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愛するということを、読むということ5-大切な人を愛するための「自分ファースト」-

前回までをザックリおさらいします。
□ フロムは「愛は後天的に習得できる技術」であると説いた。
□  愛の技術を習得するためには「愛するということ」に最大の関心を寄せる必要がある。
□  「愛するということ」は自身の主体的な意思に基づく活動である。
□  「愛されること」にばかり注目するのは愛に関する誤解の一つである。
□  「愛するということ」は与えること。与えるのは金品ではなく、自身の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべて。フロムはこれらを「自分の生命」と名付けた。

 さて、今回はこの流れに沿って大切な人を愛することを始めてみましょう。唐突で戸惑うかもしれませんが、愛の技術を習得する練習ですから、恋愛に限らず「大切な人」という言葉で直感的に思い浮かぶ人を対象にしましょう。

1)「相手が私をどう思っているか」には注目せず、「私は○○さんを愛します」と自分自身に宣言します

 愛すべき「大切な人」を決めたら、「私は○○さんを愛します!」と自分自身に宣言します。「愛するということ」は自身の主体的な意思に基づく活動ですから、そのスタートは「相手が私をどう思っているか」に縛られず、自由にのびのびしていいのです。

 もしかしたら、すでに「意味がわからない」と警報が鳴っている人がいるかもしれません。「いや、自分勝手に愛するなんて、相手に迷惑だ」とか「そんなの自己中心的なヤバい奴」とか。この段階ではあくまで自分自身に対する宣言ですから、相手に対する具体的な働きかけではありません。自分勝手も何も、相手にとってはまだ何も起きていない状態ですから、ご安心を。

 あるいは「私なんかが○○さんに好意を寄せるなんておこがましい」とか「いくら望んでも○○さんは私のことなんて好きになってくれるはずがない」といった考えが湧く人がいるかもしれません。そのような方は、ラッキーです。なぜなら、そんな方にこそこの練習は役に立つはずですから。繰り返しになりますが、この段階では相手にとってはまだ何も起きていません。「相手が私をどう思っているか」が気になるのはよくわかりますが、その考えは意図的に脇に追いやって、人目を気にせず脇目も振らず、愛の宣言をしちゃいましょう。とことん自分の気持ちにフォーカスします。

2)愛する○○さんに、自分のなかに息づく何かを与えるイメージをしてみます

 宣言したら次は、愛する○○さんに自分のなかに息づく何かを与えるイメージをします。金品以外の何かです。最近私が感じた喜び。私が興味あること。理解したこと、得た知識。私が思いついたユーモア。あるいは感じた悲しみ、などなど。なるべく具体的に、○○さんに話しかけている場面をイメージしてください。○○さんはどのように反応して、二人の間でどのようなやり取りが展開するでしょうか。

 「何か役に立つものをプレゼントするならまだしも、私の話なんかしても○○さんは喜ばないよ」「私のことになんて興味を持ってくれるはずがない」「私の毎日なんて平凡で、特別なことなんて何もない」といった考えが湧いてきたら、要チェックです。このような考えは高確率で「だから、与えるのをやめよう」という結論にたどり着きます。どんな理由や背景があったとしても「与えない」選択から「愛するということ」は始まりません。

 あるいは、金品を与えることや具体的に何かの役に立つこと(たとえば遊びに連れて行くとか、身の回りのお世話をしてあげるとか)で愛らしきものを始めることもできるでしょうが、それだけでは未熟な愛であるとフロムは断じます。私が思うに、金品のプレゼントや具体的な貢献は、愛のプロセスにおける一つの手段に過ぎず、愛の本体ではないということです。本体がないがゆえに、単なる手段である金の切れ目が、縁の切れ目になるわけです。

3)大切な人を愛するための「自分ファースト」

 新時代令和になって丸3ヵ月が過ぎましたが、あえて平成の香が濃い「自分ファースト」という言葉を用いましょう。だって、わかりやすいですから。愛の前提は「まず自分」です。

 ここまで見てきたように、私たちは大切な人を自らの意思で主体的に愛し、それは「自分の生命」を与えることから始まります。裏を返せば「自分の生命」なんて価値がないという信念を固持していて、自分自身を愛していない人は、大切な相手との愛を願っても本当の愛が始まらないということになります。するとどうなるか。

ある人は、そもそも愛することを始めません(たとえその相手が我が子であっても)。

ある人は「自分の生命」の価値を高めようと、仕事や資格取得に励むという代替行動に精を出すでしょう。そうして、愛するということに割く時間もエネルギーもなくなります。

ある人は「自分の生命」の代わりに、客観的に分かりやすい金品を与えたり、相手の身の回りのお世話に勤しんだりするでしょう。

ある人は「自分の生命」の代わりに、客観的に分かりやすい収入や肩書き、外見などのステータスを高めて「愛されること」に懸命になります。

ある人は「自分の生命」に価値がないことを殊更に強調し、か弱い自分を守ってもらうという形で相手の愛を試そうとするでしょう。

 相手を喜ばせる、相手の役に立つ、相手に認められる、相手に愛される。これらはどれも素晴らしいことですが、相手にフォーカスしたこれらの状態は「愛するということ」に結果的についてきたり、こなかったりするものです。「愛するということ」の前提は、私自らが「自分の生命」の価値を認め、信じることです。俗な言い方をすれば、人からモテたいなら、まずは自分からモテなくちゃいけないよ、ということです。相手の観察や分析よりも、まず先に自分。そういうわけで「自分ファースト」なのです。

4)愛する○○さんに、自分のなかに息づく何かを実際に与えます

 「自分ファースト」が確認できたら、いよいよ「自分の生命」を愛する相手に与えます。与えることで、相手が豊かになります。二人の間に何かが生まれ、互いのために生まれた「生命」に感謝します。「愛」が「愛」を生む循環を感じてみてください。

 ただし、相手によってはせっかく与えた「生命」をしっかり受け取ってくれない人もいるでしょう。その場合ショックを受けて当然ですが、仕方のないことです。私たちは、自分のことは自分の意思で決定できますが、相手をコントロールすることはできません。あるいは、互いの「生命」に感謝したとしても、たった一人の恋愛相手、結婚相手には選ばれないことだってあるでしょう。これもまた、仕方のないことです。

 それでも確実に言えることは、私が「愛したこと」は紛れもなく存在した事実であるということです。「恋人」や「夫」または「妻」というステータスは手に入らなかったとしても、何ら間違いではなかったし、後悔すべきことでもありません。心理的、社会的にとても辛い経験かもしれませんが、大切な「自分の生命」の価値を下げる根拠にはなり得ません。なぜなら、この経験もまた豊かな「自分の生命」の一部になるから。

 最後に。もしあなたが「自分ファースト」になれていない場合、どうすれば「自分ファースト」になれるのか。今回はその大切さや価値について書いたつもりですが、方法論までは触れていません。そして、この方法論を書くことは、私にとって大変な作業です。期待外れであれば申し訳ありませんが、いずれチャレンジしようと考えていますのでご容赦ください。

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