韓国文学とイカゲーム
斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』という本を読みました。斎藤さんは韓国文学の翻訳者。『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著)や『フィフティ・ピープル』(チョ・セラン著)などの翻訳で知られています。わたし自身は韓国の小説をそれほど読んでいるわけではないのですが、この2冊は読んでいます。
『韓国文学の…』を読んでみようと思ったのは、サンプル本の目次を見ていたら、光州事件や朝鮮戦争の項目があったことが一つありました。文学の中でこういった出来事がどのように描かれているのか、あるいはこのような韓国にとって大きな事件が文学にどう影響を及ぼしたのかに興味があったからです。
1. 日本人と朝鮮戦争
読んでみて驚いたのは、韓国文学は最近になって日本語に訳されるようになったのではなく、数は少なかったかもしれないけれど、かなり昔、1970年代から日本語に訳されて出版されていたことでした。また日本人作家による朝鮮戦争をテーマにしたアンソロジーが、集英社の『コレクション 戦争と文学』(全20巻)の第1巻「朝鮮戦争」として出版されていたり、この戦争の最中の1951年に、堀田善衛が朝鮮戦争を日本の知識人がどう受けとめていたかを『広場の孤独』という小説で描き、その年の芥川賞作品となったことも驚きでした。(この本はKindle版であったので早速購入しました)
『韓国文学の…』を読むことで韓国文学と日本文学の関係、朝鮮戦争と日本人作家の関係を知ることができたのは収穫でした。
わたし自身、韓国や朝鮮半島への興味はもともとある程度ありました。その理由のひとつには、日本が南北朝鮮が一つだった時代に植民していたことがあります。そのことがあって戦後、この半島が二つに分断されたという負の歴史は、日本の歴史の重要事項として心に止めていることです。そして自分に今できることは何かと言えば、そこで起きたことを機会あるごとに「知ろうとする」ことかなと思っています。
2. 日本の統治時代を描いた小説
『韓国文学の…』で紹介されているのは、南北分断以降の小説ですが、朝鮮半島がまだ一つの国だった頃、その時代が舞台になっている小説について、わたしの体験を書いてみようと思います。
葉っぱの坑夫を始めて少したった頃、東京国際ブックフェアの韓国ブースで、ある本と出会い衝撃を受けました。それはミロク・リー(Mi-rŭk Yi、1899〜1950年)という朝鮮半島出身で、3.1(独立・抗日)運動に参加した後、ドイツに亡命した作家の書いた自伝的小説でした。ミロク・リーはこの小説をドイツ語で書き、没後の1952年、散文作品に与えられるドイツ国内の文学賞で(賞名は不明)最高賞を受賞しています。わたしが手に取ったのは英語訳版で "The Yaru Flows"というタイトルでした(1986年、アメリカ/韓国の共同出版)。
Yaru Riverは、日本語では鴨縁江(おうりょくこう)と言われています。朝鮮と中国との国境沿いに流れる全長790キロメートルの長い川で、主人公のミロク青年は闇にまぎれて命からがら、漁師の舟でここを渡り国外に逃れます。
ブックフェアで手に取ったその本には、日本統治下にあった頃の主人公ミロクの子ども時代から、中国〜ヨーロッパへの亡命にいたるまでの日々の出来事が、克明に綴られていました。
東京国際ブックフェアの韓国ブースで立ち読みしていたわたしは、この本の各所の記述にしばし捉えられました。こういうものを読んだことがなかったからです。朝鮮半島の人々が当時、どのような暮らしをしていて、日本による統治で何が起き、どんな思いをしたのか、もっと知りたいと思いました。
そしてこの本を読んだのち、日本語に翻訳することを決め、2005年4月から2007年8月まで、ウェブ上で連載・出版しました。
3. イカゲームと朝鮮戦争
ところで、『韓国文学の中心にあるもの』を読んでいるとき、Netflixで『イカゲーム』というドラマシリーズを見ました。ちょうどエミー賞の発表があったところで、この作品は主演男優賞、監督賞他6冠に輝いています。
この『イカゲーム』、エンターテイメント作品として見始めたのですが、途中から、『韓国文学の…』で書かれていることと重なる部分があることに気づきました。それは斎藤真理子さんが、本の中で「選択」という言葉を繰り返していたからです。
わたしはこのドラマを見ていて、あー、これは韓国にしか作れない作品じゃないかな、ということは感じていました。世界中で、おそらく韓国だけが作れるドラマ。でもそれが何なのかはよくわかっていませんでした。そして斎藤真理子さんの「選択」という言葉を見て、あ、これかもしれないと思ったのです。
『イカゲーム』ではゲーム参加者が選択を迫られる場面がいくつもあります。何の情報もない中での選択もありました。たとえば第2ゲームの「カタヌキ」は、ダルゴナ・ポッキという韓国の砂糖菓子(カルメ焼き)に描かれた型を針できれいに抜けたらクリア、というもの。この記事のタイトル写真がそれです。ゲーム参加者は、最初に○、△、☆、傘の四つの記号を選択します。この形がゲーム達成の難易度にかかわるとわかるのは、各人が菓子を手にした後です。菓子が途中で割れてしまったり、制限時間内(10分)に終えられなかったりすれば、脱落、つまりそれは死を意味します。
『イカゲーム』は生きるか死ぬかのサバイバルゲーム。自分が死ぬか他の人が死ぬかといった「選択」をその都度させられます。もちろん自分が生き残るための選択をするわけですが、それによって他の人が死ぬことになります。主演を演じた俳優のイ・ジョンジェさんは、ニューヨークタイムズのインタビューで、このドラマはaltruism(利他的行為、利他主義)というテーマの中で、ストーリーが紡がれていると答えていました。
選択という意味で最も厳しいところを突いていると感じたのが、このゲームに参加するか、しないか、つまりこの恐ろしいサバイバルゲームの手中に収まる(ゲームを勝ち抜いた最後の1人は大金を手にできる)ことを選択するか、それとも地獄のような現実世界で生きることを選択するか、のところです。ゲームから解放され、脱出する道はなかったわけではなく、条件(成員の過半数の賛成)を満たせば、その選択は可能でした。しかし登場するゲーム参加者たちにとって、どっちがより厳しい現実なのか、生き残れる道なのかは、究極の選択でした。
その現実の社会の厳しさを表す方法として、この決死のサバイバルゲーム(「だるまさんがころんだ」やビー玉、綱引きなど昔の子どもの遊び)を対比させる見せ方は実に効果的。全体として見た場合、全9話とてもよく出来たドラマだと思いました。個人的には韓国流(あるいは関西風)どベタな表現にかなり笑いました(そこで笑うかと非難されそうなので箇所はちょっと…)。ただ、どベタながらセンスはいいと思います。
主演のイ・ジョンジェさんが随所でみせた迫真の演技が、笑いを誘っていたのかもしれません。それは演技というより、その状況をいま、彼自身が体験しているみたいに見えました。イ・ジョンジェさんは1972年生まれ、お祖父さんから朝鮮戦争のときの体験を身近に聞いていてもおかしくありません。
4. サウンドトラック『イカゲーム』
このドラマシリーズでは、音楽(あるいは音響)がいい意味で耳につきました。ドラマを見たあとでサウンドトラックを聴きましたが、かなり楽しめました。チョン・ジェイルという映画『パラサイト』の作曲家が音楽を担当していて、冒頭の楽曲では自らリコーダーを吹いています。この曲は、子どもたちがイカゲームをして遊んでいる(懐かしの)モノクロ映像の背景曲として非常にマッチしていました。「ポポポポポポポポ…..」のピンク・ソルジャーのテーマ曲や、フレンチ・トイポップのパスカル・コムラード風の「ダルゴナ」、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』のBGMもはまっていました。
生きるか死ぬかの究極の選択、その激しさ、残酷さ、もがき苦しみ何とかして生き延びようとする必死さ(その形相)、それに対するのんきでユルく、どこか間の抜けた音楽、そういったもろもろがブラックな笑いにつながるところなど、ああ、これは韓国の作品だなぁ、と。
『イカゲーム』はエンターテイメント作品であることは間違いないでしょうが、朝鮮半島が経験した、大量の人間の無残で理不尽な死、厳しく救いのない歴史を少しでも知って見ると、サバイバルをテーマにしたこのドラマが、ただの娯楽作品とは思えなくなってくるのです。
最後に、前述の堀田善衛の『広場の孤独』の中から、『イカゲーム』を思わせる一節を紹介します。
「数学の単位のような任意の存在」、これは『イカゲーム』のゲーム参加者に振られた、認証番号のように思えます。ゲーム参加者は1番から456番までの参加番号があり、全員が着ているグリーンのジャージにそれが表示されています。そして名前ではなく、番号で人は認知され、番号で呼ばれます。「111番、成功」というように。また参加者自身も、(名前を知らないので)互いを番号で呼び合っています。
たまたま『韓国文学の中心にあるもの』と『イカゲーム』を同時に体験したことで、以上のような感想をもち、また連想があっちへこっちへと広がっていきました。ごく個人的な受け止め方だとは思います。一般論としては、あるいは識者の意見などを見ると、「過酷な韓国の競争社会をリアルに描いた」とか「女性、老人、外国人労働者などを弱者とする、韓国の格差社会を糾弾」のような批評があるようでしたが。
Title photo: Korean sugar candy by Triplecaña
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