多くの時間が奪われるエホバの証人の活動

エホバの証人(以降JWと略)は人々に聖書について語り継げる伝道、集会や大会などで仲間と集まるなどの活動を行います。

私にとっては、大会は非常に多くの時間をスポイルされるものであると前回書きました。トータルにすれば年に6日間(現在は大会の日数は減っています)の時間を大会に割くわけですが、仕事をしながら、休日を大会のために使うのは中々にキツイものがありました。

伝道活動は時間を奪うため

ネットのどこかで、「伝道の様な活動は信者の自由時間を意図的に奪う事を目的としている。伝道によって信者を得られればラッキー程度の活動である」と言う見方をする人がいました。

どこか陰謀論の様にも聞こえますが、そんな気もしてしまいます。

今の時代に、伝道で人々を信者にするのは過去の時代と比べて難易度が物凄ーく高い気がします。

家を一軒一軒渡り歩くのは、効率も悪いですし、今の時代は安全面を考えると、あまりおススメできない様な勧誘の仕方です。

昔は、怪しい企業が家に訪問して商品を販売してた時代もありましたが、今の時代にそれをやっている所なんてあるのでしょうか?

時間の浪費

ボランティアの伝道活動に参加しても、基本的に「実り」である信者獲得はかなり難しいです。

私は、一人の信者も獲得できませんでした(今にしたら、研究生や再訪問先の人をバプテスマに導かなくて済んで良かった気すらします)。

信者獲得どころか、おうちの人と話をするのすら難しいんですが。そのため複数人で行う散歩になってました。

これは地味に体力と気力が削がれ、時間を浪費してた様な気すらします。伝道活動に使った時間、体力、気力を、もっと自分の仕事のスキルアップや休息、仕事の時間に仕えていたらと悔やまれます。

補助開拓奉仕(月50時間を奉仕に充てる)をしてましたが、正規開拓者(月70時間)を伝道活動に費やすまでには至りませんでした。体力に限界があり、1年以上の補助開拓奉仕を続けていた所で、体にガタが来たんですよね。

信者の時間を奪うことの何が得が?と思うかもしれません。

信者の時間を奪うことにメリットはあるのか?

信者の時間を奪う事で、JW以外の事柄がとてもしにくくなります。

JWで特に開拓奉仕を行っていない場合は、基本的に週に一回は伝道をすることが大事だとされています。

世俗の仕事をしていて、休みは週末の二日間だけとなると、このうち1日は伝道のために自由にはなりません。そして、もう1日は集会があり、結局のところ本当の意味で自由に休みを取れる日は無くなります。

休みの日に本気で休むこともできず、また、仮にレジャーとして旅行に行きたくても、伝道や集会を念頭に入れねばならないので、自分のスケジュールの自由度がかなり低くなります。

この何かにつけて、すべての事柄がJWの事柄に左右されるのが、地味~にストレスになります。

ついでに集会を何らかの理由で出られない時は、長老に申告しなければなりません。

スケジュールの自由度が低いと、他の事、例えばスキルアップの勉強のために時間や労力を割きづらくなります。

信者の時間を奪うことで、信者が他の事柄が出来なくなるのは大いにメリットとなります。

何をするにおいても、自分の思うように、自由に意思決定ができないのはストレスです。

自由があるようで無いのは、人間にとっては物凄く大きなストレスとなります。

そして時間的な事由が無ければ、心理的な自由も無くなります。

自分自身と向き合う時間すら無くなります。自分自身の心の奥の願いや思いに気づくには、なんだかんだ静かでゆったりとした時間が必要です。そして、時としてそんな長い時間が必要です。

JWは、信者に心理的に自由な時間を得る事を快くは見ないのでしょう。

時間を縛ると言う形で、信者の物理的自由を奪ってしまう事で、洗脳された世界の外に出る事を防げるからです。

JWの事柄でいっぱいいっぱいになっている間に年を取り、壮年期を迎えてから、簡単にJWから抜け出る事は難しくなります。

更に年を取ってしまえば、もうほとんど逃げる事は無くなるでしょう。

だから、「若い時をエホバに捧げ」る事が、重要となります。

仮に、ある程度年を取ってから、JWの環境から出たいと心が感じている場合は、病気になったり、物事が全然上手く回らない等、とにかく問題続きになり、JWの活動どころじゃないと言う状態まで行きつくかもしれませんね。

そして、信仰心はかなり弱まってしまったけれど、JWであり続けている人、もうJWと言うコミュニティ以外では生きれない人が出てきますね。

最終的には、全財産はJWに寄付して終わりでしょうか?

「時は金」

「時は金」なりなんていいますが、実際にそうだと感じる人の方が多数でしょう。

この貴重で高価な「金」の様な、自分の時間をJW活動のために捧げる事によって、本当に何らかの対価が得られたでしょうか?

個人的には、確かに伝道活動を仲間とすることを楽しんだこともあります。伝道活動以外の方法でも仲間と楽しむことができたであろうと考える事もあります。

伝道活動およびJWの活動によって、もたらされるストレスもまた中々大きかったです。

そして、この時の経験が今に生きているのか?と考えると、そうとも言えるし、そうとも言えないとしか言いようが無いです。








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