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クローズドなら何を言ってもいいのかなぁ?

少し前に話題になっていた「オリンピッ」問題、いろいろな言い方がされているみたいだけれど、わたしが東洋経済オンラインの2つの記事を読んで気になったのは次の2つのこと。これはコラムニスト木村隆志という人と、コミュニケーション・ストラテジストという肩書きの岡本純子という人、二人の寄稿者が、それぞれの記事でほぼ同じような方向性で問題点をあげていたことにかなり驚いてしまったからです。

メディアがこのように書くのであれば、一般の人の受けとめ方もこれに近いのだろうか? と心配になりました。
その気になったこととは:
1.二人の寄稿者がそろって「クローズドな場での発言だった」「身内の会話が流出した」と、発言内容に問題があったとしても、場が場であれば許されないことはない、としていること。
2. クリエイティブな現場では、規格外のものが生まれるために、常識はずれなアイディアを自由に出すことが推奨されている、とする二人の考え。

わたし自身、広告制作という「クリエイティブな現場」で仕事をしていた時期がありますが、この2つの事項が正しいとはとても思えません。

まずクローズドの、あるいは身内のLINEでの会話なのだから、という点。公的な場であったり、一般公開されるものの中での発言は、差別的なことを言ってはいけないが、内々であれば言ってもよい、ということなのでしょうか。二人の文脈から読みとるとると、そうなるのではと思います。

内々の会話では往々にして、そういう発言は出るものだ? それが外に出たから問題になっただけで、そういう発言は誰もがときにしてしまうものだし、その場で否定されれば許される?

チガウダロー!

どんな場であれ、差別的な発言はしないようにする、というのが正しい態度であり、生き方じゃないのかなぁ。場が変われば、態度も変わる、場に合わせて態度を変える? 

極端なことを言えば、社会の最小単位とされる「家庭内」でも、差別的発言は、してはいけないことじゃないかとわたし自身は思ってる。たとえばテレビのニュースで北朝鮮の報道があったとします。たいていあまり良くないニュースで、北朝鮮の脅威に日本がさらされているといったものだったりします。ご飯を食べながら家族3人、4人で見ていて、お母さんが「まただわね、ほんと朝鮮人は何するかわかったもんじゃないから恐いね」と言ったとすると、これは明らかに朝鮮半島の人間に対する差別です。

こういうことをしょっちゅう聞いて育った子どもが、将来どのような人間になるかは、相当な心配のタネになりそうです。家庭内でも、親は差別的な発言をしないようにする。これは子どもの教育にとって、学校の成績より大切かもしれません。

電車の中で、アフリカ系の人(「黒人」と呼ばれている人)の隣りに座りたがらない日本の人は、単に世界を知らないというだけでなく、人権というものに無頓着なところがかなりあります。人権の意味を知らないというか。そういう教育もほとんど受けてないですし。だから人権の意味を知らなくても仕方がないのかもしれません。

最近、スウェーデン在住の翻訳家・久山葉子さんの話を聞く機会があって、人権の大切さというのは子ども時代にちゃんと教われば、そして社会が徹底してその方向を示せば、それがどういうもので、どう行動したらいいのか、誰でも理解できるようになるのだ、と知りました。

なーんだ、教育によって、そういう人間を育てることは可能なことなんだ!(日本では、ただそれをやってないだけなんだ。さぼってるだけなんだ。)

つまり「いじめ問題」などというのも、教育がうまくできてない結果に過ぎないのかもしれない。

久山さんの話ではスウェーデンでは、「人には全員同じ価値がある」と保育園のときから教えられるそうです。スウェーデンは移民社会でもあるのですが、そういう社会を円滑に進めるためにも、差別のない社会づくりを徹底してやっているようです。これがスウェーデンの民主主義の考え方の一つの柱だそうです。

学校や家庭で教えて、社会が模範を示せば、差別は減らすことが可能。そういうことなんですね。スウェーデンはそれがかなりうまくいっているようです。少なくとも若い世代の人の間では、よく浸透している考えであるとか。

イングランドのサッカー「プレミアリーグ」では、BLM以降、試合前にピッチ上で、選手たちが片膝をついて差別に反対する意思を示す行為を今もつづけています(日本のdaznでは、ほとんどの実況者がそれを「ポーズ」と言っています。イヤ、ポーズじゃないだろ!!!)。最近は、「そうやっても何も変わらないじゃないか」という意思を表明するために、あえて片膝をつかずに、その場で棒立ちになる行動をとるアフリカ系の選手も出てきていますが。それこそ彼らは膝をつくのが単なる「ポーズ」じゃないのか、と抗議しているのでしょうね。

東洋経済の二人の寄稿者は、「超不寛容社会への進行が止まらない」「失言を恐れて同僚と軽口すら叩けない」「友人ですら警戒して気楽に話せない」「(公的な場での発言でないものが)バッシングを受ける……。正直、怖い時代」のように書いています。何かものを言ったときに、バッシングを受けたり、不寛容だったりする社会が「恐い」というわけです。つまり発言の内容を問題にするより、どんな発言であれ、それを「問題にしてしまう不寛容な社会」が恐ろしいのだ、と。

わたしならこの二人の寄稿者にこう言います。「軽口をきいても大丈夫な人間性を獲得するまでは、口をきく際は、よくよく考えて、緊張して話すくらいがちょうどいいのでは」

人権について充分な認識がない人が、「軽口」を「気楽に」話したらどういうことになるか。これは公的な場だけのことではありません。メディアにものを書くような人間がしなくてはならないのは、不寛容な社会をなげくのではなく、人権に無頓着(不寛容)な社会に警告を与えることではないのかな。

次にクリエイティブな現場では、制約を外した自由な発言するのがよい、としている点。二人の寄稿者は、規格外の創造を生み出すために、制約を取り払って常識外のアイディアを出すところから「生まれるイノベーションやブレークスルーもあるはず」と書いています。

ホントかなー???

規格外の創造とか、常識外のアイディアはいいけれど、その元になっている発想を生み出す人間性に著しい欠陥があった場合、ひどい人権無視や差別意識があった場合(それも無意識の状態で)、どうなると思います? 今回のオリンピックの演出に、ピッグ=ブタ=太ったタレントという「規格外」のアイディアを出したと言われている人は、これに当たると思います。公開の場じゃなくても、そんなことをまともな人が、いまどき言うかな? 自分の知り合いで、もしかして言い出しそうな人の顔が思い浮かんだら、その人間のレベルを計ってみるといいと思います。

二人の寄稿者のうちの一人、木村隆志さんが「そもそも、体形や自虐ネタを売りにしたい芸人がいてもいいし」と言っているのも気になりました。そんなもの日本以外の国で、2021年のいま通る話かな。たしかに昔はそういう芸人は日本にたくさんいたし、それで人気をとって、今も活躍している人もいます。わたしは昔からそういうネタや芸人が大嫌いでした。「ばあさんがさあ、こんなになっちゃってよう」みたいな人、いましたよね。何がおかしいのか、理解できませんでした。年配の女性のぎこちない動作を笑うことのどこが面白いのか。それが「辛辣なジョークですって?!」。でもそういう人がなぜか人気があって、尊敬さえされてたりして。きっと海外では理解されない、日本が誇る「センスの良さ」なんでしょうね。

クローズドの話に戻ると、
ヨーロッパのサッカーの試合を見ていると、ピッチ上で選手同士がやりあった際、口にした言葉がのちに大きな問題になることがあります。たとえばアフリカ系の選手に対して、差別的な呼称をつかったとか。過去にはウルグアイのルイス・スアレス選手が、対戦相手のアフリカ系の選手に対して「ネグロ」という言葉をつかったことが判明して、8試合の出場停止を受けたことがあります。最近も「ネグロ」という言葉がヨーロッパでは差別語にあたると気づかなかった、別のウルグアイの選手がSNSでその言葉をつかい、問題になって謝罪しました。SNSのケースは、応援してくれたファンに対して「ありがとうネグリート」と返答したということで、悪意というよりむしろ善意の言葉だったようです。ウルグアイではネグロという言葉は、親しい間でよく使われる言葉、とこれはスアレスも当時説明していたと思います。

たとえ善意でつかわれた場合も、ネグロという言葉の歴史を考えた場合、ヨーロッパでは一般に差別的な意味があると解釈されているようです。FA(イングランドサッカー協会)では、とりわけ差別的な用語や行為に対して、厳しく対処しているのが選手への処分に表れています。

イングランドのサッカー、プレミアリーグでの話ですが、レフェリーが付けているマイク、あれはアシスタントレフェリーとの連絡をとったり、最近であればVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)のレフェリーに状況を確認する、といった役割があります。その内容は(差別的発言を監視する目的ではないですが)録音されているそうです。そればかりか、イギリスのテレビでは、そのレフェリーの音声をひろって試合中に流しているとか! これはイギリス出身のサッカー・コメンテイターのベン・メイブリーさんが言っていました。ちょっと驚きです。

以前にUEFA.tvのドキュメンタリーで「Man in the Middle」というシリーズがありました。ピッチ中央にいる、という意味なのか、ゲームの中心にいる、という意味なのか、Manはレフェリーを指しています。ヨーロッパ各国の中心的なレフェリーを取材した内容で、ゲーム中のことだけでなく、家庭生活や人生についての考えも紹介していたと思います。そのプログラムの中で、レフェリーの試合中の言葉(マイクを通した)がたくさん紹介されていて、非常に驚きました。こんなもの、聞いたことがなかったから。いつも何を言っているのかな、と試合を見ながら思っていました。

アシスタント・レフェリーやVARの審判との間だけでなく、選手との会話というのがけっこうあって、これが驚きの連続でした。いちばん記憶に残っているのは、チャンピオンズリーグのバルセロナ、リバプール戦(2018-2019)で、オランダのカイペルス主審がメッシに放った言葉。「メッシ、早くしなさい、早く戻るんだ、きみはいつも遅い。リスペクトを見せてくれ」のようなことを厳しい調子で言っていたこと。あの神メッシに、こんなに強い調子でものを言うのは、レフェリーくらいかもしれない。それを堂々公開している。

そんなことはないだろうけれど、もし、レフェリーが差別的な発言を選手に対してしたら、それはマイクを通して筒抜けだし、記録もされていて言い逃れができない。「メッシ、きみはいつも遅いぞ、この猿が!」などと言った日には、確実に問題になって、というか二度とピッチに立つことができなくなるでしょうね。

このようなイギリスの事情を、もし東洋経済に寄稿していた二人のコメンテイターは何と理解するのでしょうか。「不寛容がはびこっていて恐い」などと言うのかなぁ。ここで一つわかるのは、ヨーロッパでは、発言の内容が問題であって、発言が公開されているかどうか、クローズドかどうか、は問題にならないという「常識」です。

やはり内々(クローズド)であれば、好きなことを発言していい、とか、クリエイティブにとって、制約を取り払って(差別に関わる可能性のあることも)発言することが大事、というのは今の世の中(日本以外)では通用しにくいことだと感じます。それを社会的に発言権をもっている人(メディアに署名入りで記事を書く人)が、わかっていないだけでなく、むしろ(不寛容社会が止まらない)困った世の中だと嘆いていることには本当にがっかりします。日本はこんな人たちの集合体なのか、と。

これは○○警察などと呼ばれるタイプの不寛容とは意味の違うこと。人権無視や差別発言、こういう心情や態度をとることをこそ「人に対する不寛容」と言うのであって、「クローズドでの小さな発言」に対して一つ一つ非難していくことを不寛容というのは全くの見当違い。

先ほどの久山さんは、ゼロ・トレランス(zero tolerance)、つまりゼロ寛容(不寛容)という言葉をつかっていましたが、これはもちろん、差別やいじめは絶対に許さないという意味の不寛容です。Wikipediaによるとゼロ・トレランスとは、「毅然たる対応方式」のことを指し、「不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式」と説明しています。

タイトル写真:プレミアリーグ元主審 Lee Probert, photo by Danny Molyneux (CC BY 2.0)

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