見出し画像

デンマーク流,子育て事情

声を荒げない子育て
(本稿は以前オンラインメディアに投稿したものの閉鎖に伴い
記事を移動させたものです)
2019.7.4

「きっといい日が待っている(Det kommer en dag)」そんなタイトルに少し不安を感じながらも見始めたデンマーク映画であるが、またやってしまったと思うのにそれほどの時間はかからなかった。もう見るのやめようと見ながら思い続けて最後まで視聴し、後味の悪さが延々と残り続けるいつものパターンである。デンマーク映画は、ソーシャルリアリズムといわれるジャンルに当たる社会問題を扱った息が詰まるような映画が多く、この映画もその一つだった。

画像1

映画「きっといい日が待っている」は、1960年代のデンマークの首都コペンハーゲンの養護施設が舞台だ。コペンハーゲンの養護施設で実際にあった話を元に、当時の事実をつぎはぎして台本が構成された。当時の養護施設には、親がいなかったり、なんらかの事情(精神病やアルコール中毒が多いらしい)で親が面倒を見ることができなくなった子供達が送られる。物語は、そんな養護施設の一つに兄弟が送られることから始まるが、次第に、施設の大人から肉体的・精神的暴力がぶつけられ、果てには性的暴力が向けられる。映画の詳細については本稿では割愛するが、60年代のデンマークでは、子供たちへの暴力が、教育や指導やしつけの名の下に行われていた。家庭では絶対的な権威である親が「しつけ」として子供をひっぱたき、学校では教師は鞭で子供を叩く、立たせるなどの体罰を実施する。それが、その当時の北欧では子育てや教育には必要なことだと思われていたわけだ。

60年代のデンマークは、経済成長が見られ産業構造が大きく変わった時期と言われるが、今皆が認知するような北欧モデル、高福祉高負担の国家への移行時期であった。多くのデザインの巨匠が生まれ、高福祉国家の枠組みが整えられ、女性の社会進出、教育改革が起こった。体罰や教育的指導の名の下に行われる大人から子供への暴力行為は紛れもなくこの頃の現実だが、教育改革を経て教師は一方的な指導者ではなくなり、次第に教師は苗字でなく名前で呼ばれるようになる。そして、鞭での体罰や言葉の暴力も減少していく。

このしつけや教育という名の体罰や暴力の日常が変わっていったのは、どういう経緯なのだろう。体罰の禁止は、1979年にスウェーデンが世界で初めて法律として規定した。70年代には体罰は社会的にも容認されており家庭の約半数が体罰を与えていたというが、2000年には数%に減少したという。デンマークはその他の北欧諸国から遅れること20年ほど、1997年に「安全な養育への権利」という理念を根拠として体罰禁止を規定した。日本では、さらに20年後の2019年6月19日に改正虐待防止法が成立し、2020年4月から親の体罰が法的に禁じられるようになる見込みだ。ただ、複数の調査から、日本では、現状「しつけ」として約半数強が体罰を容認しているとされる。

今、デンマークでは、体罰が減少しているだけでなく、子育てをしている親が子供を「何やっているの!」と叱る姿を公共の場で見ることは非常に稀になっている。子供を叱らない親のイメージが湧きにくいかもしれないが、つまり、デンマークの親が子供に対して声を荒げて怒るシーンを見る機会がとても少ないと言うことだ。もちろんイタズラをする子供はいるし、泣き叫ぶ子供もいる。欲しいものがあるからと地面を転がる子供もいる。ただ、その子供を見て、「何やっているの!いい加減にしなさいっ!」と怒号を散らす大人の姿を見る機会はほとんどない。では、大人は「しつけ」として、子供達にどう対応しているのだろうか。

皆さんが今コペンハーゲンの街角にいると想像してほしい。ぐずる子供を前に皆さんが見る光景はこんなようなものである。大人は、まず、子供の目線に合わせるためにしゃがむ。そのあと、目を見て理由を尋ねる。次に、大人としての自分の意見を滔々と説明する。そして、「あなたはどう思うのか。どうしたいのか」を子供に聞くのだ。時には大人も戦略を立てて子供に相対するし、子供は子供で大人を論破しようとする。内容はどうあれ、その親子の話し合いの姿は、両者とも驚くほど真剣だ。

イメージしにくいだろうか。もっと具体的に説明を試みてみよう。
例えば、保育園に通っている子供とお迎えに行った帰りに歩いていると、子供が、「アイスクリームが食べたい」と言い出したとする。頭の中で親の私はこんな風に考える「食事前にアイスクリームを食べられても困るし、バスにも乗らなくてはいけないので今すぐに食べさせることはできない」。そこで、私は娘に言う「今は買えません」。もちろん娘は引き下がることはなく、ストライキを起こしてアイスクリーム店の前から動こうとしない。そして、娘は続けて理由を言うのだ。「アイスクリームをどうしても今食べたい。なぜかと言うと幼稚園でたくさん動いたしお腹がとても空いていてこれ以上歩けないからだ。そしてお腹が空いているのは体に良くない」。親の私は絶望的になりながら北欧流に子供の目線に近づき、理由を説明する。「今日は荷物がたくさんだし、早く帰って食事を作らなくてはならないから買うことは難しい。もっと遅くなるとバスが混むから帰るのがもっと大変になる」。理論はどうあれ説得を試みる子供の意見を聞き、こちらの考えを説明してもう一度考えさせる。この時は、最終的に、家に帰って夕食をまず食べること。食後に元気があったら歩いてアイスクリーム屋さんにいくことで合意した。

デンマークでは、子供が成人する18歳までは、大人は子供を扶養する義務がありアドバイスをする義務がある。しかしながら、同時に、たとえ保育園生であっても一人の人間としてみなし対応することが重要だと考えられている。きちんと説明すればその歳なりに理解するのであって、何よりも対話を通して考えさせ、その上で合意形成をすることが重要であるとする。親の意見を提示するとしても、親とは別の人格である子供の意見は尊重されるべきである。最終的には自分の道を決めるのは当事者本人であると言うことを幼い頃からなんどもなんども訓練し、義務と権利、責任と自由といった民主主義の基本を毎日の生活の中で教え込んでいるようだ。
日本の親は綺麗なチューリップをみたとき、子供に「綺麗ね」と話しかける。一方で北欧の親は、「チューリップだね」と話しかける傾向があると言う。綺麗であるかどうかは主観であり、感情や感覚は親の押し付けではいけないという。こんな小さな対応の背景に大きな違いが隠されていることに驚かされる。

私にとって、デンマークでの子育てが初めての子育て体験であり、周りの北欧の親子を参考に子育てをしていた。そんな私にとって、日本に時折帰国し子育て事情で驚いたことはたくさんあるが、子供に感情的に怒っている大人の姿がもっとも驚いたことの一つである。突然罵声が聞こえてきたと思ったら子供を叱りつけている親の声であったり、子供の泣き声が聞こえてきたと思ったらゲンコツが親から出てきたりする。しかも公共の場で、そしてテレビのドラマやメディアで。長年北欧で暮らし、子供への「しつけ」であると認識できない目にとっては、そのようなシーンは、単なる感情のコントロールができない大人が弱いものいじめをしている姿にしか見えない。

子供と対話をしたり、子供に真剣に対応し説得するなどは、時間がかかってしょうがないと考えるかもしれない。ただ、叱りつけたり怒鳴ることは同じように時間がかかるし、かなり体力を消耗する。それならば、語ったり説得するの方が、さらに子供の自立を促す効用もあるために一石二鳥の方法かもしれないと思うようにしている。もちろん、いつも子供に対していつも大人対応できるわけではないし、恐ろしいことに、デンマークではできないのに、日本にいると子供に怒鳴ることが躊躇なくできるようになる。子育ての常識は、意外と社会の合意となっていることが多い。その社会の合意を作り出しているのは、まわりの親がしている行動であったりメディアで受容されている方法であったりするようだ。

デンマークに学んだ幸せの方法:声を荒げても人は育たない。対話をしよう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?