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とっかかりがない、海外文学への狭い道

小説、といったときそれが何を指すかと言えば、95%くらいは日本語で書かれた日本人の書き手による物語のこと、のようです、今の日本では。大手出版社がウェブで連載している小説の数々、その項目の中に「海外」の文字はほぼなく。唯一見つけたのが林真理子さんによる『わたしはスカーレット』で、これは翻訳小説ではなく、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を林さんが自由に脚色して書いた小説のようでした。元は海外文学かもしれないけれど、日本の小説といっていいのかも。でもこれなら読めそうと思う人も多いはず。とも思いました。

いま、小説をいろいろな人がいろいろなところで(投稿サイトやnoteでも)たぁくさん書いています。本当に多いなあと感じています。みんな小説が書きたいんだ、ということが伝わってきます。ときどき読んだりもしますが、なかなか面白いぞ、と思うものもあったり。

さて、日本の小説はちょっと置いて、海外文学です。

海外文学と言われるもの(小説だったりノンフィクションだったり)を訳したり、出版している割に、その世界を知らない、さほど作品を読んでいるわけではない、ということに最近気づいたので、改めて海外文学とは何かについて考えてみようと思いました。

まず「海外」ですが、その意味するところは日本の国外ということですね、当たり前ですが。イメージとして、少し前までは海外文学というとほぼ欧米の作家の書いたものでした。でも今は、まず韓国あたりが一番にきそうな感じがします。わたし自身も韓国の作品はここ何年かの間に、いくつか読んで面白いと思いました。良い翻訳者が出てきて、良い作品の紹介に努めているいることが一つの要因かもしれません。文化的な交流が演劇や音楽を含めて、近年、幅広く行なわれてきた成果もあるでしょう。

次に「文学」ですが、これはジャンルなんでしょうか? 小説とか詩とかのカテゴリー分けとは違って、少しあいまいな感じがします。「エンターテイメント」という分類もあるので、そうじゃないものが「文学」であるとか?

辞書的に言うと、日本語版ウィキペディアでは「文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品のこと」とあります。コトバンクでは「文学についてのもっとも簡単な説明は、言語による芸術」となっていました。どちらも芸術というところにポイントを置いています。つまり文学は言語表現の中で芸術に属するものを指すと考えていいのでしょうか。でもそうすると芸術に入るかどうか、その区別はどうつけるのか、誰がつけるのかが問題になります。

エンターテイメントが誰でも気楽に楽しめるもの、であるとすると、芸術は知識や教養のある限られた人、あるいは向上心のある人、世界をもっと知りたい人だけが楽しめるもの、となるのか。

あるいは、エンターテイメントが受け手にとって受け身のもので、つまり作者によるサービスを(今のままの自分で無理なく)受けられることが前提であるとすると、芸術の方はそういったサービス精神はさほどなくて、受け手の方が能動的に作品に近寄る努力をしなければならない、とか?

海外文学の難しさ、人気のなさの理由の一つは、この受け手に求められる能動性ゆえなのかもしれません。一般的に見て、能動的に生きている人と受動的に生きている人、あるいはものごとを能動的に見ている人と、受動的に見ている人の割合を考えると、2:8くらいかもしれません。もうそこである程度、勝負あったとなります。

さらに、海外という言語や文化によって分断される国境線がまた障害になり得ます。近代日本文学の元となるロシアなどの文学が、日本に入ってきた時代以降の100年くらいは、海外文学に学べという一定の潮流があったと思います。でもその時期も過ぎて、日本の現代文学は独り立ちして、海外の作品をありがたがることも減りました。学ぶということがなくなると、あとは好奇心があるかどうかの問題になります。

これはポピュラーミュージックの世界でも同様のことが起きているように感じます。わざわざJ-POPと言わねばならない時代を経て、今は人気ポップスの大半が日本製で、海外のポップスの方は海外文学と似たような状況にあるのかもしれません(K-POPを除けば)。渋谷のタワレコのフロアガイドを見ると、1階が新譜、3階がJ-POP、5階にK-POP、そして7階にヒップホップからジャズ、クラシック音楽までが詰め込まれた「その他」の音楽(あるいは洋楽)がきています。

ところで、この「その他」という言葉、海外文学のジャンル分けでも使われています。「その他の外国語」文学というように。NDC9区分表を見ると、まず「日本文学」があってこれは910が基本で、ミステリ、SFなどの小説、物語(913)、エッセイ・随筆、ブログなど(914)、ノンフィクション、ルポルタージュなど(916)のように細かく分かれています。ライトノベル、ボーイズラブなんていう項目もあって、それぞれ913.099、913.088と分類されています。すべて「文学」のくくりです。

海外文学はどうかというと、中国文学、英米文学、ドイツ文学、フランス文学、スペイン文学、イタリア文学、ロシア文学あたりは小分類があって、小説、エッセイ、詩、日記などの分類が一応あります。これはおそらく歴史的なものでしょうね。今の、というより主として過去に意味のあった。

じゃあ、これ以外の国々の文学はどうなっちゃうのか。たとえばアフリカとかインドとか南米の小説は。それは「その他の諸文学(990)」に入ります。「古代」「中世」「近世」「近代」の仕分けはありますが、小分類はすべて一括りの「その他の諸文学」です。この時代区分以外には、ギリシア文学、ラテン文学、アフリカ文学、その他のヨーロッパ文学などが一応、小分類のところで項目付けはされています。たとえば葉っぱの坑夫の『青い鳥の尻尾』や『空から火の玉が・・・』は「その他の諸文学/ アフリカ文学(994)」となります。前者はガーナの作家による小説、後者は南スーダンの難民によるノンフィクションですが、二つの区分はできません。

実際面でいうと、本当はこの区分も今では実用性が薄れているというか正確ではないところがあります。それは作家の出自と作家の使う言語が必ずしも一致しない時代になっているからです。たとえばロシア出身の作家がアメリカに亡命して、その後英語で作品を書いている場合とか。古くは、1899年にロシアで生まれたナボコフは、1940年に渡米して『ロリータ』を含むそれ以降の小説を英語で書いています。これはロシア文学なのか、英米文学なのか。あるいはインド系アメリカ人の作家、ジュンパ・ラヒリは数年前に、母語ではないイタリア語でエッセイ / 小説を書きました。それまでは英語作家でした。今後は何語で書くようになるのか。

おそらくロシア文学、アメリカ文学という言い方の他に、ロシア語文学とかイタリア語文学とか、書かれた言語によって分けることが必要になっているのかもしれません。上に書いた『青い鳥の尻尾』はガーナ出身の作家の小説ですが、英語で書かれたものなので英語文学ということもできます。実際、アフリカ各国の作家で、英語で作品を書く人は非常に多いです。海外の大学に留学したり、移住した人だけでなく、地元で暮らす人の中にも英語で作品を書いている人はいます。

海外文学という言葉のほかに、最近は世界文学という言葉も使われるようになりました。海外というのはある国から見た外の世界、という視点ですが、世界文学の「世界」というのは、言語や文化的な背景に捉われず、ある作品がどれくらい国を超えて広く読まれているか(読まれる可能性があるか)、を表しているのだと思います。昔、ワールドミュージックという言葉がありましたが、それに似たものと言えるかもしれません。

葉っぱの坑夫がこれまで出してきた翻訳作品や本は、英語文学の範疇に入るものがほとんどです。作家の出身地はいろいろです。マレーシア、シンガポール、パキスタン、バングラデシュ、アフガニスタン、ザンビア、ケニア…… またエストニアのように話者が少なく、文芸翻訳を直接するのが難しい国の作品は英語を通した重訳で、ということもしてきました。あるいはイギリスの文芸誌 Grantaに発表された南米文学が素晴らしく、その英語訳から訳した作品集もあります。こういった世界各地の作家による英語で発表された作品は、世界文学という呼び方と相性がいい気がします。

ただ世界文学などというと、さらに何だかわからない難しいものになってしまいそうです。海外文学以上に。アメリカやフランスの小説ならまだしも、なんでザンビアだガーナだアフガニスタンだの小説を読む必要があるんだい?と。そうですね、十歩譲っても必要性はないです。ないんだけど、、、へぇッっていう驚きや発見はあります。世界ってこんなにいろいろなのねって。

「海外文学」をテーマにこの記事を書いているのも、6月末から海外小説の連載をスタートしようと思っているからなんです。エストニアの作家、アウグス・ガイリという人の短編連作形式の長編小説で、その第1話をnote上で、連載で公開したらどうかと考えています。

エストニアというのは人口130万人くらいの小さな国で、エストニア語を話す人は80万人くらい。作品はエストニア語で書かれていますが、ヨーロッパの各言語など翻訳で読まれている数の方が多いかもしれません。英語訳は3年くらい前に出たもので、それを原典として今回日本語にします。

エストニアは地理的には北欧に位置していて、白夜があるような土地柄です。湿地や沼が多く、森に囲まれた自然の深い場所というイメージが小説からは伝わってきます。春が来てムクドリが姿を現すようになると、雪解けがはじまり、そこらじゅうで洪水が起き、道も溝も谷間も水に満たされるといった光景が描写されています。

まあ、日本の読者からしたら馴染みのない風景ではあります。こういうことも小説を読む上で、ある程度障害になると思います。文章からパッとはイメージできないことが多くて。でもストーリー自体はなかなか面白いところがあって、主人公のキャラクターもユニークなので、多くの人に読んでほしいなと思っています。

さて、ここで海外文学に関してもう一つお知らせを。
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サンプルで試して気に入ったら読んでみてください。

Title image by Adam Schilling(CC BY-NC 2.0)

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