来という仏様・神様に包まれる「宇宙」の中、曼荼羅の世界の一存在なんです。

 さらにはヒンズー教の荒々しさとにて非なる

 「柔らかな精神論」の「神道論」も混ざり昇華されました。

 信仰も過酷な修行が必須のように認識されており中々理解されにくい宗派ではありますが、「他を認める」心の整え方としては世界に類を見ない素晴らしい考えかと思います。

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優しい言葉も厳しい言葉も「優しさ」👍 厳しい言葉は否定じゃない。「諫言」 相手を差別蔑視するのは「…

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