わたしたちが失った記憶 リドゥドゥマリンガニ(南アフリカ)
COMPILATION of AFRICAN SHORT STORIES
アフリカ短編小説集 もくじ
あれがやって来る前兆はまったくなかった。幽霊のように、どこからともなくやって来て、来たときと同じようにして消え去っていく。それが離れていくとき、いつもわたしは腕を全方向に伸ばして、短い祈りの言葉を二つ呟く。一つは神さまに、もう一つは祖先の人たちに。そして怯えている姉さんがわたしを抱きしめてくれるのを待つ。そうだった、いつもギュッと長く抱きしめる、永遠にそうしていたいとでもいうように。
あれに連れ去られると姉さんは、いつも変わり果て、わけがわからない状態になって戻ってくる。まるで二人の人間が姉さんの中に囚われているようだ。二人は外に出ようと争い、互いを引き裂くまで終わらない。あれが姉さんから、わたしたちから奪うのは、まず話すこと、そして次にわたしたちの記憶を奪う。姉さんは聞いたことのない言葉で話し出した。まるで神さまからの思いもよらぬ啓示を伝えようとしているみたいに、その言葉は震えていた。記憶は一つまた一つと霞んでいき、わたしたちの過去はぼんやりとしたものになった。
姉さんが叫び声をあげながら、真夜中に野っぱらに出ていったときのことを覚えている。母さんとわたしがまず目を覚まし、そのあと村中の人が起こされた。男たち、少年たちが、狩りにでも行くようにノブケリー(木の握り棒)を手に家から出てきた。その後ろには女たちと子どもらがいた。怯える子どもたちは母親の寝巻きを掴んでいる。怒り苛立ち不安の最中にいる男たち少年たちは、暗闇の中をすり足で歩き、明確な考えもないくせにリーダーを語る男が、みんなを指図し小さなグループに分けた。松明をもった人々はその灯りで闇を追いやった。ろうそくを手にした人もいる。風をよけようと体をよじり、毛布を巻きつけるも、火がつく前にマッチの火は消えてしまった。
松明もろうそくも持たない者は、暗闇の中、崖から落ちるかもしれないと思いながら歩を進めた。信じがたいかもしれないが、こう言うしかない、ここにいるほとんどの者はこの村で生まれ、育ち、結婚し、その一生の間この草地をトイレとして使い、白人のために都会に働きにいくときだけ村を離れた、と。彼らの頭には村の見取り図があった。歩くための道、窪地、川や山、幽霊の住む穴といったものが血の中に刷り込まれていた。
何時間かたって、最初の男たち少年たちのグループが、そして他のグループも次々に闇の中から出てきた。誰も姉さんを見つけることはできなかった。あらゆる場所を探した、と彼らは言った。姉さんが見つからないことを心配しているのか、真夜中に起こされたことに苛立っているのか、わたしにはわからなかった。成果が得られなかった男たちは下を向き、重い荷を背負った人みたいに体を前に屈めた。それぞれの集団は他の集団の居場所に気をとめていなかった。他の集団がまだ草地にいるのか、夜の闇に飲み込まれたのかすら知らなかった。幸運を願ってグループに分かれたときが、互いの姿を見た最後だった。姉さんの名前が叫ばれるのを闇の中で聞き、そのあと声は途切れた。
あの娘(あのこ)は声をあげなかった。
あの娘は泣かなかった。
あの娘は声をあげなかった。
あの娘は泣かなかった。
あの娘は呼びかけに応えなかった。
どのグループも怯える声でこう唱えた。集団が現れるたび、わたしは違う言葉を期待したが、どれも同じだった。彼らの言葉はずっと練習してきたみたいに、同じことが繰り返され、わたしの心は張り裂けた。
あの娘は声をあげなかった。
あの娘は泣かなかった。
あの娘は声をあげなかった。
あの娘は泣かなかった。
あの娘は我々の呼ぶ声に応えなかった。
彼らの声はすべてのグループが戻ってくるまで繰り返された。
背が高く立派な尻をもつ母さんが、翌日、太陽が空高く昇る頃になって、姉さんを背負って戻ってきた。
「あの娘はあたしをなじるように何度も声をあげた」 そう母さんは言った。
思い出すのは、姉さんが血が出るまで頭を壁に打ちつけていたときのこと。姉さんとわたしは、どっちが先に出発点に戻ってこられるか、藁葺き屋根の小屋のまわりを競争していた。わたしたちが12歳と15歳の頃だったと思う。姉さんは胸が大きくなりはじめていて、すごく感じやすいんだとわたしに話した。指を胸に滑らせると、感じたことのない興奮が体を貫く。何が起きているのか、何が体をうずかせるのか、姉さんにはわからなかった。姉さんは女になりつつあるんだ、性的に発達したんだ、と言ってあげたかった。自分自身に関しては何一つ知らなかったのだが。
姉さんはわたしをからかうように、優しくはねつけることがあった。本当にそう思っているのかどうかはわからなかった。わたしの胸を触ったあとで、あんたはまだ胸のことを何も知らないよね、そんな風に言った。あたし奥手だから、そう答えた。本当のことを言うみたいに嘘の言葉が出てきた。わたしの胸には乳房がないという事実を、母さんにもわたしを知る他の人にも、姉さんには知らせないでと約束させていた。姉さんは長いこと、来る日も来る日も胸のことでわたしをからかった。それは悪意のあるものではなく、姉が妹に弟が兄に「あんた頭が大きいね」と言うようなことで、他の人から言われれば怒りだすようなことだった。
そしてあれはやって来た。わたしはそれが近づいてくるのに気づかなかった。知っていれば止めることができるのに、いつもわたしはそう思っていた。そのとき、わたしはそれがやって来るのをじっと見張っていればいいと思っていた。角やトゲをつけた大きな頭のやつ、そうわたしは想像していた。姉さんがあれがやって来るのを見たかどうか知らない、でもそうでないことを願う。夢の中ではないのに、怪物が自分に向かってくるのを目にし、逃げることができない恐怖は、姉さんにとって耐えがたいことだったろう。
学校の教室で男の子たちに、わたしには立派な胸があるんだからとだました、と姉さんに言ったことがある。金曜日のことだった。パンストをシャツの下に詰め込んで、母さんのブラをしていた。アホな男の子たちは信じがたいことだと、不思議がった。わたしの胸がたった1日で大きくなるなんてあり得ることだろうか。
そんなわけでクラスの男子は一日中、わたしの胸を見ていたんだ、一晩のうちに大人になったってね、そう姉さんに言った。
わたしは母さんの庭からはじまりずっと向こうまで続く外の風景を見つめた。太陽が森の向こうに沈んでいき、砂埃が宙で舞っていた。ひときわ砂埃が濃くなっているところは、砂がゆらゆら踊っているみたいだった。村から遠く離れたどこか、よその世界で見られるような洗練されたダンスを想像した。村は静けさの中に沈んでいった。夏の空気の冷たさに、村人の裸足の足や剥き出しの腕が捉えられた。草原を駆け抜ける馬、頭を垂れて草を食む牛、崖を流れ落ちる水、なにもかもが影となった。いまもそこにある古代の山々が、大地に巨大な影を落としていた。その影は山のふもとから長く長く伸びて、まるで実在する物体のようだった。
わたしの話の途中で、姉さんは前へ後ろへと揺れはじめ、それから後頭部を壁に打ちつけ始めた。最初わたしの話にリズムを刻んでいるのかと思った。自分の中から何かを掻き出そうとして、姉さんが声を上げはじめたとき、わたしは不安になった。そうこうする内に、姉さんは壁に頭を打ちつけ、血の跡を残した。姉さんは誰か見知らぬ人になっていた。姉さんはここにもういなかった。わたしは姉さんを、それが何であれを捉えようとした。姉さんを止めようとした。両手をつかみ、それを背中にまわし、わたしの体を押しつけたが、いとも簡単に跳ねとばされた。姉さんが引き裂かれたとき、どこからかやってくる強い力で。もし古い土壁でなかったら、姉さんの頭蓋骨はぱっくりと割れていただろう。代わりに、姉さんの頭が壁を砕いた。
血の跡は、母さんがこそげとったあとも、泥土を3層塗り足し、その上に水性塗料を施した後も長いこと残っていた。サンゴマ*がやって来て、姉さんが頭を打ちつけた箇所を清めたあとも、血の跡は消えなかった。わたしは夢の中で、着ている服に、あらゆるところに、血の跡の臭いを嗅ぐようになった。血の臭いは、いく晩もいく晩も消えることなく留まり、雨の降ったあとでさえ残った。
*サンゴマ:アフリカ伝統の呪術医、信仰治療を行う人。自然の薬草や呪術を使って病気を治す。
もう一つ覚えているのは、姉さんにあれが入り込んで、わたしに熱い粥を投げつけたときのことだ。姉さんが熱い粥の鍋に屈みこんでいるとき、あれがやって来て連れ去った。冗談を言っている最中、まだ言い終わってないときに、粥の鍋を投げたのだ。顔は避けられたものの、胸は逃れられなかった。藁葺き屋根の小屋の扉の下部を開けたことは覚えていない。わたしは外に出て、着てる服を剥ぎとっていた。痛みは激しいものだった。何時間かたって、姉さんが正気に戻ったとき、わたしに起きたことを見て大きなショックを受けていた。わたしは熱湯を誤ってかけてしまった、と姉さんに言った。もし自分のせいと知ったら、姉さんは自分のしたことを決して許さないだろう。
ずっと大変な日々が続いていたとはいえ、さらに事態が悪くなったのは11月だった。あれが、姉さんを乗っ取るやつが学校にまでついてきて、学校をやめざるを得なくなった。授業中にあれはやって来た。姉さんはものすごい勢いで激しく混乱し、教室で机を投げとばし、窓ガラスを割った。わたしが姉さんの教室に着いたとき、同級生たちは立ち上がって姉さんを見ていた。姉さんは椅子も壁にぶつけて壊し、わけのわからない言葉で叫んでいた。わたしは姉さんのすぐそばに立っていた。姉さんがせねばならないこと、それはわたしの目を見ることだった。わたしの目を見て、お願いだから、わたしは姉さんに頼んだ。姉さんの目は赤く染まり、体全身を震わせていた。同級生たちのびっくりした顔を眺め渡したあと、姉さんはわたしの目をやっと見て、叫び声をとめた。姉さんはわたしがわかった。わたしは姉さんの目をまっすぐに見た、あれが去っていったことがわかった。姉さんが帰ってきたのを見た。
このことがあってから、わたしは学校を休むようになった。毎朝、わたしは吐いた。母さんはわたしが病気だと見ていた。同じ学校の男の子に、わたしは病気だと先生に伝えるよう母さんは頼んだ。
姉さんと同じクラスにいたい、そうわたしは姉さんに言った。そうすれば姉さんがよくなるまで待って、一緒に学校に行けると。
それはきっと許されないだろう。母さんからも、先生からも、校長からも。いや、許されるんじゃないか。上の学年で勉強したいということじゃない。姉さんと同じクラスで勉強したいだけなんだから。
その週、姉さんとわたしはスケッチをして過ごした。紙に鉛筆で姉さんはわたしを描き、それは紙の上でわたしが生きているみたいに描けていた。もう一人のわたし、もっと幸せで、涙はなく、どこか別の場所にいるわたし。
姉さんはわたしに学校に行くよう何度も頼んできた。そして自分は大丈夫だから、学校からわたしが戻ったら新しく描いたスケッチを見せると。
何日もわたしたちは話しつづけた。母親の足音に片耳を寄せながら。母さんが母屋を出てドアを閉めるときの音で、わたしたちの小屋にやって来るとわかる。それから入り口に影が映る。
母さんは姉さんを度々サンゴマに、教会に連れていき、薬をさらに渡した。姉さんは無反応になった。何もないときにうなずいたり、首を振ったりした。他の反応はなしだった。あとになって、わたしが学校に戻ったとき、前の週、休んだことは報告されていないとわかった。このことは担任の先生も、わたし自身も気にしなかった。何年かの間に、姉さんは学校をたくさん休んだので、わたしは姉さんの学年に追いついた。実際のところ、姉さんの2年上になった。
わたしが学校に戻ってから2、3週間して、先生が統合失調症のことを話し、わたしは姉さんがかかっているのはそれだと知った。そして飲んできた薬はどれも、姉さんには効かないだろうとわかった。効かないどころか、姉さんを破壊したのだ。先生はこれを治す方法はないと言ったけれど、わたしは、姉さんは何かを、何であれ感じる権利はあると信じていた。
姉さんとわたしがまず処分しなければならないのは薬物だった。これはわたしたち二人の秘密だから、とわたしは言った。母さんに知られずに、遠いところまで歩いていって、穴を掘り、姉さんが噛んでいた薬草の根っこを埋めた。飲み薬から逃れる方法を、わたしは姉さんにやってみせた。マグに薬を注ぎ、飲んだふりをして、誰も見ていないときに下草が生えている裏庭に窓から捨てる。その窓は、牛が草を食んでいる大きな草原に向かって開いていた。母さんに、わたしから薬をもらったかと訊かれたら、もらったと答えるよう姉さんに言った。
次の月曜日の午後、わたしが学校から帰ると、姉さんはわたしを連れて二人の小屋に行って、薬をカップに注ぎ飲むふりをした。そしてにっこり笑みを浮かべて、窓からそれを捨てた。わたしたち二人のゲームだった。
姉さんは自分を取り戻しはじめた。わたしたちはまた、やりとりするようになった。姉さんは話すことをやめていたから、わたしたちは二人だけの言葉を生み出した。わたしたちは身振りで意思疎通をし、やがてわたしはその中にいくつかの言葉を挟むようになった。
わたしと姉さんは互いの愛を取り戻した。二人がまた繋がった日をよく覚えている。以前と同じように一緒に部屋ですわり、前そうしていたように、山の向こうを、地平線を、太陽を、目の届くかぎり遠くの景色をじっと見つめた。外の景色を見る、にこにこする、笑う、泣く、手をつなぐ、そういう1日だった。
わたしたちはすわって、1日が過ぎていくのを見守った。とくに言葉を発しようとはしなかった。姉さんとわたしには言葉は必要ない、そう感じた。
その日の午後、雨が降り出した。わたしは姉さんを小屋の外に連れ出した。二人で雨の中に飛び込んで、雨よ、わたしたちにその雫を注いでください、と願った。そうすればわたしたちは背が伸びて、大きく、強く、勇敢になれる。その瞬間、姉さんは戻ってきて、にっこりしたり、笑ったりした。その日、わたしたちは、空白になっていた場所を埋めるように、新たな子供時代の記憶をつくりはじめた。
二人で濡れた地面に横になり、手も足もいっぱいに伸ばして、雨が顔にかかるままにして、自由を満喫した。ところがわたしたちが笑ったり飛んだりしているのを母さんが見て、あれがまたやってきたと思った
次の日、今までとは違う儀式で姉さんを治せると、村中の人が家に集まってきた。姉さんはいろいろな儀式や教会の説教を受けたけれど、何も変わらなかった。サンゴマや牧師はそのたびに、姉さんは数日のうちに治ると約束した。年寄りたちの言うことを信じるなら、昔、サンゴマによるヒーリングの成果を垣間見ることがあったという。たくさんある儀式の中の一つで、タバコと肉とマッチを夜、藁葺き屋根の小屋の中に置いて先祖に捧げたら、朝にはなくなっていたことがあった。それで先祖がその人を癒したとみんなは信じた。それから少しして、タバコと肉とマッチは単に盗っ人に取られただけだとわかった。
その儀式があった日、雲が空を走るように動いていたことを、草地や山や土手や森が、死を予告されたみたいに厚い霧に包まれていたことを、わたしは覚えている。霧はすごく低いところにも漂っていて、村の人々は膝から下が切られて、宙に浮いているみたいだった。人の群れが見えるずっと前から、女たちのおしゃべりと歌が聞こえてきた。霧が人々を飲み込み、女たちが目の前に現れることはないように思えた。しかし彼らはやって来た。女たちは家に近づきながら、声のかぎりに歌っていた。
男たちは腕を後ろ手に組んで棒をもち、黙ってやって来た。
女たちが到着して数分後、暖炉の煙が空へと向かい、走る雲といっしょになって踊りはじめ、空はダンスフロアみたいだった。子どもたちは走りまわり、紙を詰めたビニール袋のサッカーボールを蹴っていた。あらゆる人が無秩序に動きまわっていた。あっちでは太った女の人が頭に水のバケツを乗せて、こっちではテーブルクロスを持った子どもが、あっちでは骨を加えた犬が、こっちではニワトリが、あっちでは女たちが姉さんの噂話をしていた。さらなる人々が到着して混沌が広がるのが、家の中から見えた。
わたしは姉さんを見て、その顔が数ヶ月前そうだったみたいに無表情になっているのに気づいた。2、3日前には、姉さんは自分を取り戻して、わたしを安心させた。今は、わたしたちの頬を涙が伝っている。そのときわたしはわかった。姉さんは今も感情があるし、少し前に手をつなぎ、雨の中、笑ったり飛んだり跳ねたりした日々は夢じゃなかった。
霧が晴れて、すべてが姿を表して、焦点があってきた。山々、風景、川や隣の村々はそこにしっかりと存在した。クラール*の後ろでパイプたばこを吸っていた老人が、中身を空にしてポケットにしまった。儀式がはじまった。ナイフが抜かれ、先祖を彼方から呼び集めるために、ヤギが最初に腹を突かれた。そしてそれは肉になった。
*クラール :アフリカ南部の村にある、牛や家畜のための囲い。いばらの枝のフェンス、柵、土壁などで囲まれ、ほぼ円形になっている。
少しして、叔母がわたしたちのところにやって来て、家から出てくるよう声をかけた。わたしと姉さんはしっかりと抱き合い、互いの涙を拭いあった。叔母が小屋に近づく足音を耳にして、やっとわたしたちは家の外に出ていった。指をしっかり絡ませ、手をつないでいた。わたしと姉さんを切り離すには、無理やりにでも引き離すしかなかった。
村の人たちは正体のわからない「あれ」に対して悪態をついた。一生のように感じられる長い間、姉さんとわたしはクラールの隅にすわって、頭を垂れ、長老たちは「あれ」を悪魔の仕業、悪霊だと言い続けた。誰も姉さんのことを知らなかった。誰も姉さんのことを気にかけなかった。太陽が昇って、家のまわりには濃い影ができていた。風など吹いていないのに、草地のそばで風車がキーキーと音を立てていた。
母さんは、なぜ神さまはあれを姉さんにもたらしたのか(そして父さんにも)と、嘆き打ちひしがれていた。秘密は長いこと埋められたままだったのに、ある日、大地から芽が出るように顔を出し、明らかになった。父さんにあれがあったとは、誰も口に出したことはなかった。ある日、遠くの親戚に会いにいくため、父さんは馬に乗って家を離れた。そして戻ってこなかった。死んだ人に夢の中や幻覚でしか会えないのと同じように、もう姿を見ることはなかった。
父さんはどこかの村で少なくとも2回、姿が見られた、と母さんはわたしに言った。父さんを見た人は、声をかけ手を振ったが、目を向けることすらなかったという。それが父さんだったのか、はっきりとしなかったようだが、おそらくそうだったのだろうと思われた。父さんは埋葬されることはなかったが、20年たった今になって埋められた。埋めるものは何もなかった。わたしには父さんの記憶がない。どこかから父さんが戻ってこないか、という希望はもっていた。戻ってこないかぎり、それがどこなのか誰も知らず、誰も気を向けることはなかった。
儀式のあった夜、姉さんとわたしは(反対側に頭を置くのではなく)、同じ方向を向いて眠った。わたしが目を覚ますと、姉さんが私を抱きしめ、きつく抱きしめて、泣き声をあげないよう、枕に歯を沈ませた。しばらくからだを震わせていたが、少ししてわたしの腕の中で眠りについた。
朝、わたしはヤギの乳を搾りにいった。クラールの上に二つの人影があるのを見た。(何かブツブツ言い合う声が聞こえて)変だとは思ったけれど、最初、たいしたことではないと思った。肥料の臭いのするクラールの中に入ってきた影、それは母さんと儀式のためにやって来た叔父さんだった。二人の頭は一つに統合されて、まるで大きな一つの頭みたいで、幽霊にも見えた。わたしが立ちあがろうとしたとき、二人が姉さんのことを口にしたので、乳の入った容器を置いてしゃがみ込んだ。体をヤギに寄せて、静かにさせた。母さんと、一緒にクラールに入った男、「足臭(あしくさ)」は、姉さんをどこか遠くに連れていく計画を練っていた。
薬も儀式も効果がなかった、と母さんが言った。母さんの考えでは、姉さんはンクンジに会いに行く必要があった。あれはまた戻ってくる、と母さんは言った。
ンクンジは辺鄙な村にいるサンゴマで、そこでは家々が何キロも離れてたっていた。ンクンジは姉さんみたいな人を「焼いて」治すことで知られていた。ンクンジの村に車がやって来ると、村人がンクンジに家から出てくるよう声をかける、そう言われていた。あんたの悪霊がやって来たぞ、そう彼らは言うのだった。
足臭、姉さんがそう名づけた男は母さんの言うことに賛成した。わたしも姉さんも、この男の子どもじゃない、なんで構うのか。そして二人は決めた。次の日、姉さんは焼かれるために、ンクンジのところに連れていかれる。変な声を聞いたり、悪霊を見た人に彼らがすることだ。悪霊が体から出ていくまで、その人を焼く。焼くこと以上に恐ろしいのは、人々がそれを信じていることだ。
ンクンジがどのように人を焼くのか、聞いたことがあった。牛の糞と薪で火を起こし、赤々と燃えだすと、悪霊がとりついた人をトタン屋根の上に縛りつけ、そこに火を据える。ンクンジは悪霊を焼いており、焼かれた人の火傷は1週間後には治癒すると言った。これによって誰か死んだと聞いたことはなかったが、生き延びたと聞いたこともなかった。
姉さんにこれをさせるわけにはいかない。
日が沈んだあと、わたしは荷物をまとめ、姉さんと二人で家を出た。夕闇が迫っていた。どこに行くという当てはなかった。最初、大きな通りに出ていったら、たくさんの目がこちらを見ていたので、道をそれて谷へと向かった。姉さんはわたしの手をしっかりと握っていた。姉さんが知らなくていいことをわたしは何も口にしなかった。わたしは急に病気になった叔母さんを訪ねることにした。明日の朝、日が昇る前に叔母さんのところに行かなければ、とわたしは姉さんに言った。
病気になった叔母さんなどいなかった。
わたしと姉さんは谷へ降り、川岸を歩いた。それから湿った土手をのぼり、壊れて地面に倒れている柵を超えていった。タール舗装された橋のところに出たとき、二人とも水が怖かったので、橋を渡ってから、川に沿った道をまた歩いた。
もう夜になっていたことに、わたしたちは気づかなかった。突然、大きな月が頭上に顔を出し、星々が空に、神さましかわからない模様を描いていた。山もあたりの景色も形を失って巨大な何とは知れないものとなり、わたしたちはとても小さく、世界にたった一つの存在として取り残された。
わたしたちは川沿いを歩き、それからそこを離れて山を登っていき、反対側の村まで歩いた。それがフィラニの村なのか、別の村なのかわからなかった。以前に一度そこに行ったことがあるだけだった。そしてそれは実際に行ったのではなかった。母さんがわたしたちに新たな小屋を当てがう前にそういう話をしただけだ。1週間後、母さんは、父さんを(そしてわたしたちを)家から出して、足臭と入れ替えた。
山を下っていくと、わたしたちは見知らぬ村にいた。最初に見た灯りのついた家のドアをノックして、一晩そこで眠れればと思った。最初にそう思いついたものの、やめた。このあたりの村では誰もが誰もをよく知っていた。わたしたちが一晩泊めてくれと頼んだとして、たとえ嘘をついて名前を偽っても、そして隣の村に行こうとしているが遅くなってしまったと言ったところで、わたしたちを見破るに違いない。祖父の耳に似ているとか、母の鼻にそっくりだとか、あるいはまだ小さかった頃のわたしたちをよく知っている、尻をなでたことがあるなどと言われそうだ。姉さんの額は祖父そのものだ、とはいつも言われていたことだ。そうすることには危険があった。
もうすぐだよ、そうわたしは姉さんに言った。どこに近づいているのか、その答えをもっていなかった。ただただ前に進んでいた。どこかに着いたと感じたとしても、それがどこなのか言えなかった。大切なことは、家から遠く離れていることだった。
どこで寝たらいいものか、どこで食事ができるのか、どこに住んだらいいのか、まったくわからなかったが、家に戻るという選択はなかった。たぶん、母さんが死んだあとなら、戻れるかもしれない、そうわたしは言った。
フィラニ村を(その村かどうか、よくわからないままに)通りすぎた。犬がわたしたちに吠えつき、あるいは他のもの、立っている棒とかに吠えたてていた。そしてあっという間に隣の村に着いていた。姉さんが、どうして家を出たのか、と足を止めて聞いてきた。姉さんはわたしの手を何度もきつく握り、わたしも同じことをした。
何度も姉さんにその理由を、家から逃げ出した理由を言おうとしたけれど、できなかった。どこから話を始めていいものか、わからなかったのだ。話を始められる場所が見つからなかった。本当のことを言えば、姉さんは壊れてしまうだろう。
母さんは姉さんがぼんやりしているときを好んでいた。わたしは姉さんという存在が好きだった。笑ったり、おしゃべりしたり、わたしの目を覗きこんで声をあげたり、大笑いしたり、そういう姉さんが好きだった。水を覗き込んでいるとき水面を叩けば、パシャッと跳ねかえりが起きる、それを想像してみてほしい。そういうことが姉さんに起きたのだ。姉さんにこう言いたい。姉さんは精神疾患にかかっていて、現実と虚構の区別がつけられなくなっている、と。
灯りがどこにも見えなかった。村の人はもうとっくに眠りについていた。自分たちがどこにいるのか、わからなかったが、隣の村に着いたことはわかった。月は消え去り、星が空でポツポツ瞬くばかり。朝はもう近い、そう思った。姉さんにそう言うと、うなづいて笑みを浮かべた。
いま何時なのかわからなかったけれど、家を出てから長い時間がたっていた。足がとても痛んだ。わたしたちは木の下で眠ることにした。太陽が出て、目が覚めたら、どこかに向かってまた歩いていけばいい。
だいこくかずえ訳
原文:Memories We Lost