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XV. 『子どもと魔法』

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著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・大戦後、ラヴェル落ち込む
・音楽的変化
・『ラ・ヴァルス』 
・ヨーロッパ、イギリスの旅
・『バイオリンとチェロのためのソナタ』
・『ツィガーヌ』
・『子どもと魔法』

 「どうしようもなく悲しい」 1919年の半ばすぎ、ラヴェルはこのように書いている。この2年間というもの、ラヴェルは作曲できない状態にあった。自分は結核に感染したのではと恐れ、仕事がもうできなくなると落ち込んでいた。戦争中に不眠症に陥り、それが悪化していった。この苦しみは去ることがなかった。眠れぬ夜のことを人に話すことはなかったが、身近な人間は、彼がどれほど暗く長い夜を恐れていたか知っていた。ラヴェルは常習的な喫煙者だったが、このとき、この習慣はさらに強まった。1本、また1本と途切れることなく火がつけられた。「タバコがあれば、食べなくてもいい」 しばしばそう言っていた。

 戦争はラヴェルに大きな傷を残した。以前より背が小さくなったように見え、ほっそりした体躯はさらに縮まった。ふさふさとした黒い髪は白髪まじりになり(真っ白になるのも遠くないように見えた)、全体の印象にも影が差した。底知れぬ憂鬱な気分に捉えられ、その笑顔(以前の茶目っ気たっぷりの笑い)は、悲しみと皮肉に彩られた。大きな苦痛が心を占領し、また孤独でもあった。世界で一番愛する母親を失い、人生を分かち合う女性がいなくなった。

 ラヴェルの音楽も、この変化による影響を受けた。人々に苦痛を課している世界に対する反感、普通に生活することへの苛立ちや不満、そういったものすべてが音楽の中に現れた。後期の作品には辛辣さや刺々しさがあり、それがラヴェルの優しさを覆い隠した。ごくたまにしか生来の繊細な感受性を見せることがなかった。
 パリを離れ、郊外の静かな場所に逃れたら、また作曲ができるようになるのではないか、そうラヴェルは考えた。友人たちがラプラスという小さな村に家を提供した。ラヴェルは1919年12月にそこに居を移した。その数週間後、パリの各新聞がレジオンドヌール勲章の受賞者リストを発表した。友人たちはそのリストに、ラヴェルの名前があるのを見て驚いた(彼らはラヴェルの勲章嫌いを知っていた)。この知らせを聞くとすぐに、ラヴェルはロラン=マニュエルに電報を送った。「ありがたいことに願いは拒否された」 そしてこれに続く手紙に「みんなありがとう。今日は電報の嵐だった……なんとバカバカしい話なんだ。誰がこんな冗談をわたしにかますのか」 友人たちの願いも虚しく、ラヴェルはまたもや勲章を拒否した(フランス政府がラヴェルに勲章を授けようとしたのはこれで3度目だった)。後年、ラヴェルはこの態度を非難されると、笑顔でこう返した。「虚栄心というやつだよ……」

 ダンスのリズム、中でもワルツはモーリス・ラヴェルにとってなによりも魅力ある音楽様式だった。シューベルトのワルツは、『高雅で感傷的なワルツ』を生み、ヨハン・シュトラウスの明るく奔放な作品は、19世紀中頃のウィーンのきらめく宮廷のイメージを与えた。そこでラヴェルは、ウィンナワルツに捧げるバレエ作品を書くことを決めた。
 戦争によって、ウィーンはどれほどの苦しみや変化を被ったことか。昔の陽気なワルツは、いまや狂気の旋回と乱舞に姿を変えた。それは現実への激しい絶望から逃れる奮闘だった。ラヴェルは新しいバレエ作品を、ワルツの極地として捉えていた。それは昔の明るい気分から、現在の希望のない悲劇的状況まで、ウィーンの姿のすべてを回顧するものだった。
 スコアの一番上には、次のような説明がある。

 『ラ・ヴァルス』。漂う雲が、その裂け目から、踊る二人をのぞき見る。雲はじょじょに散り散りになり、旋回する群衆でいっぱいの巨大な広間が見えてくる。場面は少しずつ明るくなる。シャンデリアの光がとつぜん満ち溢れる。1855年ごろの帝国の宮廷。

 『ラ・ヴァルス』は「漂う雲」のカオスのざわめきで始まる。雲のすき間からワルツのリズムが、低音部の不穏な流れをともなってゆっくりと現れる。じょじょにこのリズムは盛り上がり、戦争前のウィーンの正統的な、ヨハン・シュトラウスの伝統に則ったワルツになる。
 すると突然、不吉で耳障りな和音が響き、混乱の予兆を示す。テンポが早まり、音量が増していく。最初のテーマが再現されるが、不協和なハーモニーの中に埋もれている。ワルツはそのまま続いていく。そして現代の解釈になる。狂気の旋回は激しさを増し、それとともに激しい苦痛と容赦ない運命がやって来る。踊り手は渦巻きの中、登場する。「たとえ死が訪れようとも、踊らねばならない…」 リズミックな不協和は果てしなく続き、耐え難いほどの激しさとなる。最後には、熱く激しい和音が衝突し、曲は終わる。そして音楽の呪いに捉えられた人々に解放が訪れる。『ボレロ』がそうであるように、『ラ・ヴァルス』には「クレッシェンドへの没頭」がある。

 『ラ・ヴァルス』は単なる「死の舞踏」ではない。古い価値と高い理想をもつある時代の風景が、カオスの中、地に落ちる。それは当時のラヴェル自身の苦悩を描いている。ラヴェルは友人たちとの陽気な生活を離れ、ラプラスの村でひとり暮らした、荒涼とした冬の数ヶ月にこの曲を書いた。『ラ・ヴァルス』には、この辛い日々の苦悶が貫かれている。

 ラヴェルは、この作品は自作の中で最も優れたものの一つと見ていた。それで、ディアギレフがこの作品を受け入れず、バレエ作品としての可能性にも目をとめなかったので、非常に腹をたてた。ルビンシュタイン夫人やその他の踊り手たちが、この作品でバレエを踊ってきたが、それ以上に交響詩としてこの作品は知られるようになった。作品ができてすぐ、ラムルー管弦楽団によって演奏され、大きな成功をおさめ、『ボレロ』とともに、ラヴェルの最もよく知られた作品になった。

 『ラ・ヴァルス』の大成功は、戦後、ラヴェルの名を聴衆に知らしめることになった。指揮の依頼があちこちから舞い込んだ。静かに人里離れて暮らすラヴェルは、ヨーロッパ各地をあちこち旅してまわるようになる。

 1920年の秋、ラヴェルはコンサートで自作の指揮をしてほしいとウィーンから招かれた。オーストリアはインフレの最中で、フランスの通貨は非常に需要が高かった。ある日のこと、ラヴェルは革製品の店に行き、書類ケースを選び、ホテルに届けるよう頼んだ。店の女性販売員がラヴェルの名前を耳にして、あの有名な『水の戯れ』の作曲家では、と尋ねた。ラヴェルがそうですと答えると、彼女は「あの完璧な作品への感謝のしるしとして」この書類ケースを受け取ってほしい、と請うた。ラヴェルはこの出来事を忘れることなく、これについてしばしば人に話した。自分の音楽が国外で非常によく知られていることは、ラヴェルの理解を超えることだったのだ。

 そこからの2年間、ラヴェルは各国をツアーでまわる日々がつづいた。オランダ、イタリア、スペイン、イギリス、ポーランド、ベルギー、ハンガリー、ルーマニア、スイス、そういった国々で、自作を指揮したり、ピアノを弾いたりした。スペインへのツアーでは、マドレーヌ・グレイ(フランスのソプラノ歌手)が同伴した。彼女は「ラヴェル讃歌」と題した『Revue Musicale』誌の特別号で、こんなみやげ話を書いている。
 グレイいわく、旅の間、ラヴェルはいろいろと愉しませてくれ、「常に予期しないことを生み出した」と書いている。「ラヴェルはいつも列車がもう出るというとき、ギリギリになって駅に到着します。それで大慌てで列車に乗るはめになる。ポーターを見つけられなかったりすると、小さなからだのラヴェルは、考えうる最高の喜劇を演じてくれます。時間観念のなさで名だたるこの気のいい男は、わたしの荷物を持つと言ってききません。誰にもそれを触らせず、小さなからだに不釣り合いな大きなカバンを懸命に運ぶのですから、それを目にした者はみんな可笑しくて仕方がないのです。わたしたちの時代の最高の音楽家の一人である彼が、こうなのですから」

 スペイン・ツアーの間、ラヴェルはグラナダではマヌエル・デ・ファリャに歓迎され、行く先々で熱狂的な喝采を受けた。マラガを除けばの話だが。マラガでは、聴衆は(控えめに、礼儀正しくではあったが)ラヴェルとグレイの演奏中にパラパラと退席していった。そして演奏が終わり、二人がお辞儀をするため舞台の前に進み出ると、席は空っぽだった。しかしラヴェルはそれに動揺しなかった。対照的に、その出来事を面白いと思った。それはハイドンの交響曲『告別』*を思い起こさせた。そして理解や忍耐に欠けていたとしても、聴衆が自分たちの思うところを表す勇気に対して共感をもった。
*ハイドン作曲『告別』:この曲の最終楽章で、オーケストラのメンバーが次々に姿を消していき、最後にはバイオリン奏者2人だけになる、という音楽シナリオを指している。宮廷の楽士たちの休暇を雇い主の貴族にアピールするための、ハイドン流のユーモアに満ちた策と言われる。(訳注)

 訪れたさまざまな国でのラヴェルの成功は、演奏家としてのというより、作品そのものに訴える力があるためだった。ラヴェルはそれなりのピアニストではあったものの、見事な演奏家とは言えず、またオーケストラの指揮も、刺激に満ちたというよりも、正確を期するものだった。イギリスで批評家たちがラヴェルの指揮を称えると、そのレビューにラヴェルは子どものように喜んだ。「新聞によれば、わたしは素晴らしい、少なくとも良い指揮者だという。まったく予想していなかったんだ……」

 ラヴェルはイギリスで数回、ツアーを行なっている。1926年、ラヴェルは著名なフランスのチェリスト、ジェラール・エッキングをツアーに伴った。エッキングはラヴェルの夜の散歩への熱意に驚かされる。コンサートを終え、二人でホテルに着替えに戻ると、ラヴェルはきまってこう尋ねた。「ちょっと散歩しませんか?」 ラヴェルとエッキングは暗闇の中、出発し、見知らぬ街を何時間もさまよい歩くのだった。ときに朝の4時まで。ラヴェルはその間、話しつづけ、少しの間もタバコを手放さなかった。中でもラヴェルは港町の波止場に魅了されていた。そのすべてが、ラヴェルを惹きつけた。子どものような尽きることのない好奇心の持ち主だった。小さな体躯の疲れ知らずのこの人間は、鋼の強さを思わせた。方向感覚には非凡なものがあった。まったく見知らぬ場所をさまよっていても、ホテルへの道筋をちゃんと見つけた。帰巣本能のあるハトのように、出発点にまっすぐに戻ることができた。

 ラヴェルとエッキングがロンドンに滞在しているとき、チャーリー・チャップリンの『黄金狂時代』が上映されていた。ラヴェルはそれを繰り返し見にいった。「シャリオ(小さなチャーリーのフランス語風表現か)」は、ラヴェルにとってたまらない魅力があった。心の内を表に出さないこのコメディアンと、豊かな感受性をもちながらそれを抑制するバスク育ちの音楽家には、内なる絆が存在した。「シャリオは映画俳優かもしれないが、その遥か先に到達している。登場人物の性格を分析し、陽気だが(そう、コメディアンだから)、同時に途轍もない深い悲しみがあり、その底にはドラマ性が横たわっている」

チャールズ・チャップリン(1889 - 1977年) モーリス・ラヴェル(1975 - 1937年)

 ラヴェルはコンサートで人目を集めるのが嫌いで、熱狂的な崇拝者たちに囲まれるのを避けてきた。「人前に出るのが嫌なんだ」と心情を語っていた。ラヴェルにとって音楽は、非人格的なものであり、作曲者個人を売り込むものではなかった。音楽評論家で古くからの友人、ジョルジュ・ジャン=オーブリは、ある記事の中でこのラヴェルの基本的な性格について、次のように書いている。

 ラヴェルの唯一の関心ごとは、芸術における音楽の創作であり、文学や政治といったものとは分離されている……彼は最先端をいく音楽家であり、音楽を名士の道具として、あるいは生きる上での安らぎとは見ていない。そうではなく、運命として定められた者の行為であり、それゆえに心を表し、露わにできるのだ。

 ラヴェルが「心を露わにする」ことはそれほどないものの、このような稀な進展があれば、心の奥底にある柔らかで敏感なものが、音楽に思わぬ魅力を与える機会となる。
 戦争につづく数年間、ラヴェルはこういった繊細さを隠してきたように見え、完璧ともいえる固い殻でそれを覆ってきた。メロディ重視とは正反対のシェーンベルクの無調主義に対するラヴェルの反応は、極限のところまで来ていた。『ラ・ヴァルス』の後に書かれた『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』は、ハーモニーの魅力となりうるあらゆる技巧がはぎ取られている。必要ではない要素は大胆に削除され、ごく簡素なメロディのみが残された。

 「あの厄介なデュオには問題が山積みだ」 1921年、ラヴェルはそう述べた。「スケルツォ」の第1稿は満足のいくものにならなかった。そしてすべてを書き直した。このソナタは4つの楽章からなる。第1楽章はいくつかの主題を提示する。第2楽章の「スケルツォ」は展開に面白いものがあるが、耳障りな楽節があり、心地よいとは言い難い(ロラン=マニュエルは「猫の癇癪」と呼んだ)。しかし「アンダンテ」は、ラヴェルの純粋なメロディという新たな方向性に適しており、静けさと平穏さに満ちている。最終楽章では、バイオリンとチェロの荒れ狂う対話がある。この楽章の様式は、モーツァルトのソナタを思い起こさせる。

 『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』の初演は、卓越したチェリストのハンス・キンドラーとバイオリニストのイェリー・ダラーニ(ラヴェルはのちに『ツィガーヌ』を献呈している)によって、アルヴァー夫人のロンドン・サロンで披露された。この曲はロンドン界隈で人気を呼び、レディ・ロザミア(イギリスの貴族)を含むいくつかの邸宅で演奏された。

 1922年、フランスの音楽誌『Revue Musicale』が、フォーレに敬意を表す特別号を出版した。この偉大な作曲家は、このとき78歳を迎え、最晩年に差し掛かっていた。フォーレは同時代のあらゆる作曲家たちから愛され、多くの人が「ガブリエル・フォーレへの讃歌」特別号に、感動を呼ぶ楽曲を寄稿した。パリ高等音楽院時代の師であるフォーレに贈るラヴェルの楽曲は、バイオリンとピアノのための『フォーレの名による子守歌』だった。同じ1922年の夏、ラヴェルはムソルグスキーの『展覧会の絵』をオーケストレーションしている。

 1924年には、卓越した技量を必要とするバイオリンのための『ツィガーヌ』が作られた。最初はリュートの伴奏付きで、のちにオーケストラのために書き換えられた。冒頭部分には、バイオリンのソロによる長い語りかけがあり、それはジプシーの楽曲を発展させたいくつものバリエーションで、即興的な効果を与えている。この作品はゆっくりと始まり、じょじょに目もくらむバイオリンのアクロバチックな演奏に発展し、大旋風を巻き起こす。『ツィガーヌ』はあまり演奏されない。それは完璧に演奏するには、最上級の技術が求められるからだ。

 同じ年に、フランスの詩人、ピエール・ド・ロンサールの生誕400年を祝って書かれた、歌曲『ロンサールここに眠る』は、静けさと簡潔さに満ちた感動的な記念作品である。5度の伴奏が、ルネサンスのオルガンを思い起こさせ、歌の終わりの部分は、永遠の眠りを示唆する柔らかなハーモニーで儚く消えていく。

道ゆく者よ、わたしはそう言った、運命に従いなさい
わたしの安息に惑わされなくていい。わたしは眠る!

 戦争の初期に、パリ国立オペラのディレクター、ジャック・ルシェは著名な作家コレットに、バレエ団のために「妖精のための娯楽」を書くことを提案した。作品についての話し合いの結果、ラヴェルに音楽を担当してもらうのがいいと決まった。まずコレットの台本がラヴェルに送られた。しかしそれは届くことがなく、戦争終結後に再び、二人はラヴェルに連絡をとった。
 作品のテーマはラヴェルにアピールした。ファンタジーと妖精物語、自然と空想世界、思いっきりの風刺、コレットの台本にはこれらのことが混ぜ合わさっていた。ラヴェルは『マ・メール・ロワ』や『シェヘラザード』の日々に連れ戻された。原題の『わたしの娘のためのバレエ』は特にラヴェルを喜ばせた。「どうして、わたしが『娘のためのバレエ』を書かねばならない? わたしには娘がいないのに」 そう声をあげた。
 作品は最終的に『子どもと魔法』になった(ときに「いたずら坊主の夢」と訳されることもある)。ラヴェルはこの「妖精のための娯楽」を書くことを約束したが、数年後までスコアを書き始めなかった。戦争への反感と失望は、『ラ・ヴァルス』の荒々しさとデュオ・ソナタの耳障りなテーマを通して、まず解放への道を見つけた。『ツィガーヌ』と歌曲『ロンサールここに眠る』によって、ラヴェルは少しずつ平常に戻っていき、1924年、『子どもと魔法』に意欲的に取りかかった。

 わたしは作業に張りついてるし、誰にも会ってない。耐えられなくなったときだけ、ちょっと外出するくらいだ。もし『子どもと魔法』が期日までに仕上がらなくても、わたしのせいじゃない。

 この「妖精のための娯楽」は、1925年3月21日にモンテカルロで上演された。つづく2シーズン、オペラ=コミック座のレパートリーになったものの、あまり成功はしなかった。中でも猫のデュエットは批判された。しかし作曲家のアルテュール・オネゲルは、「楽曲の中でもっとも非凡な部分」であると見ていた。「ラヴェルは猫の鳴き声を真似ているのではなく、メロディラインに刺激を与えるために使っている。『模倣による音楽』と言われることへの疑問はここにある」

 ラヴェルは『子どもと魔法』について、「アメリカのオペレッタの精神で書かれたもの」と述べている。この楽曲の中で、ラヴェルは初期のお伽噺の世界に戻っているが、ここでは力みなぎる展開を見せている。再び(そしてほぼこれを最後に)、生来の優しさを見せることを許している。とはいえ、これとは対照的な、子どもっぽいぶっきらぼうなところや相当なひねりもある。猫のデュエットでティーポットとカップに愉快なフォックストロットを踊らせたり、算数と数字によるコーラス場面といった部分だ。楽しさや奇抜なプロットは、ウォルト・ディズニーが生み出したアニメ映画のようだ。弟のエドワール・ラヴェルは『白雪姫』を見て、(モーリスが死んだ数ヶ月後に)こう言った。『子どもと魔法』はこんな風に上演されるべきなんだ、と。

 このオペラの最後の上演時に、ラヴェルは隣りのボックス席にいる人間が、不満を表そうと、口笛を鳴らしているのに気づいた。ラヴェルは友人のロラン=マニュエルの方を向くと、たまたま持っていた鍵をそっと彼に渡し、隣りの紳士に貸してはどうだと持ちかけた…… ラヴェルには鋭いユーモアのセンスがあった。自分の失敗をいつも笑い飛ばすことができた。新しいオペレッタの好ましくない批評を読んだあと、(ノルウェーへの道のりの途中で)こう書いている。「ル・タン紙によると、『子ども』はピシャリと平手打ちをくったみたいだな……」

 オペレッタの舞台は、ノルマン人の古い家。暖炉で火が燃え、お茶用のやかんがその上でシューシューと歌い、その前で黒猫がのどを鳴らしている。壁際には大時計があり、窓には男女の羊飼いが描かれたカーテンがかかり、リスのいる籠が吊されている。すべてが静かで平穏、教科書を手に大っぴらに反抗心を見せている小さな男の子を除けば。

勉強なんかしたくない
外にいって遊びたい
ケーキをあるだけみんな食べたい
猫のしっぽを引っ張りたい
リスのしっぽも切り落とす

 母親がトレーにお茶のカップを乗せて入ってきて、怠けていると息子を叱る。しかしその子は言うことを聞くかわりに、舌を突き出す。
 「まあ!!!」 と母親は叫んで、トレーをドスンと置く。「やんちゃ坊主のおやつよ。砂糖抜きのお茶とカスカスのパン。夕ご飯まで一人で家にいなさい」
 一人残されると、男の子は金切り声をあげる。

お腹なんかすいてない
ほんとうは、一人でいるのが好きなんだ
だれのことも好きじゃない
ぼくはやんちゃな男の子
いじわる
いじわる
いじわる!

 そして男の子はかんしゃくを起こす。小さな破壊魔になる。ティーポットとカップを床に投げつけ、粉々にする。教科書を破る。窓枠によじ登り、ペン先でリスを突つきまわす。猫のしっぽを引っ張る。暖炉のやかんをひっくり返す。お湯がこぼれてシューシュー蒸気をあげる。最後にはカーテンを切り裂き、大時計の振り子をグイと引き抜く。
 「フレー、フレー」 男の子は得意になって声をあげる。「ぼくは自由、自由だ。やんちゃで自由だ!」
 男の子は椅子の上にドサリとすわり込む。ところが驚いたことに、その椅子がお尻の下で動きはじめ、肘掛け椅子のところまで寄っていき、不器用にお辞儀してこう言う。
 「ついにあの極悪チビから自由になれる。ゆっくりするためのクッションも、昼寝する場所もなしだ……」 二つの椅子は、男の子が口もきけずにびっくりして見ている前で一緒に踊りだす。時計が部屋の隅から前に進みでる。

ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン
そしてまたゴーン、ゴーン、ゴーン!
時を打つのが止められない。
いまが何時か、まったくわからない。

 鼻にかかった二つの声が床から聞こえる。
 「マグカップはどうした?」 ウェッジウッドのティーポットが(英語で!)言う。
 「腐ってしまった!」 中国製のカップが答える(これも英語で)。
 ティーポットが男の子の方に、脅すようにボクサーの真似をして近づく。

パンチがいくぞ、おぼっちゃま、鼻にパンチだ
おまえをノックアウト、おバカなやつだ!
黒くてオシャレ、ほんもののハンサム
拳でなぐって、のしてやろう……

 カップは復讐に燃えて、男の子を指さす。「ピンポン、ピンポン、ケンカ・クレージー、麻雀……早川雪洲……」 カップとティーポットはフォックストロットで踊りまくる。(これこそアメリカのジャズの見事な社交ダンス)
 男の子は恐怖と寒さで震え上がり、暖炉のそばに寄っていく。ところが暖炉の火が、男の子の顔に飛びかかる。「下がれ! いい子は暖めるが、悪い子は燃やすぞ!」
 火は男の子に襲いかかる、が(燃えつづけ、最後には炎を追いやり)、燃えがらの灰になってしまう。男の子は窓の方から近づいてくる小さな声と音楽を耳にして、恐怖から立ち直れない。破れたカーテンから、ミニチュアサイズの男女の羊飼いが隊列をつくって降りてきて、リードパイプとタンバリンによる魅惑のメロディの伴奏に合わせて、自分たちの惨状を嘆き悲しむ。
 男の子は自分がしたことに気づき、泣きはじめる。こつぜんと破かれた教科書のページから、美しい妖精の王女があらわれる。

わたしは……あなたの初めての愛しい人
なのにあなたは本を破いてしまった
わたしはどうなるの?

 男の子は目の前の愛らしい者を抱きとめようとするが、王女はその手から逃れて床の中に消えてしまう。王女が消えたところから、小さな老人が算数の教科書のアラビア数字に囲まれて、浮かびあがってくる。
 「ああ、神よ。これは算数だ」
 老人が甲高い裏声でつぶやき、数字は円を描いて、男の子のまわりを踊る。

4 + 4 は、18
11 + 6 は、25
9 × 7 は、32

 「あー、頭がおかしい、頭がおかしい」 男の子が苦しげに叫ぶ。男の子は旋回する数字の真ん中に引き込まれ、(力強い半音階のスケールを耳にして)床に倒れる。夜がやってきて、長い中断。
 すると黒猫が庭にいる恋人を見つけ、窓台に飛びつく。2匹の猫は、とても面白いデュエットを猫語でともに歌う。スコアには「音楽的にニャオーと鳴くデュエット」とある(このパッセージの音楽的な利点については、賛否両論がある)。

 「音楽的ニャオーのデュエット」の間に、部屋の壁が後退し、男の子は満月が木々や花々を柔らかく照らす庭にいることに気づく。
 そこからうっとりさせられる場面へとつづいていく。雨蛙のコーラス、トンボに蛾、コウモリの飛翔。リスが跳ねまわり……背景には、ラヴェルの最も生き生きした音楽による繊細な伴奏が。
 ところがどの虫も生きものも、男の子に恨みがある。リスを傷つけ、トンボを捉え、コウモリを殺し、木々を切りつけ……全員が復讐に燃えて男の子の方を見る。恐くなった男の子が叫ぶ。「ママー!」
 混乱状態の中で傷を負ったリスを見て、乱暴な行為を後悔した男の子は、その傷口に包帯を巻く。
 突然、あたりはシンと静まり返る。動物たちは自分たちの敵の突然の変化が理解できない。乱暴な男の子がいま、リスを助けようとしている。そして動物たちは、男の子の方も怪我をして、血を流していることに気づく。動物たちはどうしたらいいのか。互いに相談をはじめる。「どうしよう……この子も傷を負ってる。どうしたらいい?」 彼らに男の子を助ける力はない。しかし動物たちは男の子の呼びかけを思い出し、全員でその魔法の言葉を口にする。
 「マ〜〜ーマ、マーマ!」
 窓に明かりが差し込む。夜明けの光が、庭をピンクに染める。ナイチンゲールが歌い、動物たちは静かに去っていく。
 「ママ!」 男の子は母親を抱きしめる。
 「この子はいい子……とてもいい子! すばらしい子、この子はいい子!」 別れを告げるコーラスが歌う。


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