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作文(創作)における良心とは、自意識とは

文章を書く、あるいは絵でも音楽でも作品をつくる、というとき、その書き手(作家)の良心(自意識)はどのように作用するのか、さらにそれは創作における技術の進歩に貢献するのか(しないのか)、ということを考えてみようと思います。
title image: Self-Portrait with Straw Hat(1887, Vincent van Gogh)

このことを思いついたのは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの発言を読んだから。ラヴェルの考えでは、アーティストとしての誠実さは、自意識(仏:conscience)によって表されないことには価値がない、そしてこの自意識はアーティストを良い職人になるよう導いてくれる、とのこと。そしてそこに近づこうとすることこそがアーティストがもつべき目標であると。

自意識という日本語は、フランス語のconscienceの訳で、英語だとconsciousnessになると思います。英語のconscienceであれば、良心、善悪の判断力という意味になり、似たものではありますが、指し示す言葉の範囲、あるいは角度が少し違います。ただ良心(善悪の判断)は、自意識を発動したとき現れるものなので、自意識をもつことと良心に問うことは、近い行為とみなすこともできます。

わたしがラヴェルの考えで面白いと思ったのは、この自意識(良心)が、創作の技術に貢献する、あるいは作品の完璧性と関係するという視点でした。そしてこのことは、文章を書いたり、翻訳をしているときに感じることに触れてくる部分があると思ったのです。

公開される予定のある文章を書くとき、いくつか意識することがあります。良心との関連性でいうと、1. 書かれている内容に間違いがないか、2. 文章(あるいは書き手としての立ち位置)に公平性があるか、3. ある考えや結論に導くために人為的な操作、取捨選択をしていないか、といったようなことが挙げられます。

翻訳の場合であれば、その訳が著者の意図をきちんと汲んでいるか、ディテール(人の名前や土地の名称など)の記述にどれくらい労力と知力を割いて最終的な言葉の選択を決定しているか、といったことでしょうか。

文章を書いたり、作品をつくったりすることにおいて、自意識がきちんと働いているかが重要になる、そしてそれが技術を高める道となる、という考えは一般的なものなのかどうか。あまり聞いたことがないような気がします。

通常文章を書いているとき、一定の意図や目的があり、結論めいたものを想定しながら作業を進めるのは普通のこと。はっきりと確定していなくとも、ぼんやりと言いたいことがあり、それを立証するような例がすでにいくつか頭にあり、といった状態で書き始めることは(わたしの場合)よくあります。書くことは思考すること。書くことによって、頭を整理し、論理を前に進め、それが合っているか確かめ、とやっていくわけですが、判例を探して検証している間に、自分の先入観や事実誤認、新たな事実を発見することも結構あります。そうすると想定していた結論が変化してきます。AはBである、というつもりが、AはBのように見えて、実はBとも関係はするけれど、大きくはCの問題だった、というような。

noteに「最近思ったこと、考えたこと」というタイトルで書きはじめる前、「happano journal_J(活動日誌)」としてblogspotに長いこと、いろいろな問題について書いてきました。ある時期から、2週間に1度の割合でかなり長い文章を書くようになりました。4000字前後〜、ときに6000字、7000字になることもありました。トピックとしては「ライブストリーミング」から「野生動物と飼育動物」まで、そのときそのとき強い関心をもった題材を、ときにシリーズ化して書いたりもしていました。

このジャーナルとして定期的に書く、という行為が何に役立ったかというと、ある問題について深く考える、ということがあります。なんとなく頭の中で考えているのではなく、誰かとそれについてしゃべるだけでなく、文章として書くという行為をつうじて、その問題に深く関わることが可能になると気づきました。長い文章を書くには、まず動機がいりますし、実際に書くに当たっては材料が必要になるので、あれこれ関係のありそうなことを調べることになります。その過程が自分にとってとてもためになりました。

動機というのは、まずは自分の興味によって生まれるわけですが、動機を発動させるには、好奇心を常に活発にさせておくことが必要です。そのとき世の中で起きていること、どこかで見つけた現象、偶然知ったこと、自分の体験、きっかけは何でもいいのですが、対象に対していかに自分が近づこうとするか、その温度の高さ(エネルギー)が大事になってきます。

「活動日誌」と言いながら、直接創作物、出版物とは関係ないことを多く書いてきたのも、好奇心を活発化させるため、あるいはもっと根源的には、頭脳とハートの両方を停滞させないためのエクササイズだったとも言えます。

文章を書くことと自意識(あるいは良心)の問題、そのことが技術とどう関わるかについて、ここからさらに考えてみたいと思います。

良い文章、完成度の高い文章ということを考えたとき、それが小説であれ、新聞のニュース記事であれ、ブログであれ、書き手のその文章に対する誠実さというものがわたしは結構気になります。

良い表現ということ一つとっても、何が良い表現かを考えると、言いまわしが上手いとか美しいとか、読み手を気持ちよくさせるとか、そういったこと以上に、ある事実(対象)に対して最も適切な表現が取られているか、という意識のあり方が大事だと感じています。つまり自意識が発動され、良心が働いているか、ということです。

自意識とはそもそも何か。「自意識過剰」という否定的な使い方もありますが、ここでは自意識をもつことの基本の意味、それがどんなことなのかを考えてみます。

自意識とは:自分が他者とは異なる自分自身であることの認識、自分が何をどう考えるかが意識化されていること。たとえばこんなことが思い浮かびます。「ハラスメント」「人種問題」「LGBT+」についての自分の考えが、いつどのように変化したかについて認識がある、あるいはないといったことです。今の時代、多くの人は人種差別はいけないし、パワハラ、セクハラ、○○ハラは問題行為、同性愛者をからかったり嫌ったりしてはいけない、という「常識」をもっています。その主な理由は社会の主流がそのようになったから、自分もそれに従うようになったというものです。

しかし10年、20年前のことを思い返してみれば、「アフリカは遅れてて、みんな裸で暮らしてるんだよね」とか「男と男がひっつくなんて気持ち悪い」とか「○○さん、今日の服、セクシーだね〜」などと言っていなかったかと言えば、「悪気なく」言っていた人は多いと思います。でもそっちが主流というか普通だった社会では、そういう発言は問題になりにくかった。その人たちは特別な人ではなく、普通の「常識人」で「社会人」であり、非難の対象にはなりませんでした。

でもその人たちも時代が変わり、時代の意識が変化する中で、徐々に自分の考えや口にする言葉を変化させていきます。そしてそれが多くの人に支えられた、その時代の主流の考えになります。

このとき個々の人間の中で自意識がどう働いたか、に注目すると、多くの場合、それほど(あるいはほとんど)働いてはいなかったのではと思われます。社会の考え(テレビやマスメディア、SNSなど)が自分に浸透することで、いつの間にか考えが変化していたのです。自然にそうなったとしか言いようがなく、また本人は自分の考えがいつ変化したかに無頓着です。

同性愛者に偏見をもっていた人が、あるとき当事者の手記を読んだのがきっかけで、自分の考えが間違っていたと気づく、というようなケースはそれほど多くはないように思います。あるいは人に勧められてたまたま読んだアフリカ文学によって、アフリカの作家、人々、社会に目を開かれた、それによってアフリカに対する見方が180度変わった、というような。このような気づきによって自分のものの見方が変化した人というのは、自意識が作動した人です。いつ、何によって自分が変わったかを言える人です。

自意識とは、たとえばこのようなものではないか、と理解しています。そして文章を書く人、創作をする人は、常にこういった自意識(自分が何をどう見て、判断しているのか、選んでいるか)に敏感であることが求められ、それを表現として完成させるために技術を使うことになる、よって書く(作る)技術が高められるということではないかと思います。ラヴェルの自意識とアートの関係について、わたしはそのように理解しました。

ここ何年かのわたし自身の経験でいうと、「人種」というものへの認識が大きく変化したことが挙げられます。もうずいぶん昔のことになりますが、2003年4月から2、3年間「もんごろねこのちきゅうたび うたのにおいをかいでゆく」というエッセイを葉っぱの坑夫のサイトで連載していました。フォークロアの歌に詳しいシンガーソングライターの方に、サーミ、イヌイット、アイヌ、トゥヴァ、モンゴルなどモンゴロイド系と言われる人々の歌の世界を紹介してもらっていました。当時モンゴロイドというのはアジア系の身体的特徴をもつある種の「人種」だと理解していたと思います。そこに差別感があったわけではないですが、ヨーロッパ系ともアフリカ系とも違う人間集団で歌われているものがどういうものか、興味をもったのです。

それが2017年10月、11月に「happano journal_J」で民族や人種について書いていたとき、調べたり書いたりしている中で、人種というものは存在しない、という事実に気づきました。科学的見地から(生物学的、遺伝学的に見て)、人間は1種類、ホモ・サピエンスのみであるという認識です。複数の参考資料からこの事実を知るに至ったわけですが、ここではそのことがテーマではないので、ネットで読める記事を一つ紹介するに留めます。国際人類学民族学会議での竹沢泰子さん(京都大学、文化人類学者)の話です。

そのとき記事を書きはじめた時点では、黒人、白人、黄色人種といった区分はあると思っていました。「人種と民族、その違いは?」というタイトルで書きはじめたのが、この問題と関わる最初でした。人間を分類することはできない、これを知ったときの衝撃はかなり大きかったので、いつ自分が考えを変えたか、新たな認識に至ったかははっきりしています。よく覚えている、つまりそのとき自意識が働いたわけです。

これは好奇心とわからないことは徹底的に調べる、という行為から生まれた認識です。もし黒人、白人、、、と人種があるのは自明のことと信じすぎていたら、疑うことがなかったら出会うことのなかった事実です。一般社会では(少なくとも日本では)人種はあると多くの人に信じられてきたわけですから。(おそらく今も)主流はそちらです。

たとえば人種差別に反対する意図で文章を書こうとしている人が、「黒人は身体能力が高いという優位性があるのでスポーツに向いているし、白人は教育程度が高く、頭脳を使う職業に向いている。白人、黒人それぞれに違う優位性があるので、差別するのはよくないと思う」といったことを書いてしまうことが起きたりします。意図としては差別反対でも、間違った認識によって得られた見識は問題があるし、書かれた文章の価値も当然低くなります。どこに問題があるかと言うと、自分の知識やものの見方に対する疑いがなく、つまり自意識を発動せずに文章を書いてしまっている、ということでしょうか。

作文をする際に、何を元にするか、何を信じるに足るものとするかは大切です。何もかも知った上で文章を書く、ということは実はそれほど多くはないのかもしれません。たとえ30年間それを専門にしてきた学者であっても、新たに文章を書く際は、現時点の言説から最近の調査結果に至るまでリサーチをするはずです。今の時代であれば、おそらく、どんなトピックであれ、日本国内の言説や調査結果だけでは確信をもって書くのが難しいかもしれません。「日本語でわかっている範囲では」のような注釈が必要になります。

また文章の中で使う用語や表現も、自分の生きている社会で、一般に言われている書き方をそのまま使うかどうかの検討もいると思います。政治などの世界では、思想や立ち場によって、ある事実をどう解釈して表すかに違いが出たりします。たとえばAの立ち場をとる書き手は「一方的な占領」という言葉を使い、Bの立ち場をとる書き手は「選挙によって編入された」とまったく違う表現を取ったりします。

その際、どちらの立ち場でもない書き手が、中立的に言葉を選ぼうとすると事実確認が必要になってきます。もしかしたらAかBかどちらが事実に近いのか、いくら調べてもそれを見分けることは(その時点では)不可能かもしれません。そのようなとき書き手はどうすべきか。ここで自意識が、あるいは良心が発動されるかどうかです。あまり考えることなく、一般に広く言われている方の表現を選ぶことも可能です。問題は起きません。多くの新聞記者はそうしています。その方が読者に伝わりやすいからです。あるいはデスクの考えがそうだからです。

このようなとき、自由な立ち場で思ったことが書けるのであれば、どうするのがいいか。どの言葉や表現を使うべきか。一つには、事実確認の過程でわかったことを逐一書くことで、その材料を元に読者にも一緒に考えてもらうという方法。これによってある程度、書いている文章への誠意を見せることができるかもしれません。調べた結果判明したことを羅列し、そこに書き手の判断を加えずに読み手に渡す、という。逐一調べて書くことは簡単なことではないし、一生懸命労力と時間を使ったとしても、読み手の関心はそこにないかもしれません。とするとその書き手の苦労は、まったくの無駄となるのでしょうか。

でもこれこそが書く技術を高めることに繋がるのかもしれない、という風にわたしは思います。

人がものを書くとき、どこまで自覚的になれるかは、最終的に書き手としての良心につながるものだと思います。使う用語、表現というのはともすると無意識のうちに選ばれていたりもするもの。自分の言いたいこと、伝えたいことを補強(強調)するために、使用される表現や用語を選択する際、正しいもの、適切なものを選べないということも起きます。

最近、ある音楽家のミニ伝記を書いていて気づいたことがあります。資料としてさまざまな文献に当たるわけですが、一般に日本語で書かれたものには、否定的な事実の記述があまりありません。著名人に関してマイナス要素を挙げることに抵抗があるのでしょうか。英語の文献では、その人物を非難したり悪者に仕立てたりという意図からではなく、良いことと並列して良くない点や暗部についても、率直に書かれていることが割とあるなと。それによって人物像に厚みが出るだけでなく、人間一般の複雑さにも考えが及ぶという気がしました。

評伝を書く場合、対象となる人物をおとしめるためでも、持ち上げるためでもなく、充分な準備をした上で高い自意識をもって書くこと、それがその人物に対する、そしてその文章に対する誠実さに繋がると感じます。

このようなことを達成するのは、誰にとっても簡単ではないので、難しいことをあえてすること、何とか達成しようとすること、それが大事なことに思えます。こうした不断の努力によって書く技術は高まっていくのかもしれない、そんな風にいま感じています。

でも、、、やはり簡単なことではないです。時間がない、疲れてしまったなどの理由で、「この辺でいいや」と終わりにしてしまうことはありがちです。またそこまでピリピリしていない状態なら、多くのことは無意識に流されてしまっているはず。自分ではなかなか気づけない。

こうして書いていて、作文(創作)において、自意識をもって取り組むことの難しさを改めて痛感しています。


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