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外国人に日本の言葉を説明してわかったこと

日本の社会では「空気をよむ」ことが大切と言われているけれど、最近、アメリカの友人と話していて、「read the airってわかる?」と聞いてみました。ヒントをいくつか言ったところ、「read the room」っていう言い方が英語にもあるけどそれかな、と返されました。

彼によると、「read the room」というのは、話し手がそこにいる人々(聞き手や聴衆)がどういう人か、何を期待しているか、どこが限界点かを考えて、何を、どのように言ったらいいかを類推することだそうです。近い!と思ったのですが、そのあとで、いや、ちょっと違うなと。

「read the room」というのは、主に話し手側の問題のよう。その人がその場の状況や状態を汲んで、話し方を検討することだと思いました。お笑い芸人がお客の顔を見ながらつぎのジョークを飛ばすように、主体(プレゼンテーター)の側のコントロールであり意思決定ということでしょうか。

でも「空気をよむ」というのは、主体と客体、両方に関係すること。話し手だけでなく、受け手の間でも起きること、互いに「空気をよみあう」といったことです。Googleで「read the room」を検索すると、多くの結果が「空気をよむ」と結びつけていました。「その場の雰囲気を感知する」という説明がありましたが、主体が何かには触れられていないようでした。ある意味、そこに触れないことこそ(その無意識感)が「空気をよむ」を育んでいるのかもしれません。

もしわたしの友人が言うように、主として話し手の問題としてこの表現(reading the room)が使われるのだとしたら、やはり日本語で言うところの「空気をよむ」とはコンセプトが違うように思います。似ているけれど、かなり違う。この違いは細かいことのようで、けっこう重要なことかなと感じます。

ちょっと脇道に逸れますが、この友人との話の中で「上座」という言葉が出ました。これは英語では「sit at the head of the table」とか「sit at the top of the table」という言葉に結びつきますが(たとえば英辞郎など)、これが「上座」と同一の意味なのかは少し考える必要がありそうです。

日本語の「上座」は、テーブルの席の位置だけでなく、いちばん入り口から遠い奥の席、床の間や神棚があるといった状況もふくまれるようです。また英語の head とか top というのは、そのグループの中の権力者や地位が高い人がすわる席で、それ以外の席にもきまりがあるのかどうか。

日本語の「上座」にはその反対の「下座」という入り口に近い席を指す言葉があります。また、「上座」という言葉の世界には、その他の人がどこにすわるかもある程度きまりがあるようです。「ビジネスマナー」の文脈で、これを説明しているサイトがけっこうあって驚きました。「社会人なら知っていないと困る、席次のルール」のような表現がありました。社会に出たら仕事の中身より、こういう「マナー」がまず大事ということなんでしょうね。

だいぶん前のことですが、ある美術評論家の自宅でネットの集まりのオフ会がありました。その自宅の建物というのが元旅館で、オフ会は大広間をつかって行われました。何人くらいいたか、50人はいたかもしれません。20代から4、50代くらいの男女が集まりました。時間になってその評論家が部屋に入ってきてまず言ったのが、「おもしろいですね、みなさんの座り方」。大広間ですから30畳とかもっと広かったかもしれません。そこにいた人全員が壁際にぐるりと座っていたのです。部屋の真ん中はぽっかりと開いていました。おそらく前の方には床の間のようなものがあって、そこは誰も座っていなかったのではないかと思います。言われるまで、そのように座っていることに(わたし自身もふくめ)誰も気づいていないようでした。自然にそのような座り方になったということです。

その場に外国人はいなかったと思います。もしいたら、そしてその数が一定数以上だったら、おそらくこれとは違う座り方が生まれていたのではないかと想像します。

さて「空気をよむ」にもどると、この言葉の真意は、まわりの人が何をどう考えるか、感じるかをまず知ってから、自分の考え、気持ち、態度を決めて、表すということだと思います。「read the room」と「read the air」の違いを友人に説明する際、例として「紅茶にしますか、コーヒーにしますか」をつかってみました。他にパッといい例を思いつかなかったので。

知り合いの家に何人かで行って、そこでこれを聞かれたら、という場合。日本の人は、自分が何を飲みたいかをまず一番に考えて「わたしはコーヒーがいいです」と、率先して言うことは少ないと説明しました。誰かが「紅茶を」と言えば、「わたしもそれで」「わたしも」「わたしも」となりがちだと。それに対して、友人は「conformity(一致、調和、順守)」ということだね、と理解したようです。

友人は「ある意味、いいことかもしれないけど、自分の考えでは創造性が制限され、抑え込まれてしまうと思う」と感想を述べていました。確かにそうですね。「assimilation(同化、同一化、吸収。一般により大きなものと同一になりその一部になる過程:英辞郎)」とも言えそうです。

このあたりの心性には、アメリカ人と日本人にはかなり違いがあるかもしれません。何かを聞かれたとき、まず自分の心に問いかける人。一方何かを聞かれたとき、まわりを見まわして、何と答えるべきか考える人。それは他の人はどう考えるかを、自分の考えより優先する人、とも言えます。これが悪いことである、とは一概に言えないと思いますが、自分の考えや気持ちを問う習慣がない、ということになると、それはそれで問題かもしれません。あるいは「自分はコーヒーを飲みたい」と自覚しているけれど、それは言えないことだと思ってしまうのも、多少問題があるかもしれません。さらにはそのような場合、自分に問いかけをしたことがないので、自分の気持をつかむ方法がわからないとなると、生きていく中で悪い影響が出るかもしれません。

自分の考えを率直に表さない、表せない、自分の気持を問うことが少ない、という中で、「空気をよむ」という行為が生まれているとしたら、生き方全体の中に明快さが欠けてくる可能性はあります。また、自分という存在を、自分自身が低く見る、自分の考えていることを自分自身が大切にしない、ということに繋がるかもしれません。

しかし「空気をよむ」ことが大事な社会では、人と人のあいだで争いごとが起きにくく、平和が保てると考えることもできます。自分のことを一番に考えない習慣によって、大切なのは単体の自分ではなく、自分もふくめたともに生きる人々の総和なのだ、と。こう考えるのであれば、未来的な考え方に繋がるかもしれません。そのときに「ともに生きる人々」というのが、どこまでの範囲なのかはポイントになりそうです。

一般に「空気がよめる」のは、ある程度知っている人たちといる場合だと思います。もしその場にいるのが、日本人だけでなく、海外のさまざまな地域からやって来た旅行者だったりすれば、他の人がどう思っているかを類推するのは難しくなります。

見ず知らずの人の集団であっても、全員が日本人であれば、「空気をよむ」ことは、ある程度可能になります。それは日本人はだいたいみんな同じように考える、という認識が各人にあるからです。ただし本当に日本人なら、みな同じように考えるのかどうかは?マークがつきます。本当に同じように考えているかどうか、ではなく、考えるように同化することによって、同じ方向を向いている、方向づけしているとも言えます。

単体の自分が考えることだけが大切ではなく、自分もふくめたともに生きる人々の総和としての考えが大事とした場合、たとえば環境問題や食糧問題を考えるとき役に立つかもしれません。それは「空気をよむ」ということとは違うことですが、他者の考えに身を寄せるという意味では、少しだけ似ています。その場合もやはり、「ともに生きる人々」の範囲を意識的に考えること、できるだけその領域を広げていくことが大事かなと思います。

前々回に食のサステナビリティについて書きましたが、学んだことの中に、食のシステム(生産から消費、廃棄まで)を考えるとき、生産の現場で起きる環境問題や食品の安全性、流通過程の複雑化からくる「生産と自分が口にするものとのかい離」といった目に見えやすい問題だけでなく、過去の歴史も含めて、生産現場で働く人々の人権についても、消費者であるわたしたちは考える必要がある、ということがありました。想像力を働かせて、他者の存在を考える、気づかうことは基本的には良いことだと思います。ただ、それがごく狭い範囲内でのみ適用され、同化する方向に働いたり、そこから外れるものに対して無関心だったり、排除の思想へと向かう場合は、望ましくない作用になると思います。

反面教師として「空気をよむ」を捉えるなら、「空気をよむ」ことではつかみきれないこと、理解できないことこそを、積極的に「読んでいく」必要があるのではと思います。

悪い意味でとらえれば、日本の人は「空気をよむ」ことによって、みずから窒息状態に陥っていると思います。外国人など「空気をよめない」人を排除しやすい環境を生んでしまい、一方で自分自身はむしろそれが気持ちよいという風にもなります。そういう人が、こんどは自分が海外に出ていくことになった場合、「空気をよめない(よまない)」環境の中で、どうふるまったらいいのかに苦労することになります。欧州などの海外に出ていった、日本の才能あるサッカー選手たちが、そこでチームやプレイになじめないで活躍できずにいることの理由には、言葉の問題以上に、「空気をよめない」環境(空気をよむ方法ではないコミュニケーションのあり方)に放り込まれたことが関係しているのかもしれない、と思ったりもします。

アメリカの友人に「空気をよむ」ことを説明するのが難しかったのは、たぶん、「主体のありどころ」と関係するのかなと感じています。アメリカ人にとって「主体」がない、あるいははっきりしないということ、そしてどこからともなく湧いてくる「主体のようでそうではない代替物として空気」は、やはり理解に苦労がともなうのだろうな、と。

葉っぱの坑夫で英語から日本語への翻訳を、文学作品やインタビューなどでやってきて感じるのは、言葉と文化的背景のつながりの深さです。言葉自体(word)は辞書でひけばおおよその意味がわかったとしても、その文(人)が何を意味しているか、何を意図しているかは迷うことがあります。今回例にあげた「read the room」も、単純に「空気をよむ」ことと同じなんだ、なーんだ英語圏の人も同じような心理をもち行動しているじゃないか、と理解するのは早計かもしれません。

似たような言葉や表現の中に、ちょっとした(でも重要な)違いを発見していくことは面白く、また気づきの多いことだと思います。その違いの中に自己を発見できる、そう感じています。

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