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[文章] ショパンの音楽における「隠された意味」について 1910.1.1

音楽も生き方もエキセントリックだったフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル。友人や家族に宛てた手紙、他の作曲家についてのコメント、レクチャーやインタビューなどシリーズで紹介します。
ファンタジー小説、評伝、ラヴェル本人の残したものの3部門で構成されるプロジェクト「モーリスとラヴェル」の中のコンテンツです。

Le Courrier musical(ショパン生誕100周年特集号への寄稿)「ポロネーズ、ノクターン、即興曲、舟歌についての印象」

1910年1月1日掲載

  「隠された意味」のない音楽ほどつまらないものはない」
  (フレデリック・ショパン)

 ショパンのこの核心を突く発言は、あまり知られていない。音楽の中で彼が何度もそれを訴えていたとしても、むしろその反対のことが受け取られていた。ショパンの音楽の隠された意味は、のちになってやっと発見される。ショパン以前は、音楽は感情、情感というものに向けられていた。それを適当ではないと考えたショパンの見解により、いまや音楽は知性に取って代わられた。

 音楽家のための音楽。これがショパンの考えを表す真の意味である。プロの音楽家という意味ではない、まったくのところ! 音楽家とは:作曲家あるいは音楽愛好家のことであり、リズムやメロディー、ハーモニー、音が生み出す空気感に敏感な人を指している。二つの色を並べるように、二つの和音のつながりに胸をときめかせること。あらゆるアートにおいて、主題はいちばん大事なものであり、すべてはそこから生まれ、流れでる。

 建築との比較はバカげている。建物を「立たせる」ためにはルールがあるが、転調を生み出すためのルールというものはない。そう、一つルールがあるとしたら、それはインスピレーション。今日の音楽には充分なルールがないのはわかっている。必要もないのに、何であれ利用して、人をハッとさせるために転調に走ったりする。モダンに聞こえそうなコードをここに、中国風の音階をあそこでというように。まるで帽子をつくるように、でも腕は良くない。曲はいきあたりばったりの仕上がりとなる。その必要があっただろうか?

 建築家は大きなプランを描く。あらかじめすべての転調(変調)が設定されている。仕事にかかる前に示したこと以上の大胆さを示せないとき、建築家は役たたずだ。テーマの反転、逆行するカノン、はっきりとした、あるいは不明瞭な転調、こういったものが理解できない? 心配ない、わたしにもわからない。このような曲づくりのためのすべてをもってしても、音楽を理解し心打たれることがないなら、それはあなたが熟練工ではないからだ。何が欠けているのか、それが言うなればショパンの隠された意味である。

 例をあげるなら、ショパン以前のダンスは優美さや陽気さ、何かしらの気分を提示するものだった。どれも少しばかり浅い。シューベルトの「レントラー(ドイツ舞曲)」でさえそう、とはいえこれは楽しい作品ではある。

 ショパンのポロネーズにおける貢献は明白だ。ショパン以前のポロネーズは、お祭りの行進曲であり、厳格で輝きはあるもののすべてが表面的だった(ウェーバーやモニューシュコなど)。このような伝統的スタイルによるポロネーズは、ショパンの作品にはただ一つしかない(イ長調のop. 40 no.1)。とはいえ同時代の他の作品と比べれば、インスピレーション、ハーモニーの豊かさは抜きん出ている。『華麗なる大ポロネーズ(変ホ長調)』は、その大胆さ、熱情の激しさ、中間部の光り輝く活力あるリズムで、すでに別の領域に達している。ときにポロネーズにおいて、ショパンはこれまで使われていなかった悲しく、胸塞ぐ要素を取り入れた(嬰ハ短調、op. 26 no.1)。ときにこの悲劇的な感情は、音楽の中に壮大な叙事詩を見いだすかのような崇高さにまで達する(変イ長調の『幻想ポロネーズ』op. 61)。ショパンの誠実な表現によって、それが悲しみであれ勇敢さであれ、尊大になることをまぬがれている。

 批評家たちはすでにノクターンや即興曲は、鋭い知覚をもって分析してきた。ノクターンは、直接的であれ間接的であれ、感情を、風景を、思想を喚起する誠実なる音楽の本質をもっている。

 ショパンはピアニスティックな技術を曲に入れ込むだけでは満足しなかった。ショパンのパッセージの見事さは、洗練と輝きに満ちた深遠なハーモニーの進行の中に見いだされる。そこにはいつも秘められた意味があり、しばしば絶望に胸張り裂ける詩情によってもたらさる。

 ノクターンにおいて、素材はさらに凝縮される。聴く者の感受性が喚起され、しばしば満足にいたる。それは良いことだ。しかしそのあとに何が演奏され得るか。天才的なアーティストにしか、ショパンの音楽のあとに何を演奏したらいいかわからない。よく聞かれる非難として、ショパンには進化がなかったということがある。同感だ。ただ進化とは言わないまでも、ショパンの芸術の素晴らしい開花は、『幻想ポロネーズ』『前奏曲(op. 45)』『舟歌(op. 60)』に見られる。

 『舟歌』はイタリア音楽に育まれ、スラブ民族の表情豊かで壮麗な特質を一つにまとめあげた楽曲である。この魅力的なラテン派音楽は、陽気で活力に溢れ、少しメランコリックで官能的でもあるが、最初のひらめきを(その魂をとは言わないまでも)最悪の場所で自ら放棄しており、だからこそ究極の美徳を急いで奪い返そうとするのかもしれない。ショパンは自分の師となる者たちが、怠慢のために不完全にしか表現できなかったことのすべてを達成した。

 『舟歌』のテーマのしなやかで繊細な3度は、眩いばかりのハーモニーの中に配列されている。メロディラインはつづく。あるところで魅惑的な和音に支えられて、優しげなメロディーが現れ、浮遊したままとどまり、そして静かに消え去る。緊張が高まる。壮麗で叙情的な新たなテーマが現れ、全面的にイタリア風になる。また静けさが戻る。繊細ではかないパッセージがバスから立ち上り、精緻で優しいハーモニーの上をさまよう。そこで神秘の頂点に達する。


(アービー ・オレンシュタイン編 "A Ravel Reader: Correspondence, Articles, Interviews"より/訳:だいこくかずえ)



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