見出し画像

XVIII.最後の作品

もくじへ
著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・『マダガスカル島民の歌』
・ラヴェル(友だちとしての)
・成功に対する反応
・ナイトライフ好き
・二つのピアノ協奏曲
・ウィーンへの旅
・『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』

 1925年、チェリストのハンス・キンドラーが、米国のクラシック音楽のパトロンであるエリザベス・クーリッジ夫人に、ラヴェルに室内楽曲を作ってほしいと話した。
 エリザベス・スプレーグ・クーリッジの名は、アメリカでも海外でもよく知られ、好意をもたれていた。室内楽への大いなる興味によって、アメリカ全土で毎年、無料コンサートを開催するためのクーリッジ財団を設立していた。これにより公共図書館、大学やカレッジといった場所で、著名な弦楽アンサンブルによる、質の高い室内楽を聴く機会を人々にもたらした。クーリッジ夫人の文化的な貢献は非常に大きく、音楽への経済的支援と若い作曲家への奨励、その二つが成された。彼女の支援するコンサートで演奏される楽曲の多くは、クーリッジ夫人自らの委嘱によるものだった。

 ラヴェルはクーリッジ夫人の委嘱を受け、声(歌)が主役のフルート、チェロ、ピアノによる、斬新な形式の四重奏を作曲した。この時期、ラヴェルは、エヴァリスト・パルニ(フランスの詩人、インド洋ブルボン島生まれのクレオール、1753~1814年)によってフランス語に翻訳されたマダガスカル島先住民の詩集に興味をもっていた。そしてそこから三つの詩を選んだ(5番目、8番目、12番目)。「ナアンドーヴ」「アウァ」「彼は甘い」の3曲である。
 『マダガスカル島民の歌』は、ラヴェル自らが追求するテーマによる作品で、それによって自作の特徴を余すところなく表現していた。ここではラヴェルの内なる反抗心(正義感のようなものか)が、弾圧された原住民の怒りを歌として表現されている。原始的な要素を取り入れつつ、人間の苦しみをドラマチックに表している作品である。ラヴェルはこの作品を、自作の中で優れたものの一つと考えていたが(弟のエドワールによると、『シェヘラザード』とともにお気に入りだった)、あまり演奏機会はなかった。歌の部分は、緊迫感と怒りに満ちており、楽器の演奏にはソリストの力量が求められた。「この作品は、あらゆる同時代の音楽の中で、最も風変わりで価値あるものの一つだ」と、アルチュール・イオリー(ベルギーの音楽学者、批評家、1897~1986年)は言う。
 クーリッジ夫人は『マダガスカル島民の歌』の初演のガラコンサートを、1925年10月にパリのホテル・マジェスティックでやることにした。これは重要な音楽家や批評家をたくさん招いて開かれるものだった。ラヴェル自身がピアノを弾き、ジャーヌ・バトリ(フランスのメゾソプラノ歌手、1877~1970年)が歌を、キンドラーがチェロを、ルイ・フルーリー(1878~1926年)がフルートを担当した。ところがコンサートの日が来て(いつものことではあったが)、第2曲「アウァ」以外は、まだ未完成だった。
 「アウァ」は奴隷制と白人の専制への反抗の歌である。

 「アウァ、アウァ! 白人を信用するな、あー、水辺の住人たちよ!」

 ピアノによる脅すようなリズムがベースに流れ、それがトムトム風の効果によって強調される。白人の暴君ぶりに対する原住民の警告ののち、「われわれは自由に生きる…」の言葉で、歌は終わる。

 当時フランスは領地のモロッコに問題を抱えており、原住民に対して戦争が布告されていた。クーリッジ夫人の聴衆メンバーの一人は、ラヴェルの歌に対して、激しい異議を申し立てた。ラヴェルが聴衆に応えて2度目の演奏をしようとしたとき、問題の紳士は立ち上がり、大声で抗議した。「我々の国がモロッコで戦っているときに、こんな歌をまた聞くのはごめんだ!」
 何人かの聴衆はこの男に賛成した。「よく言った、いいぞ! その通りだ…」 しかし他の人々は、この無礼な妨害に憤った。「我々はここに招待されて来たんだ」「嫌なら帰ればいい…」(出ていけ!)「このアホが」「脳なしと思え」「ブラボー、モーリス!」「ブラボー、ラヴェル!」

 騒動を起こした客は、最後には取り巻きグループと一緒に退散した。そして「アウァ」は繰り返され、熱狂的に誉めたたえられた。騒ぎの間、いつものように、ラヴェルは静かにピアノの前にすわっていた。この事件はラヴェルの人気をむしろ高め、『マダガスカル島民の歌』の成功を推し進めた。
 残りの2曲は、翌年になって完成した。第1曲「ナアンドーヴ」は官能的でエロティックな要素をもち、この点においてラヴェルのレパートリーの中で類を見ないものである。この曲は、美しいナアンドーヴを表しており、彼女のキスは恋人の魂を射抜くものだった。子守歌の形式で書かれ、リズムはシンコペーションになっている。冒頭、チェロの伴奏で対位法による長い朗唱があり、その後、フルートとピアノがそこに入ってくる。最後の歌詞はこのようなもの。

 あなたはわたしを置いていく、わたしは悲しみと願望のうちに力を落とす
 夜まで、わたしは力なく過ごす
 あなたは今夜、戻ってくるでしょう、ナアンドーヴ、ああ、美しきナアンドーヴよ!

 戦闘的な「アウァ」は第2曲、そして最後の第3曲は「暑さの中で横たわるのはなんて素敵」とはじまる。この静かな夜想曲は、夕べの平穏を歌う。「葉の繁る木々の下でからだを休め、気持ちのいい夜の風を待つのは、なんと心地いいことか」 最初の部分は、フルートと歌による対話。ピアノによるゴングを鳴らしたような部分があり、チェロがアフリカの太鼓を真似るようなピチカートで入ってくる。そして曲は歌声と共に消えていく。

 夜風が起きて、月は山の上の木々の間で輝く。
 さあ行って、食事の準備をしましょう。


 1927年、ラヴェルは友人のレオン=ポール・ファルグ(詩人、1876~1947年)の詩「夢」に曲をつけた。『マダガスカル島民の歌』とほぼ同じスタイルのものだった。3声による対位法と、いくつかの和声的ハーモニーがあり、透明感と簡潔さに満ちた夢見るような楽曲である。同じ年に、子どものためのバレエ作品『ジャンヌの扇』の前奏曲として「ファンファーレ」が書かれた。スコアには、皮肉にも「ワーグナー風に」という演奏指示が入っており、ロラン=マニュエルはそれを「小さなリリパット人による、虫の鳴き声のようなトランペットのファンファーレで始まり、『神々の黄昏』の様式で終わる」と評した。
*「神々の黄昏」はワグナーの楽劇『ニーベルングの指環』4部作の内の4作目の作品。神々の世界の終焉を描いている。ラヴェルはワグナー嫌いで知られていた。(訳註)

左からレオン=ポール・ファルグ、モーリス・ラヴェル、
ジョルジュ・オーリック、ポール・モラン(1927年)

 1928年の春、ラヴェルがアメリカツアーから戻ったとき、弟のエドワールに加えて、ラヴェルの親しい友人たち、ボネ夫人、モーリス・ドラージュとその妻、エレーヌ・ジュルダン=モランジュがルアーブルの港に出迎えた。ジュルダン=モランジュは、レースの紙に包まれた花束をラヴェルに贈った。
 「あたしたちが会いに来て、よかったでしょ?」 そう冗談めかして彼女が言うと、ラヴェルは激怒した。
 「あなた方が来ないのを見たかったよ」 そう返した。
 この言い分は、ラヴェルの性格の典型的なところを表している。ラヴェルは表立って友情を表すことはなかったが、友人たちはラヴェルを心から愛していた。ラヴェルは友人たちに対して献身的ではあったものの、甘やかされた子どものように、専制的なところが少しあった。「友情というものに嫉妬している」 そう告白していた。近しい人たちに対していろいろ要求をしたが、静かで控えめな態度によって、尊大なところを充分補ってもいた。ラヴェルにとってどれほど友人たちが大事か、そのことを人に察せられることを恥じているように見えた。ロラン=マニュエルによれば、ラヴェルは非常に社会的な存在でありながら、言葉少ない人である。「非常に単純で、非常に優しくて、友だちには非常に厳しい。ラヴェルはその外見から、そして気まぐれで逆説好きなところから、『精神が冷たい』と言われることがあった。しかしそのような外見にも関わらず、この『完璧さの囚人』は、ほんのひと突きで傷つくような敏感で熱い魂を隠してもいた。だからといって心があることを見せるために、胸の内を明かすことはないのだが」

 ラヴェルはちょっとした予想外のことをして、友人たちをびっくりさせることが大好きだった。見つからないよう秘密にすることに熱心で、子どものように、自分がもらいたいものを人にあげようとした。陶器やおもちゃといったちょっとした物だ。ベニスへの旅から戻ったときには、知り合いの女性たちにけばけばしい偽の宝石のベルトバックルを贈った。「これ、まがいものじゃない!」 一人の女性が言い放った。「……でも、そういうラヴェルは素敵」と付け加えた。弟のエドワールは、自分が病気でパリの病院に入院していたときのことを思い出す。モーリスは弟の気を紛らわせたいという思いから、バスク地方の機械仕掛けのペロタ選手の人形を持参して、病人の枕の上に置いた……
*ペロタ:バスク地方発祥のボールゲーム。素手、グローブ、ラケット、バットなどで、壁に向かってボールを打ち合って競う。(訳註)

アメリカから戻って2、3ヶ月後、ラヴェルはあの有名な『ボレロ』を書いた。そしてこの名作が素晴らしい成功をみたことで、さらに仕事量が増えていった。しかしこの偉業にも関わらず、ラヴェルは何も変わることがなかった。この成功に「ブラボー、ラヴェル、たいした栄誉だね」と賛辞を送る友人に、ラヴェルは肩をすくめて「あー、これは単なる流行りだ」と答えている。

 客演指揮者としての招待、様々なヨーロッパの音楽祭への名誉客演、外国の大学からの名誉教授職といったものが、あらゆる方面からラヴェルの上に降り注いだ。3回のレジオンドヌール勲章を断ったラヴェルだが、ベルギーやアメリカといった海外の勲章はいくつか受けていた。1931年には、オックスフォード大学から名誉博士号を授けられた。(1928年の間違いではないか:訳註)

オックスフォード大学にて(1928年)

 度重なる演奏旅行やそれによる疲労、公の場で受ける刺激は、あまり丈夫ではないラヴェルのからだに、負荷をかけることになった。そしてアメリカから帰るとすぐに、極度の消耗と疲労、そして不眠の悪化に不満をもらすようになった。友人たちはラヴェルに、生活を改めるよう強く説得した。タバコを減らし、きちんと体を休めること。「だけどどうして夜の時間を睡眠に当てなければならない? 夜はわたしが仕事をする時間だ」 わがままを言う子どものように、そう主張した。
 ラヴェルはいつも、道端のカフェでゆったりとグラス片手に過ごすフランスの習慣が好きで、仲間の一人、二人とその時間を楽しんだ。しかし年を経るにつれ、そして不眠症がひどくなると、このような単純な息抜きでは間に合わなくなってきた。パリにジャズがやって来て、ナイトクラブが街のあちこちに現れはじめると、こういった娯楽場にラヴェルは夢中になった。これによって現実逃避し、孤独から逃れようとした。振り払うことのできない落ち込みを、明るい照明と躍動するリズム、きらめく環境が救った。そこでラヴェルは愉快な仲間たちと楽しい時間を分かち合った。

 「Bœuf sur le Toit(屋根の上の牛:1921年に開店したパリのクラブ)」と「Grand Ecart(股割り:1925年開店のパリのクラブ)」がラヴェルのお気に入りのナイトクラブだった。人がたくさん集まれば集まるほど、タバコの煙にもうもうと包まれれば包まれるほど、そして音楽が煩ければ煩いほど、ラヴェルは歓迎した。夜明け近くになると、仲間の誰かが、もう家に帰る時間だなと言い出す。が、ラヴェルはそうは思わなかった。「もう帰るのかい?」 ひとり残りの夜と向き合うのが怖いのを隠して、笑顔をみせつつそう言い返した。「なんでそんなことを言う? だってこんなに楽しんでいるのに……」

 ボネ夫妻はこの頃、サン=クルーを離れて、ルヴァロア=ペレに家を建てることを決めた。ラヴェルの弟エドワールの工場のある場所、その隣りである。モーリスの部屋が、この邸宅の2階に確保された。友人のレオン・レイリッツ(フランスの彫刻家、1888~1976年)が、この部屋をベルヴェデール(パリ郊外にあるラヴェルの家)とは正反対の超現代的なものにデザインした。作り付けのベッド、間接照明、そして部屋の片隅にはちょっとしたバー。ラヴェルがこの街を訪れるときはいつも(この不安定な時期、週に何度もモンフォール=ラモーリーからパリまで、小さなバスで通った)、シュヴァリエ通り17-2に住む弟のエドワールとボネ一家と過ごした。ラヴェルのスイートルームは、彼がこの世を去ったあとも、そのままの状態で保たれている。ここには、レオン・レイリッツによる胸像に加えて、ラヴェルのデスマスクとブロンズの美しい手のレプリカがあり、エドワールはそれを大切にしていた。

 アメリカツアーの大成功によって、この国を再び訪れることが計画され、ラヴェルはピアノ協奏曲を作曲して、自分のピアノ演奏でアメリカの主要オーケストラと共演しようと考えた。このプロジェクトに取り掛かったとき、オーストリアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタイン(戦争で右腕を失っていた/訳註:哲学者のルートヴィヒは弟)が、左手のためのピアノ曲を依頼してきた。ラヴェルはこれを了承し、二つの(スタイルも、性格もまったく違う)ピアノ協奏曲が、同時に制作された。ラヴェルはこの二つの作品について、次のように述べている。

 二つの協奏曲を同時に考え、作曲することは面白く実験的なことでした。最初の一つは、わたし自身が演奏するもので、その言葉が示すようなコンチェルトそのもので、モーツァルトとサン=サーンスの精神で書かれます。こちらは陽気で輝かしいもので、深淵な作品に見せる必要はなく、ドラマチックな効果を目指してもいません。
 最初、この曲は、『ディベルティスメント(嬉遊曲)』と名付けるつもりでしたが、そうする必要はないと考えました。「協奏曲」という題がこの音楽を充分に説明していると思ったからです。ある見方をすれば、この曲はわたしの『ヴァイオリンソナタ(第2番)』と似たところがあります。ジャズの要素を借りており、ただ節度をもって使っています。
 左手のための協奏曲は、まったく違う性格のもので、たくさんのジャズの要素を含む、1楽章のみの作品です。書法は単純なものではありません。
 この手の作品では、軽さや質感ではなく、両手のために書かれたような効果を生むことが不可欠です。

ロンドンの新聞、デイリー・テレグラフ

 ラヴェルは二つの協奏曲のために何ヶ月もの時間を費やした。健康状態は悪くなる一方で、『ピアノ協奏曲ト長調』のピアノ独奏部分を弾くことをあきらめ、マルグリット・ロンに代わりにこの新曲の披露を頼んだ。ラヴェルは彼女にこの曲を献呈し、1932年1月14日、新しくなったサル・プレイエルで、ロンは素晴らしい初演の演奏をした。ラヴェルは、3500人の満杯の観客の前で(数百人が入場できなかった)、ラムルー交響楽団(コンセール・ラムルー)を指揮した。
 初演の数日後、マルグリット・ロンとラヴェルは、ドイツ、ポーランド、オーストリア、ベルギー、スイス、オランダ、ルーマニアをツアーしてまわった。ラヴェルは指揮をし、ロンがピアノを弾いた。ロンはツアーの間に起きた、ラヴェルの「よく知られたうっかり」について話している。旅の間、ラヴェルは手荷物を忘れたり、列車のチケットや腕時計をなくしたり、自分に(あるいは彼女に宛てた)手紙を開けることなく、ポケットに入れたままにした(それはときに面倒を引き起こした。「こうやってお土産を溜め込んでるってわけね」とロンはあきらめ顔)。

 プラハでラヴェルは、モーリス・ドラージュの母親に贈るために、クリスタルの瓶を買おうとした。戦争中、ラヴェルの守り神だった人である。その晩、ラヴェルは演奏会が始まるギリギリの時間まで、贈り物を探して店から店を歩きまわり、最後には疲れ切ってしまった。それはロンも同じだった。それから何ヶ月かして、ラヴェルの家で、ロンはクリスタルの瓶の入った箱が開けないまま置かれているのに気づいた。戦争の守り神にそれを贈ることをすっかり忘れていたのだ。

 『ピアノ協奏曲ト長調』は左手の協奏曲よりも、ラヴェルの作品としてより典型的なものだった(「+ラヴェル」とラヴェルは呼んでいた)。ラヴェルはこれをドラマチックな、あるいは型にはまった曲にしたくなかった。それとは反対に、この曲を「ディベルティスメント」なものに、陽気で輝かしく、皮肉があり、でも全体として楽しめるものにしたいと願い、そう語ってもいた。しかし第2楽章は、それ以上のものになっている。この楽章は、前後を挟む活発な第1、第3楽章と見事なコントラストを見せ、優美で優しさがあり、シンプルなメロディが圧巻している。(↓ 第2楽章)


 ラヴェルはこの2楽章について、モーツァルトの五重奏曲をモデルにしていると語っている。それは古典的な静けさに包まれ、ラヴェルの平穏な時間への思いを体現している。「人生が与えるものを受け入れようじゃないか」と言っているように見える。「受け入れることで美しさが、そして休息が手に入る」と。

 『ピアノ協奏曲ト長調』は、ピッコロによる明るく優雅な主題ではじまる。作品を通して、オーケストラはきびきびと明快で、ピアノによるトリルとアルペジオが降り注ぎ、ハープは『オンディーヌ』と『水の戯れ』を思い起こさせる。テンポの速い終楽章は風刺的にジャズに突入し、ピアノとオーケストラの狂気に満ちたバトルとなる。この曲では全曲を通して、ソリストのパートは厳格さと最大級の技術の統合が必要とされ、そして真ん中の楽章では、高い理解力と感情の深みが求められる。

 この協奏曲以上に、ラヴェルが自分のアートを表現しきった作品はない。この作品は、輝き、明瞭さ、優雅さ、そして独創性と、ラヴェルの本質のすべてを含んでいると言われる。第2楽章の優しさと簡潔さ、そして最終楽章の大いなる活力と騒音に満ちた完成度は見事である。(↓ 第3楽章)


 『左手のためのピアノ協奏曲』は、これと全く対照的な作品である。この曲をラヴェルの偉大なる名作の一つとみなす人がいる一方で、両手の協奏曲より劣ると考える批評家も多い。ドミニク・ソルデはこう言う。「すでに明らかになっているラヴェルの創造性と残酷な病との間で苦悩する姿を目撃する」ものであると。他の批評家は、「力作」と呼ぶ。賭け(gageure)の一つ、あるいはラヴェルが格闘し征服することを愛した難しい課題であると。
 この「gageure(ガジュール)」という言葉は、ラヴェルに対してよく使われた。そのまま訳せば「賭け」である。ラヴェルに当てはめて言えば、自分に対する賭けで、固い木の実を決然と砕こうとする賭けである。それが固ければ固いほど、ラヴェルは喜んだ。この意味で、あの有名な『ボレロ』は「gageure」だった。たった一つの主題と手法で楽曲のすべてを完成させた。『左手のためのピアノ協奏曲』には、(利き手ではない左手による)片手で、両手で弾いているように聞こえるという「gageure」があった。

 この作品を聞いた者にとって、ラヴェルの成し遂げたことは明らかだった。これほど豊かで完璧な効果が左手だけで生めるとは、信じがたいことだった。ある箇所では、オーケストラ演奏のようですらあった。この作品は1楽章から成っている。コントラバスとチェロによるくぐもった(霧の中のような)音ではじまり、これに他の楽器が鋭く荒々しい強度で加わり、クレッシェンドをかける。主要テーマは悲しげでむっつりとしたサラバンドである。ピアノはフォルテッシモの和音ではじまり、それを持続し、全曲を通して、ザラザラとした野蛮なリズムで進行する。アンリ・ジル=マルシェックス(フランスのピアニスト、作曲家。1894〜1970年)は、この曲をモダンジャズによるバッハの『ブランデンブルク協奏曲』の(活発な)アレグロと比較している。そして最後の部分を「邪悪な冷笑」と呼んだ。


 『左手のための協奏曲』は、とてつもない技巧を必要とし、ヴィトゲンシュタインがある箇所は弾くのが難しい、自分の能力に合わせて変更を加える必要があると訴えたことは、驚くに当たらない。しかしラヴェルは、このオーストリア人ピアニストが、自作に対して、許しがたい自由を主張していると感じた。自分が望むように、この協奏曲を弾きこなせる人間を探していて、演奏可能で、共感をもってくれたジャック・フェブリエを見つける。ラヴェルの音楽院時代の同窓生の息子だった。アンリ・フェブリエは、今やパリの音楽・文学のサークルの中心人物で、その息子は若い世代のピアニストの中でも輝かしい才能の持ち主として、名をあげていた。マルグリット・ロンの元でパリ国立高等音楽院で学び、ジャックはラヴェルと近しい仲だった。そしてラヴェルは、ジャックを『左手のためのピアノ協奏曲』の公式の演奏家として選んだ。ラヴェルは自分で直接この曲をどう弾くべきか、ジャックに厳密に伝えた。1937年11月、フェブリエはクーセヴィッキー指揮のオーケストラでこの曲を演奏するため、ボストンに招かれた。そしてそこで熱狂的な賞賛を受けた。ラヴェルがフェブリエと共に写真に収まったのは1937年10月のことで、ジャック・フェブリエがアメリカに発つ直前のことだった(ラヴェルはその2ヶ月後に死んでいる)。

フェブリエ(左)とラヴェル(1937年)

 1932年の秋、中央ヨーロッパを巡る長い旅の後、ラヴェルは映画会社から交渉を受け、『ドン・キホーテ』のために音楽を書くよう依頼された。シャリアピン主演とのことだった。ラヴェルはそのとき、マヌエル・デ・ファリャ、ジャック・イベール、ダリウス・ミヨーなどの他の作曲家にも依頼がいっていたことを知らなかった。
 『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』の映画ために、ラヴェルは三つの歌を書いたが、先方は受け入れなかった。いつものことながら、ラヴェルは作品を仕上げるのに時間がかかり、映画会社はこのことを口実に断った。他に言われている理由として、シャリアピンがこの歌が充分な効果をあげないと思ったことがある。
 『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』はラヴェルの最後の作品で、スペインとバスクのテーマをつかって展開されている。第1曲「空想的な歌」は、ギターをかき鳴らすような伴奏で、第2曲「英雄的な歌」は、聖母マリアへの祈り。

わたしの寝ずの番を見ている天使
わたしの愛する女性はあなたが好き
青いマントを着たあなたへ!
アーメン!

 第3曲「酒の歌」は喜びに満ちたセレナーデで、スペインのホタのリズムが際立ち、ユーモアと詩的な大胆さをもつ。その後のラヴェルの悲劇の日々を思えば、音楽への別れの歌であるこの歌は、奇妙に皮肉な言葉で閉じられている。

成功と喜びに乾杯……


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?