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差別の自覚とBlack Lives Matter

あなたは差別主義者か、と聞かれたら、そうではないと答える人が多いと思う。実際、「日本に差別はない」と考える人は結構多いらしい。差別そのものがあまり存在しない(特に人種差別)、という認識だ。

しかし思うに、差別というのはどこにでもあるし、いつでもあるし、もっと言えば、世の中差別だらけ、差別のない社会など存在しないとも。

差別とは何かといえば、ものごとを、あるいは人を、公平な目で見ないということだろうか。偏見をもつ、先入観を押しつける、二つ以上のものを比べて優劣をつける、あるもの(人)を無視する、こういったことは差別的な行為と結びつくかもしれない。(そう言われる可能性がある)

しかし偏見とか先入観は、ある意味、その人のものの見方の一つであり、誰もがもっているものでもある。それが偏見なのか、正しい見方なのかどうかは、判別が難しいこともある。その分かれ目、偏見かそうじゃないか、を分けるものは何だろう。

ポイントの一つは事実関係とその認識の仕方だと思う。たとえば「黒人は白人に比べて劣っている」あるいは「暴力的である」という考えがあったとき、それが偏見なのか、あるいは真実なのか、見分けるには、何によって「劣る」「暴力的」とするかを見る必要がある。

奴隷制があった時代であれば、そんなことを検証する以前に、アフリカから連れてこられた「黒人は生物学的に劣った存在である」という「根拠のない事実」を真実とし、多くの人がそれを認めていた。誰も何も証明しなくとも、パワーバランスによってそういうことになっていた。

また人種という「学問上の分類」も、差別を助長させる役割を担ってきたと思われる。人間を「人種という区分」で分断するのは、政治やパワーバランスの問題であって、科学の問題ではない。人間は、ホモ・サピエンス・サピエンスという1種類の生物から成っている。そこには「人」の「種」というものは存在しない。

しかしずっと信じられ、利用されてきたことなので、多くの人は人間には人種があると、今も信じてる。肌の色が違う、黒、茶色、薄茶色、黄色、白、、、などは人の「種」を表すものではない。生物学的にも遺伝学的にも、人種の分類は意味をなさない、というのが現在の科学的事実だ。髪の色、目の色の差、鼻の高さや目の大きさや窪み方も同様。ある地域の生物(人間)がもつ色素の問題、骨格の特徴に過ぎない。

アメリカでアフリカ系の人々が差別を受けつづけてきたのは、人種という根拠のない、いわばフィクションを利用した、ある出自の人々への政治的な圧力だと思う。本当は「肌の色の問題」とは無関係なのかもしれない。

ヨーロッパやアメリカの人々が、アフリカという「未開の土地」に目をつけ、そこにいる人間を拉致し、あるいは土地の奴隷商人に提供される人間を買い、国に連れ帰る。それまで人間として生きていたアフリカ人は、売られた国では誰かの所有物となった。「人間」ではなくなった。所有物は、持ち主の権利によって自由に利用されるものだ。

そのことと、肌の色が黒いことは、基本的に無関係だったと思う。単に産業的に先を行っていた地域の人々が、昔のままの暮らし方をする人々を、武力と政治力をつかって、自由に扱う権利があるとしただけのことだ。そこにいた人々は、肌の色が黒かったということであり、肌の色が黒いから、売買の対象になったわけではない。

ただ現代の生物学で見れば、肌の色と人種は関係ない(というか人の種類は1種類しかない)とわかっていても、肌の色の違いは視覚的にはっきり読み取れるものなので、その違いが差別することを容易にしたとは言えると思う。背の高い人と低い人を区別する以上に、肌の色は(その視点で人を常に見ていれば)区別に役立っただろう。

その歴史、つまりアフリカ出自の人々が、アメリカやヨーロッパに連れ去られ、そこで商品として使用され、売買の対象となった長い歴史がまずあり、その後奴隷解放によって、人間性をいくらかは回復したとしても、社会を牛耳る人々の意識や社会の構造が変化したとは言えず、あいかわらずアフリカ出自の人々は、社会の最下層で生きることを強いられた。

貧困と社会的地位の低さ、それによる教育の機会喪失、それによる職業の限定、それがまた貧困と社会的地位の低さを生む、、、となって悪の循環から抜け出すことができない。というよりむしろ、そういう(最下層の奴隷的な)存在がぜひとも必要な社会(資本主義社会)が、アフリカ系の人々がその循環から抜け出すことを望まず、妨げてきたのだと思う。

つまり「黒人差別」の本質は、肌の色とは無関係なところにあるということ。

偏見かそうじゃないかを見分けるのは、事実関係とその認識の仕方だ、とこの記事の最初に書いた。その視点でいうなら、「黒人は白人に比べて劣っている」あるいは「暴力的である」という見方には、根拠がない。そもそも遺伝学的にも「黒人」と「白人」は同じ種(ホモ・サピエンス・サピエンス)なので、同じものは比べられないからだ。

仮に現在、高い地位につくアフリカ系の人数が少なかったり、優れた学者の数で劣るということがあったとしても、それは肌の色の黒さからくるものではない。貧困と教育機会の喪失、社会的地位の低さによって、もてる能力を開発したり発揮したりする機会を奪われつづけた結果の現状であり、仮にアフリカ系の人々の間で暴動が起きる回数が多かったとしても、人間として最低の扱いを受けたことへの反発として、暴力として現れる機会が多かったということだと思う。

アメリカの(ヨーロッパ系の)警官が職務中に、アフリカ系の一般市民を殺すという事件があって、世界各国で人種差別への関心と反対が起きている。その受けとめ方は国によって、人によっていろいろだと思う。日本ではアフリカ系の人はどう受けとめられているのだろう。

ここ10年、20年の間に、日本に住む海外に出自をもつ人の数は増えている。東アジアを筆頭に東南アジア、南米、北米、ヨーロッパと様々な地域から人は来ている。(国籍は別にして)アフリカ系の人々も増えていると思うが、数はそれほど多くはないかもしれない。バイエ・マクニール氏(アフリカ系アメリカ人のコラムニスト、作家。2004年来日)が、東洋経済オンラインの記事の中で、日本人の電車の中の「空席問題」について書いていた。

日本人は電車の中で、たとえば空席があっても、外国人の隣りには座らないというのが「空席問題」だそうだ。これはアフリカ系の人に限ったことではないと思うので、「人種差別」というより「外国人恐怖症」のなせるわざなのかもしれないが。しかしもしかしたら、ヨーロッパ系の人よりもアフリカ系の人の場合の方が、席を空けられる率は高いかもしれない。それはより「見慣れない」からなのかもしれないし、欧米的な「黒人差別」の影響から来るものかもしれない。その二つが混じり合っているとも考えられる。

自分が何を差別しているか(あるいは恐れているか)に気づくことは、新たな視野を開くことにつながる。つまり貴重な機会なのだ。わたし自身の最近の「差別からの脱却」体験には、たとえば風俗嬢(セックスワーカー)や、ズーと呼ばれる動物をパートナーにする人たちへの理解がある。

セックスワーカーへの理解を深めたのは坂爪真吾著『性風俗のいびつな現場』やSynodosの記事「新しいセックスワークの語り方―― 風俗、援デリ、ワリキリ…」を読んだからであり、ズーの人々を理解するようになったのは、濱野ちひろ著『聖なるズー』に衝撃を受けたからだ。

自分の差別感、あるいは偏見をふりかえると、風俗嬢に関しては基本的に無関心だったことがあり、無関心ゆえに実態もよく知らず、なんとなくグレーなイメージをもっていた。ぼんやりと偏見をもっていた。ズーについては、「デンマークが動物の<人権>保護の観点から、牛や馬との性行為を全面禁止する法案を可決した」というニュースを読んで驚き、2015年のブログに、「動物を支配下に置くことのできる人間が、動物に対してセックスを強要することはレイプにあたる行為。肉体的に、心理的に、当の動物が被害を受けるであろうことは想像できる。」と書いている。

この二つの例でいうと、本あるいは記事を読むことで、実態がどのようなものかの「真実」の一部を知ることができ、自分のもっていた偏見から少し抜け出すことができた。少なくとも、以前に抱いていたぼんやりとした不快感のようなものは払拭できたと思う。

その意味で「知ること」はやはり大事なことだと感じる。世の中にある多くの偏見や先入観、差別の感覚は、実態を知ることでなくすことができる。知ることが一つの方法になると思う。

しかし「知る」というところに行き着くには、その前に一定の「関心」が必要になるかもしれない。それはその問題自身、たとえば「動物をパートナーにすること」に関心がなければならないとは思わない。世の中から差別や偏見の目で見られている事柄の実態を知る、というアプローチをとるならば、あらゆる問題を対象とすることができるはずだ。

いま上原善広著『幻の韓国被差別民:「白丁」を探して』という本を読んでいる。白丁(ペクチョン)というのは、日本の被差別部落に当たるもので、牛や豚の屠殺や肉処理にかかわる職業にルーツをもつ人たちのことのようだ。

著者は韓国まで5年の歳月をかけて取材に行っているのだが、当初は現地の誰に聞いても、白丁のことは知っている(学校で習うなど)が、今はいないし、差別もない、と言われたそうだ。ところがひとたび「自分が(あるいは自分の子どもが)白丁の子孫と結婚するとしたら」と尋ねると、ほぼ全否定の答えが返ってきたという。「ダメ、それはできない」と。

差別というのはこのようなものだと思う。一般論として(他人の話なら)寛容になれることも、自分自身との関係になると、手のひらを返すように扉をとざす、シャッターをおろす。

外国人への差別なんて今どきないですよ、というリベラルな日本人であっても、アフリカ系の人間を会社で雇う、あるいはアパートの部屋を貸すところまではOKでも、自分の息子が、あるいは娘が結婚相手として家に連れてきたとき、抵抗なく接することができるかどうか、二人の結婚を心から喜ぶことができるかどうか、それはわからない。

実際には日本に住む外国籍の人は、就職や不動産についても、外国人であることを理由に拒否されるなど、不自由を感じていると聞いている。

Black Lives Matterのアクションを引き起こすような殺人という「過激な差別」でなくとも、差別は差別だし、殺人にまで至らない「穏やかな差別」なら、あっても仕方ないというものでもない。

世界から差別をなくすことは難しい。そこで何ができるかと言えば、誰もが、自らの「差別意識」に敏感になることかもしれない。何か、誰かについて悪い側面を語るとき、「ひょっとしてコレって偏見だろうか?」と自分に尋ねること。そのとき、自分の中にある一般的な常識は、むしろ自由な思考を邪魔(阻害)するものになる可能性がある。差別に自覚的になることは、ある意味、常識から自由になることでもある。

一枚一枚、偏見や先入観の皮を剥いでいくことは、自分を進歩させ、変化させることにつながり、新しい、よりよい社会を形成する一員になる資格を得ることにつながる。

差別を考えるとき、事実関係を知ること以外に、(ものごとや人に対して)優劣をつけることの是非という問題もあるかもしれない。学校の成績でも音楽コンクールでも、スポーツ競技でも、各種の賞でも、優劣をつける場というのはたくさんある。人はそれを楽しみもするが、悲しみもする。ときに不公平だと感じることもあるだろう。このことが差別とどう関係するのか、それともしないのかについては、また機会を改めて考えてみたい。

Title photo by Anne Meador (CC BY-NC-ND 2.0)




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