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文章あれこれーーー文体、規則、即興、AI

葉っぱの坑夫

葉っぱの坑夫をはじめてから、文章を書く機会が増えた、と思います。blogやnoteでの長い文章、そして翻訳の訳文も含めて、仕事で書いていたときより文字量的には多くなっています。

文を書くということをそれほど強く意識したことはなく、子どもの頃に作文が好きだったとか得意だったとかということもないです。

読む方も、読書家の人と比べたら多分かなり少ないし、偏ってもいると思います。日本の名作、世界の名作も…..ほとんど読んでないし。特に小説は、(最近少し読むようになったものの)全体からみたら少ないかなと。じゃ、何読んでるの? そうだなぁ、、、好きなのはノンフィクションだけど。

文章を書くことを学ぶ、という経験がほとんどなく、文章術的な本を読んだこともない。自分の書くもの書いたものには責任を感じますが、書いたものへの他者からの評価はそれほど気にならないといったところでしょうか。文章そのものというより、書いた内容(伝えたいこと)への反応はおおいに気になりますが。

以下、文章にについて、書くことについて、思うところを書いてみようと思います。その前提として自分の書く体験、読む体験の紹介をしました。

自分なりのルール(須賀敦子さんの場合)

少し前に、noteでのコメントのやり取りがきっかけで、ひさびさに須賀敦子さんの本を手に取りました。会話の中で『トリエステの坂道』の話が出て、わたしも読んでみようと思ったのですが、書棚をみたら数冊ある須賀さんの本の中にちゃんとありました。あれ、と思って手にとると、なんか真新しい感じで出版社のパンフレットが挟まっていたりして、本の開き具合からも、<読んでない>感じなのです。

それでさっそく読みはじめました。そしてすぐに気づきました。ああ、こんな文章、こんな風に書く人、他にいないなと。正直で誠実、読んでいてすごく身近な感じがするのに、ヨーロッパを背景にした話の数々が、深くてゴージャス。現在と過去が太い糸でつながり、ずっしりと重く、心の奥底にある鐘がたえず振動している感じ。  いやちがうな。文章がどうというより、 体験(どのように暮らし、生きていたか)が、つまりこんな風に異国に住んでその土地やそこに住む人々と関係を結べる人って、他にいただろうか、という驚きでしょうか。
須賀敦子、1929年〜1998年、イタリア文学者、翻訳家、作家。イタリアに長く暮らした人です。

これをきっかけに書棚にあった須賀さんの本を次々に読んでいきました(再読)。須賀さんが亡くなったとき(ああー、須賀さんなら「死んだとき」と書くかもしれませんが)の文藝別冊の追悼特集まであって。

わたしが最初に読んだ須賀さんの本は、『コルシア書店の仲間たち』。実はハードカバーで買ったこの本、すぐには読みませんでした。多分、書評か何かで見つけて買ったものの、読んでいなかったのです。少ししてローマに行くことがあって、そのときこの本を思い出して、飛行機の中で読むために手に軽い文庫版を買い求めました。そして行きの飛行機の中で読みつづけ、多分ローマ到着までに読了したと思います。

須賀さんの書いた<文章に関するエッセイ>で、印象的だったことが一つあります。記憶違いでないことを願って書きます。あれは須賀さんの書いたものだったと思います。一つの文章の中で、同じ言葉を書く場合、必ずしも同じ表記でなくちゃいけないことはない。そう須賀さんは書いていたと思います。つまりある箇所で「本を読む」と書いて、別の箇所で「本をよむ」としてもいいということです。

これを読んだ当時、多分そのことに関心があったか、このことをいつも気にしていたせいなのか、「えええっっっ、いいの?」と思ったので、記憶に残ったのです。

ふつうはある箇所で漢字を使えば、その他の箇所でも同じ表記に<揃える>というのがルールかと思っていました。そうでないと、「読む」と「よむ」は意味的に、あるいは意図として違いがあると受け取られるからです。たとえば「読む」の方は熟読することで、「よむ」の方は目を通す程度とか。

しかし、文章を書いていて、あるところで「読む」と書いたけれど、別の箇所で「よむ」と書くことはそれほど不自然なことではありません。それはひとつづきの文章を書いているとき、漢字とひらがなの使い分けを<見た目>によって判断することがあるからです。たとえば漢字がつづいてゴツゴツした見映えになっているとき、「よむ」とあえてひらがなにするとか。逆にひらがなが続く文の中で、そこは可読性を優先して「読む」とするとか。

こうした表記の違いに気づいたとき、意味の違いととるか、見た目の問題ととるか。文章は考えながら書いていても、スピードに乗って書くこともあり、そこで即興性も生まれるはず。推敲の際に統一させることはあると思うし、それをを重視するという態度も、もちろんあると思いますが。

それ以外に、今回須賀さんの本を読んでいて気づいたことがあります。須賀さんの文章はひらがなが多いのですが、ここもひらがな?という箇所がけっこうありました。

はじめてこの町をおとずれたのは、1954年(原文は縦書きなので漢数字)の夏で、….. 

「アッシジに住みたい」/『追悼特集 須賀敦子』より

しかし、ほんとうの「右側」がはじまるのは、ガレリアを出たところからである。

『コルシア書店の仲間たち』より

ある日、ぐうぜん、書店に立ち寄ると、ちょうどいい人が来たとカミッロがいって、…….

『コルシア書店の仲間たち』より

パラパラと適当にページを繰ってみただけで、上のような例がたくさん出てきます。「結婚してまもないころ」「街はずれのしゅうとめのところに行くと」「みじかい時間ならばまだ」(以上『トリエステの坂道』):間もない頃、街外れ、姑、短い、と普通ならしそうなところを開いている。

多いのは形容詞、副詞、動詞ですが、ときに「ふたご」「うわさ(話)」など名詞にもひらがなが当てられていました。

漢字を選ぶかひらがなを選ぶかは、そのとき書いている文章への適正を考えて、あるいは自分の感性で決める、同じ言葉の表記を場所によって変えることもある。このようなルールづけを須賀さんがしていたかどうかわかりませんが、自分なりのルールというものがあっていいのだ、と気づきました。

似た形の漢字、よく似た熟語、ルビ

霧、靄、霞、霰、露、霜…..きり、もや、かすみ、あられ、つゆ、しも……
文字が小さければ読み違えそうだし、たとえちゃんと見えていても読み方を間違えることがありそうな「あめかんむり」の字。霧、靄、霞は意味的にも似ていて、文字と意味の区別をつけるのが難しいところがあります。

こういった漢字をつかう場合、すっと誰もが読めるようヨミをつけ加えるのがいいと思います。ルビという便利なものが日本語にはありますが、わたし自身は使いません。字面や誌面が汚れる気がするので。『ハリー・ポッター』を手にとったとき、ルビだらけで誌面が真っ黒なのに驚きました。子どもが読めるようにという配慮だと思いますが。

ルビを使わないとしたらどうするのか。靄(もや)、霞(かすみ)のように表記しています。そもそも書く文章自体ひらがなが多く、(ヨミ)がないと読めない漢字は少ないので、多くの場合問題は起きません。

文章を書いていてどの漢字をつかったらいいのか、迷うことがときどきあります。たとえば意思と意志とか。辞書によると、意思は「心の中に思い浮かべる、何かをしようという考え。思い」とあります。一方意志の方は「考え。意向。物事をなしとげようとする積極的なこころざし」。「意思」は気持ち、「意志」は意欲、という説明もありました。が、どうなんでしょう。

迷う場合、あるいはどちらとも言えないと思うときは平仮名をつかう、という手もあります。でも「いし」の場合は、医師もあれば石もあり、遺志もあるので漢字がつかいたくなります。

他にも「ゆるす」と書きたい場合、「許す」が一般的だと思いますが、これ以外に「赦す」「恕す」「緩す」「聴す」などもあるようです。意味はほぼ同じようですが。使い分けする人もいるでしょうが、わたしは「許す」ひとつでいいように思います。

最近ある文章を読んでいて、「矯める」という言葉が出てきて???になりました。読めない、意味がわからない。「ためる」と読むそうで、意味は「曲がったものを真っ直ぐに正す」だそうです。矯正のきょうですね。この字は「いつわる(矯る)」とも読めるそうで、その場合の意味は、「かこつける。偽造する。うわべで欺く・騙す」であると。しかしこの「いつわる」を表す字は他にもあって、「佯る」とか「陽る」など十数個も。う〜ん。

「矯める」が出てきた文章は、エッセイのような一般性のあるものだったと思います。そこでこの字を「矯める」と読んで、意味もわかる人はどれくらいいるのか。わたしの漢字の知識は平均的なものだと思いますが、最近、一般的な文章の中に、こういった「読めない・読みにくい」漢字がけっこう多く使われているような気がします。

言葉というのは他者に伝わらなければ用を足さないので、どんな文字をつかうか、は書く人それぞれの文体の問題になってくると思います。自分だけのルールというのは言葉にとって障害になり得ますが、一方である程度、自分のルールをもつことも大事かなと。自分の文章というのは、このような細部の、小さなルールで成り立っているとも言えるからです。

慣用表現に無知だから

慣用句、慣用表現はなじみがないと使えないものです。わたしはそういうものにうとくて、知らない言葉がたくさんあります。四文字熟語でいうと、一朝一夕や手前味噌くらいならまだしも、因果応報とか明鏡止水とかになると意味も怪しくなってきます。もちろん自分の文章でつかうことはありません。

「足元をみる」「至れり尽くせり」「一線を画す」この程度なら知っているし、使うこともできます。でも「辛酸を舐める」「ほぞを固める」などになると、使うことがないし、万が一使う場合は、辞書で意味を調べてからになるでしょう。いや、つかわないか。

こういう言葉をよく知っている人は、文章にもスラスラと出てくるのかもしれません。ただこういう言葉の嵐だと、文章がどこかの他人が書いたみたいになってしまう可能性もありです。

文章ではないですが、スポーツの中継を見ていると、古い慣用句的な言いまわしが多くて笑ってしまいます。実況しているのは30代の人だったりするのですが、スラスラと出てきます。「古巣対決」「お役御免」「若武者」…….あと何があったかな。
スポーツの基本は対戦、対決するものだ、という考えから来ているのか。

そういえば、倉敷保雄さんという実況アナは、サッカーで更なる追加点があったとき(4得点目とか5得点目とか)、「ケーキにイチゴが乗ったみたい」「ケーキに粉砂糖をふりかけたみたい」のような表現をしていました。スポーツでもこういう表現があってもいいかな、と思います。慣用句は便利だし一瞬で伝わるという利点はあっても、表現を固定してしまう欠点がありそう。

文体に興味ない(ある作家の発言)

 たとえば、わたしは、文学というものについて論じられる時、重視される「文体」というような概念にほとんど興味がありません。
 わたしが興味を持っているのは、言葉を動かす「規則」です。

高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』より

この作家によると、ジャンルやテーマが違っていても、作家が書く文章は「まったく同じ規則に厳密に従っていたりする」のだそうです。作家は自由に自分の意志で書いていると思っていて、それを規則だとは思っていないとも。そしてその規則というのは、ある時代、ある場所で、偶然に出来上がったもので、永遠不滅のものでもない、と。

これはどういうことなんでしょう。真実なんでしょうか? それともこけおどし?

この本『ニッポンの小説』によると規則というのは、それが使われなかったときに気づくものだそうです。そこで例文として上げられていたのが、猫田道子という作者の『うわさのベーコン』という小説でした。ある文学賞の最終選考に残った作品ですが、選考委員たちの怒りをかい落選したとか。怒りをかった原因が、文章の規則から外れていたからのようです。

著者の高橋源一郎さんはこの小説の一部を紹介し、さらにそこから「間違い」を取り除いたらどうなるか、のサンプル文を書いています。

 私がこの家に生まれた時から、私の身近には楽しい音楽がありました。これは、きついレッスンにたえていく音楽ではなくて、私の生活の一部となっていました。
 藤原家は父一人母一人兄一人と、私。兄は私が生まれた時からフルートを吹いていたのですが、私が三歳になって、兄は交通事故にあい、フルートが吹けない体になってしまいました。その日、兄のフルートを手に持って遊んでいました。
 兄は、その交通事故にあった日より三日もたたない内に死んでしまいました。

猫田道子『うわさのベーコン』/『ニッポンの小説 百年の孤独』より

 気がつくと、いつも、私の家では音楽が流れていました。私は、それをただ純粋に楽しんでいました。音楽は、私の生活の一部だったのです。後になり、音楽家としてレッスンがはじまると、もうそんな風に聴くことは出来なくなったのですが。
 藤原家は、父、母、兄、私の四人家族で、兄は、ずっとフルートを吹いていました。ところが、私が三歳になった頃、兄は交通事故にあい、ついにフルートを吹くことができなくなりました。
 兄が事故にあった日、私は、その兄のフルートを持って遊んでいました。そして、それから三日もたたない内に、兄は死んでしまったのです。


高橋源一郎による添削文/『ニッポンの小説 百年の孤独』より

いかがでしょう。たしかに、猫田さんの文章は不思議な感じがします。買った小説がこうだったら、新手の前衛か、それともド素人なのか。と感じるかもしれません。高橋源一郎さんは、この作品について「それは、文学ではありません」と、この章のタイトルで示していました。

「文体」という見方、概念についえば、実はよくわかりません。他人のものでも、自分のものでも、そこまで気にしたことがありません。何か書きたいこと、書くべきことがあった場合、文体について考えてから、文体を決めてから書くのでしょうか。わたしにとって文体は、書く内容と一つのもののように見えます。書く内容が文体を決めるといった。

文章には規則があり、作家と言われる人は(自覚的でなくとも)みんなそれに従って書いている、そしてそこから外れたものを読んだとき、人は規則の存在に気づく。そのことは理解できました。

「自分なりのルール」ということを最初のところで書きました。おそらく、それは一般的な文章の規則に一応収まってはいるけれど、ギリギリ境界線の近くで自分独自の選択をする、ということになるのかもしれません。そしてその(好みや論理による)選択が、その書き手の文体ということになるといった。

今ここで生まれつつある文章

規則に従い、言葉に動かされて作家は文章を書いている。なるほど、確かにそうなのかもしれません。音楽家は音符の規則に従って、音楽をやっています、作曲家も演奏家も。それと同じことかもしれません。

クラシック音楽の作曲家であれば、何百年とつづく音楽の歴史が紡いできた音の並び、響き、楽器の奏法などの上に、(時にそれに抵抗するにしても)新たなものを付け加えている気がします。

演奏家は自分で作品を書きませんが、優れた演奏家は、1回1回の演奏時にそこでその人自身も初めて耳にするような音を生み出す、と言われます。規則に従順に従っていたとしてもです。

それはその場、その環境、その時間、その瞬間に、唯一の、そこにしかない何か、今までこの世に存在しなかったものを生み出している、のだと思います。1回性のもの、即興的なもの。

文章を書くときに、こういうことは起きるでしょうか。言葉に、規則に動かされて書いている、そのときに、即興演奏のようにそこで初めて自分も読んだと思えるものを書いている、といった。

ラップというのは言葉であり音楽だと思いますが、そこで使われる言葉は即興性が高いもの、その場で生み出されるものです。句会で詠まれる俳句も、ある種の即興表現でしょうか。季語などあって、半分は慣用的な表現かもしれませんが。20世紀初頭のシュールレアリスムでは、自動記述と言われるものがありました。「思考の真の過程を表現しようとする純粋な心的オートマティスム」と説明されたりします。

論理や規則に縛られることなく、言葉が出てくるままに受け入れる、ということでしょうか。そうだとすれば、そのときに、慣用表現ばかりがズルズル出てきたのでは、きっと失敗です。そうではなく、その場で言葉が、言葉の意味やつながりが「発明」されながら、作品化されていくことが大事と思われます。まあ、逆に慣用表現を使い倒して笑いを誘う、それによって慣用表現を客体化し批評する、というやり方はあるかもしれませんが。

「文章を書く中でおきる即興」というのは、どこにでもあって、誰もがやっていること、とも考えられます。ただ「推敲」という手順の中で、即興によって生まれたものは、削られていく可能性があります。精緻な、誰からも指摘をうけないような文章にしあげるか、即興によって生まれたものをなるべく生かして、細部の欠点には目をつぶるか。そんな選択があるのかどうか、わたしにはわかりませんが。

ただ、文章の即興性について、いちど考えてみるのは面白いように思います。

AIとか外国人にとっての日本語

日記など非公開のものは別にして、自分以外の人に読んでもらいたい文章は書いたものが伝わることが、ある程度基本になります。ただ伝わるというのはどういうことか。言いたいことをこんこんと説明をしたからといって、よく伝わるとは限りません。おそらく、微に入り細に入り、あるいは強い調子で書かなくとも、ちょっとしたことが読む人の中で反響し、そこで増幅作用が起きたとき、大きな効果となることはありそうです。

誰にむかって書くかという問題は常にありますが、特殊な場合(専門分野の文章など、読み手が特定されている場合)をのぞけば、フラットな表現、誰もが理解しやすい言葉づかい、といったことは大切な気がします。フラットな表現の中には、差別や偏見がないといったことが含まれますし、誰もが理解しやすい言葉づかいには、日本語が母語ではない人やAI (人工知能) にとっても障害が少ないことがポイントになります。

最近はSEO(Search Engine Optimization:検索エンジン最適化)に沿った文章を書く技術、ということがよく言われます。ただ検索エンジンの技術の進歩も、社会状況(社会的欲求)も一定不変ではないので、これを文章術の基本としていいかどうかは未知数だと思います。それがヒット数狙いの記事だったとしても、です。

それよりもAIにとって障害の少ない表現で文章を書くことは、未来的なことかもしれないし、現実として役に立つこともありそうです。
思いつきですが、この文 ↑ をGoogle翻訳にかけてみました。さらに、出てきた英訳を自動翻訳で日本語に訳し直してみました。

Rather, writing sentences with less obstacles for AI may be a futuristic thing, and it is likely to be useful in reality.
むしろ、AIにとって障害の少ない文章を書くことは未来的なことかもしれませんし、現実に役に立ちそうです。

Google翻訳

お、いいですね、使える文です。この程度の、さほど複雑ではないけれど、単純すぎることもない文を意味のとおる訳にできています。日本語を読んでいてわかりづらい文章があったとき、こうしてGoogle翻訳にかけたらどうなるか、試してみるといいかもしれません。あるいは時々、自分の書いた文をGoogle翻訳にかけてみるとか。

おそらくですが、AIが理解しやすい文は、母語が日本語でない人にもわかりやすい可能性があります。AIの理解度を基本にした文章術というものは、すでにあるんでしょうか? AIによる校正、校閲というのは聞いたことがありますが。Gmailでは最近、英語のテキストだけでなく、日本語で書いている場合も、校正が入るようになりましたね。赤や青の波線が入って、候補が提示されます。英語で書いている場合は、文法チェックとして結構つかえます。うっかり冠詞を忘れたり、過去形で書くべきところを現在形で書いていたりすると指摘されます。

最後にアメリカの作曲家、フレデリック・ジェフスキー(1938 - 2021)が、書くことについてあるインタビューで言っていたことを紹介します。

*作品を誰に向けて、何を書くかという具体的な方向づけが大事だという話の中で:
アートのジャンルでものを書くことには、面白い点があります。音楽を書くことだけでなく、言葉を書く場合にも当てはまります。誰に、何をという具体的な方向づけによって、ある考えを限定的な書き方で、精緻に記すことができますが、一方で、そのような方法で書かれたものも、様々な解釈を許すことができる。その解釈はどれも、同じように面白いと思います。(訳:筆者)

ブルース・ダフィーとの会話:Frederic Rzewskiの発言

Title photo by Zakued, "three objects," 2022

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葉っぱの坑夫
2000年4月からウェブ上で、翻訳作品を中心にさまざまなコンテンツを公開してきました。内容としては移民文学、野生動物観察、音楽家インタビュー、外国語で書かれたハイクなどです。コンテンツの中から紙の本や電子書籍も作っています。 https://www.happano.org