見出し画像

[エストニアの小説] #7 ハバハンネス (全10回)

#1から読む #6を読む

 「いいかな、ロキ」 ニペルナーティが勢いづいて言った。「筏を出して、きみを乗せてあげよう。きみは速い流れに強く引かれて走るのがどんなものか、知らないだろう。気高くて、また恐ろしいものなんだ。水がきみのまわりでゴロゴロ、ブクブクいって、天にはたくさんの星があってキラキラ輝いていて、その下できみは魔法の絨毯に乗ったみたいに、果てしない空間に投げ出され、飛ぶように滑っていく。そしてわたしはきみをギュッと抱きしめる、息ができないくらいにね。いいや、きみは夜の筏乗りが恐いだろう? 筏はロープを引けば、流れに逆らって戻ることができるんだ。それともきみはわたしの腕の中で、2、3キロくらい運ばれたいかな。見てごらん、わたしには頑丈な筋肉があるからね。きみはわたしの腕の中で柔らかな羽みたいになるよ。それとも柳の皮で笛をつくってあげようか。それをきみが吹くんだ。わたしはツィターを弾いてきみに合わせる。どうかな? 悪くないと思うんじゃないかな」

 ニペルナーティは悲しげな顔でため息をついた。「わかるよ、きみはわたしの言うことを信じてない。わたしがからかってると思ってる。二度と戻ってこないとね。わたしのことを無節操で嘘ばかり言い続けてる男だと思ってる。それで笛もほしくないし、それを吹いたりもしたくないんだ」
 ニペルナーティは立ち上がって、去ろうとしているみたいだった。
 ロキは男の首に飛びついて、こう叫んだ。「信じてる、信じてるって!」
 ロキはニペルナーティにキスをするとパッと立ち上がり、跳ぶようにして小屋の方へ走っていった。
 「ロキ、ロキ!」 その背に向かってニペルナーティは声をあげた。
 そして突然、月に憑かれたように振る舞いはじめた。少女の名を呼びながら、あっちへこっちへと走りまわった。
 「ロキ」 ニペルナーティはその名を愛撫するように、呼びつづけた。「小さなロキ、わたしは戻ってくるよ、きみを騙したりしない。きみはすごく小さくて、虫でさえ、きみのそばでは高い山のように見える。きみを腕の中に抱くこともできない。きみは小さな塵(ちり)一粒くらいで、指の間から滑り落ちてしまう」

 こんな風にひとりごとを言いながら、男は森の中を長い時間、恍惚感に包まれてさまよった。ロキを想ってさらなる微笑みを探し、それを見つけると幸せになった。やっと小屋に戻りロフトで横になったのは、かなり遅い時間だった。眠りの中でも、愛の言葉を口ずさんでいるように、ニペルナーティのくちびるは動いていた。

 次の朝、ニペルナーティが目を覚ますと、ハバハンネスが小屋の前にいた。歯の間にパイプを挟み、しゃべるときもそれをくわえたままだった。

 「シルベル、このおいぼれ! 筏乗りが来てんのか、ん?」 ハバハンネスが敷居に足をかけ声をかけた。「信じられんな。もののわかった筏乗りがシルベルの家のドアを押すことなどない、とおれは言っていたのに。奇人変人でもないかぎりな。ところがマルーがうるさいんだ。筏乗りがここ何日かここにいて、それは間違いないと言うんだ。おれは信じなかったけどな。で、自分の目で確かめにきたってわけだ」

 小屋の中からは何の返事もなく、ハバハンネスはいらいらとして「なあ、そうなのかい?ん?」
 「そうだ、そのとおり」 ニペルナーティがロフトから降りながら答えた。
 「じゃあ、おまえがその筏乗りかい?」 ハバハンネスが驚いて尋ねた。「これまでは筏乗りの連中はおれのところにやって来て、食べたり、飲んだりして、楽しくやってる。だからな、筏乗りよ、帽子をとっておれのとこに行こうや。ここにいても何の意味もない」

 ニペルナーティは芝の上にすわって笑った。
 「ふん、じゃあおまえは来ないんだな?」 ハバハンネスは腹をたてて言った。「犬どもを迎えによこそうか? おれの畑を見たくはないのか? おれの娘にあいさつをしたくはないか? おあつらえ向きの隠れ家を探してるんじゃないのかい? それともここの間抜けがおまえに呪いでもかけたのか? それで繋がれた犬みたいに、この小屋で動けないのか? おれの財産や所有地を見たくないってか?」

 ニペルナーティは立ち上がり、ハバハンネスの方に歩いていくと憐れみを込めてこう言った。「哀れなやつだ、言葉で表せないくらい哀れなやつだな、ハバハンネス。わたしは世界のあちこちを回ってきたけど、こんな足りないやつは見たことがない。鳥は空を飛ぶが、あんたのものじゃない。虫はちょこちょこと歩くが、あんたとは無関係。あんたの畑は苔しか育たない、ただ水がゴロゴロ鳴ってる沼と一緒だ。あんたの家は、小さな虫しか住めない蜂の巣みたいなものだ。そしてあんたのポケットは空っぽだ。そこを通っていくのは風くらい。そうでもなければ、何も手を貸さずにクディシームを放っておくわけがない。若い雌牛の1頭も譲らずにね。だがあんたは自分が哀れで貧しいやつだから、隣人に余ってるコートを分けてやることもしなかったわけだ」

 「じゃあ、おまえは自分のもちものを手放せと言ってるんか?」 ハバハンネスは腹をたてて叫んだ。「おれの家畜をこの間抜け爺にやれってか!」

 「だけどあんたは自分の手で何か得たことがあるのか?!」 ニペルナーティが怒って遮った。「あんたのために教会でコインを集めるよう頼まなくてはな。そうじゃないとあんたは飢えて死ぬ。あんたの腹の皮は乾ききって背骨にくっつくだろうよ。そして油でもガソリンでも剥がすことができない。こっちにはちょっとした財産があるんだ。しばらくわたしのところに来てみたらいい。わたしの富を見せてやろう。雄牛みたいに目がくらむだろうよ。木みたいに口がきけなくなる。わたしには海を渡る千艘もの船がある。金や穀物や絹をたくさん積んでな。列車千台が大地を走りぬけ、貨物列車は二つの王国を合わせた以上の価値だ。何百人、何千人の労働者が蟻のように、わたしのために地面を掘って金銀を集める。その人たちみんな、腰を折って金の詰まった袋を背負っている。わたしの畑に来て見たらいい、太陽が昇るところから始まって、日の沈むところまで広がってるんだ。風景のすべてが麦の穂で輝いている。わたしの工場に来て見るがいい、あんたのところのライ麦の穂よりたくさん、煙突がズラリと立っているのさ。その煙突の下にはわたしのために働く、わたし一人のために働く1万もの労働者がいるんだ。あんたはわたしの森も見たいだろうね、そこにはあんたの穀物倉庫にいるネズミよりたくさんのヘラジカ、鹿、イノシシがいる」

 「あー、あんたは笑ってるね。羨ましくて耐えられないんだ。あんたはこの筏乗りが何を偉そうにと思ってる。いいかな、聞くんだ。わたしは筏乗りじゃない。筏で川を渡っているのは、他の理由からだ。わたしはあちこち旅をして、人間を観察している。盗っ人やごろつきを見れば、刑務所送りにする。あんたもいいことをしてるようには見えないな、ハバハンネス。何にもだ。あんたは若い頃、他人の馬を乗りまわしたり、人の倉庫に忍び込んだりしてなかったかい?」
 ハバハンネスのパイプが口元から落ちたが、それを拾おうともしなかった。

 「コノキキキチガイガキチガイガ!」 ハバハンネスは怒り狂った。「この筏乗りは頭がおかしい」
 「頭がおかしいことはない」 にやりとしてニペルナーティが言う。「ハバハンネスの悪事がどんなものか、わたしはよく知ってるんだ。わたしがあることないことを口にして、時間を無駄にしてると思うのかい? 高い地位につく親しい友がいくらもいる、その助けがあれば、ハバハンネスを捕らえることもできる」
 「コノキチガイガキチガイガ!」 ハバハンネスはそう叫ぶと、家に向かった。
 「ここにいるのは奴隷だ、犬だ、この筏乗りは、骨の髄まで打ち叩かれるべきだ」 ハバハンネスは自分の敷地につくと、そう叫んだ。「あいつはおれを盗っ人と言った、刑務所に入れると脅した! おれがコジキより貧しいと。あいつの富は王国二つ合わせたよりもっとすごいとな。あのクソッタレは言った!」

*「コノキキキチガイ…..」:原文は"crazy, crazy"。これをどう訳すかについて考えたことを書いた記事はこちら

'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku

#8を読む


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?