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画一化、につながらないメソッドを!

noteで「町のピアノ教室」さんの記事を読んで、へぇー、スズキ・メソードってバイオリンだけじゃなくて、ピアノにもあるんだー、小林一茶の俳句を読んだりするんだー、と知ってちょっとびっくり。
Title photo by RCabanilla(CC BY 2.0)

それで「スズキ・メソード音楽教室」のオフィシャルサイトに行ってみました。バイオリンやピアノ以外にも、チェロやフルートの教室もあるようで全国展開ばかりか、世界展開もしていてそうとう広くこのメソッドを浸透させているようです。

で、楽器の中で自分にとっていちばん身近なピアノの教室のところを覗いてみました。どういうメソッドなのかな、と。

まず最初に「ごあいさつ」そして「ピアノの前にきちんとすわる」ことからレッスンの心構えを学ぶ、とありました。ごあいさつかぁ。なるほど、、、日本らしいですね。我が国では「ごあいさつ」は大事、サッカー選手だって、試合のときピッチに入る前、出るとき、かならず頭を垂れて「ごあいさつ」をしています。

ピアノの前にきちんとすわる、これはいいですね。自分にとって適切な椅子の高さを知って、腰や上体を安定させるのは大事。でも「レッスンの心構えを学ぶ」とはどういうことなのか。うん、でもまあ、、、何事も「心構え」から入るという日本らしい心のあり様を取り入れたメソードなのでしょう。

レッスンの中で一茶の俳句を読む、というのは(わたしの理解では)音調表現や記憶力を育てるためのようです。これは海外の教室でもそうしているのでしょうか。それともイギリスであれば英語の詩を、フランスであればフランス語の詩をということなのか。日本で一茶の俳句を読むのはいいとして(一茶の俳句は面白いものが多いですから)、日本の子どもも英語やフランス語の詩を読んでもいいんじゃないかな、と思います。学ぶのがヨーロッパ発生の音楽であれば、その音楽と近い関係にあるのはヨーロッパの言語による詩です。意味がちゃんとわからなくても、詩のリズム、言語がもつ抑揚はきっと伝わるし、俳句との対比もできそう。これは学ぼうとしているヨーロッパの音楽に役立つはず。

次に「先生に言われたポイントを繰り返し練習することが、上達の早道」とありました。さらに「指導曲集のCDを何回も聴くこと*で、耳から学び取る力を作る」と書いてあります。これはわたしから見ると、ちょっとクエッションマークが付きます。同じものを繰り返し聴くのは必ず飽きがきますし、先生の模範演奏を何度も聴いて、そのように弾けるようにすることが良いことなのか。これは西洋音楽ではなくて、師匠の真似をすることで芸を身につける邦楽(古典)や日本の芸能の学び方に似ている気がします。

日本語の学ぶ(まなぶ・まねぶ)の語源は「真似ぶ(まねぶ)」である、という説もあるようで先達の真似をすることが学びの出発点というのは、日本らしい方法論と言えそうです。西洋音楽が楽譜という標準化されたメソッドから学んでいくことと、対照的です。

先生に言われたポイントを繰り返し練習する、というのも、わたしから見るとやや抵抗感があります。音楽でも語学でも繰り返して覚える、反復によって身につけるという方法論は間違ってはいないし、誰もが自然にやっていることです。プロの演奏家だってやっています。もちろん自発的なものですが。必要と思えるから反復する、反復しながら考える、探る、工夫する。機械的ではない繰り返しです。先生に言われたからという繰り返し練習は(この部分を20回弾いてきなさい、など)、ともすると機械的になりがち。規範化することで、繰り返し自体が目的化してしまうと弊害も出そうです。

一定の効果が期待できるとしても、繰り返し同じ箇所を練習する、繰り返し同じ演奏を聴く、という方法には悪い点もあるように思います。一つは固定化が起きること。同じ箇所を言われたとおり繰り返し弾くことで、その箇所の演奏は固定化します。音楽だけでなく、芸術にとって固定化はある意味「停滞」や「死」を意味します。芸術のもつ大きな意味の一つは、科学がそうであるように、わからないもの、未知のものを探す、見つける、つまり「探求」だと思います。

他者からの指示に従い、その達成のために繰り返すことは、探求への道を断つことにもなりかねまんせん。芸術にとっては大きな損失です。

いや、芸術をやるわけじゃないから、単にピアノを習って弾くだけのこと、大げさに言わないで! 

そうでしょうか。どんなに小さな子どもでも、たとえバイエル程度の易しい曲を弾いていたとしても、そこには芸術があり、美しい音楽があります。モーツァルトやバッハの音楽と基本的には等価です。

芸術の基本に探求ということがあるとすると、つまり何か美しいもの、あるいは激しいもの、面白いもの、心おどるもの、ときに醜いものを見つけたいという欲求があるなら、その根底には必ず好奇心があるはず。好奇心なくして芸術は成り立ちません。芸術の世界に足を踏み入れるとは、自分の中の好奇心や探究心の芽と出会い、それをどこまでも追っていこうとすること。

昆虫好きの子どもが、虫を捕り、集め、調べ、知識を増やし、学問として学んだ末に昆虫学者になったり、あるいは在野の昆虫マニア・研究者になるのと、基本は同じだと思います。

大事なのは好奇心や探究心の芽を音楽の中に見つけることであって、提示されたものに従順に従って「出来るようになること」ではないはずです。

そうは言っても、楽譜が読めなければ、正しい音が出せなければ何もはじまらないでしょう、確かにそうです。ただ、従うことばかりをやりすぎると、失うものも大きいということです。

日本人は穏やかで優しい心の持ち主が多いのに、集団を想定した決まりごとを実行しようとすると、どこか体育会系的な方法論を取りがちになります。

どういうことかと言うと、たとえばある子どもが習っている曲を弾いていて、ある箇所に来るとどうしてもつかえてしまう、ということがあったとします。そうすると、先生はその箇所を正しく弾けるよう、繰り返し練習するように指導するでしょう。間違ってはいないとしても、過度にやると、あるいは機械的にとにかく間違わないよう繰り返して覚え込む、というような考えからの指導法だと、あまり良くない影響が出るかもしれません。たとえそこを間違いなく弾けるようになったとしても。

「間違いなく弾けるようになること」は、意味あることではありますが、音を間違えなければそれで良いというものでもありません。でも「間違えないこと」を第一目標に繰り返し練習をさせられたら、その子はその曲に対してどういう気持をもつでしょうか。

じゃあ、どう指導すればいいの?ということになります。ここからが音楽の本当の深みとの出会いであり、芸術への入り口になるのです。

わたしが大人になってから長くついていた作曲家の先生は、小さな子どもにピアノを指導するとき、たとえばある箇所が難所になっていて、どうしてもそこでつかえてしまう、止まってしまう、というとき、その箇所ではなく、その少し前のところに注目し、そこに何が隠れているのか、その秘密を提示します。そしてそこをどのように弾いて先に進めばうまくいくかを考えさせ、教えていました。その難所の前後にはたいてい、慣れない和音の移り変わりや新たな要素が含まれていて、そのためにそこで渋滞を起こしてしまうのです。でもその和音の移り変わりこそが、その曲の醍醐味であったり、面白さの元であったりして、それを子どもが理解し、感じることができれば、その箇所はむしろ、その子の一番好きな箇所になったりもします。

これこそが音楽との真の出会いであり、この体験はのちにきっと生きるでしょう。弾いている曲が易しいものであったとしても、これは変わりません。つまり頭脳と感性の両方をつかわせて指導する、ということではないかと思います。これは体育会系の「繰り返し訓練法」とは対極にあるものです。

体育会系などとあまり言うと、現在の体育会系はもっと合理的ですと言われてしまうかもしれません。ここで意味する体育会系というのは、1と言えば1しかないような世界、意味を問うことなく実行することを指しています。画一化された解釈と実行。音楽で言えば、楽譜に「フォルテ」と書いてあれば、「強く弾く」と解釈してしまうようなことを指しています。

え、フォルテは強くじゃないの? と思われるかもしれません。強くという意味ももちろんあります。でもそれだけではありません。その作品の曲調や曲の流れの中で、フォルテの意味するところはそれぞれです。音に幅をもたせて広々とした感じを出す、とか、太いうねりがそのフレーズを通過するように、とか、ドスンと落ちるような重量感を出してたっぷりと、などいろいろです。フォルテ=強く弾く、という言葉上の解釈で、その箇所に来たら強い音で鍵盤をたたく、というような単純・単一なことではありません。

メソッド、あるいはメソードというのは、何か技術的なことを手に入れるための方法論や指標ではないかと思います。ある種の標準化と言ってもいいでしょうか。基準になることを設定し、リストし、それを了解事項として学んでいく。基準となる設定、やり方を常に参照しながら、自分の求めるものを手に入れていく。なので標準化には常に基準となるものがあります。音楽でいうと、たとえば楽譜です。

楽譜は音楽の記譜を標準化したもので、誰が見ても、基本的な読み取りは同じです。西洋音楽の場合、ト音記号で、調号のない五線譜の場合、一番下の線の上の音符はピアノの真ん中のドから3度上の「ミ」(E、ホ)です。こういった標準化があってこそ、ヨーロッパの音楽が世界中に広まったとも考えられます。(邦楽も明治初期に、ヨーロッパの影響を受けて邦楽用の楽譜を作っています)

音楽の中身の標準化としては、3大要素となるのが(西洋古典音楽の場合)リズムとハーモニーとメロディです。このうちメロディは旋律ともいい、音楽に詳しくない人でもたいてい知っています。リズムとハーモニー(和声)は、少し専門的になり理解は簡単ではありません。またこの2つは、文化によって違いが出やすいところでもあります。

日本語を母語とする日本の子どもが、ヨーロッパの音楽を学ぶ際、このリズムとハーモニーは小さくないハードルになります。

森本恭正さんという人の『西洋音楽論〜クラシックに狂気を聴け!』という本を読んでいたら、学校の音楽では、たとえば2拍子であれば1拍目が強、2拍目が弱と習うけれど、ヨーロッパの音楽家がカウントするときは、拍と拍の間(1ト2ト、のトの部分)を強く言う、という指摘がありました。これはロックの話ではなく(ロックもそうですが)クラシックの音楽の話。この本の中では著者がドイツ人音楽家に、One and Two and …と言って拍をカウントしてみてと頼んだところ、one AND two AND…と答えたそうです。拍の間が強いのです。この拍と拍の間をUp Beat(日本語ではアフタービート、あるいは後拍)といい、クラシック音楽ではドイツ語のアウフタクト(Auftakt)もよく使われます。

森本恭生さんは作曲家・指揮者として海外を含め、長く活動してきた人。その人がこのことにびっくりしているのです。ということは日本の多くの音楽関係者や学習者も同様である可能性があります。

西洋音楽のリズムを考えるとき、確かにこのアウフタクトは非常に大切なものです。というかリズムはこのアウフタクトに始まると言ってもいいくらい。日本語のリズム、日本音楽のリズムは、1、2、1、2、と拍子があるとき、1の前には何もありません。静止状態から1がいきなり始まります。西洋音楽ではどうかというと、1の前に ン があります。ン 1と始まるのです。指揮者が曲を始めるとき、音を出す前の瞬間、サッと(あるいはフワリと)手をあげますよね。これがアウフタクトの感覚です。

西洋音楽の一角にあるバレエも同様です。バレエではこの1の前の拍を「イーッ」という合図で示します。「イーッ1」というように。このイーッがあるおかげで、音や動きに弾みが生まれ、音もからだもリズミックに流れます。イーッで持ち上げたものを1で落とす、これが基本です。このとき「イーッ」は「1」より強く発語されます。

これが日本語のリズム、邦楽のリズムの場合だと、アウフタクトがないので、いち(ペタリ)、に(ペタリ)と沈んでしまい弾みが生まれないため、リズムが流れません。邦楽はこのリズムが基本です。このリズムでバレエを踊ると、浮遊感がなくなり地べたを這うような動きに見えてしまいます。(創作バレエの中には、この邦楽のリズムをあえて取り入れた作品があるかもしれませんが)

ピアノを学ぶとき、このヨーロッパ音楽のリズム(アウフタクト)を、メソッドとして身につけることは、欠かせないことだと思います。少なくとも20世紀以前の音楽を学ぶ場合は。メソッドというのは、このような要素のことを指すのではないでしょうか。

西洋音楽の3大要素のハーモニー(和声)にも、同じような側面があります。日本古来の音楽には、西洋音楽でいうところのハーモニーはありません。なので普通の日本人の場合、この和声感を生まれながらにはもっていません。学ぶことで身につけることになります。

ハーモニーの感覚とは何か。基本的な和声でいうと、ドミソ、ファラド、ソシレといった違う色合いの、違う響きをもった音の重なりの特徴を感じることです。単純な例でいうと、ドミソの和音に右手でドの音を乗せるとき、ファラドの和音にドの音を乗せるとき、両者の響きに違いを感じることです。このとき三和音の中でもバスと言われる一番低い音が重要になります。バスの音を感じながら、つねに演奏するということです。ドミソの和音のときも、ファラドの和音のときも、上に乗せるドの音を同じように弾いてはいけない、というのが西洋古典音楽のハーモニーのメソッドの一つだと思います。この2つの和音の響きにいかに違いをつくるか、これがハーモニーの基本です。

このようなことを、アウフタクトと同様、日本のピアノ学習者がどこまでメソッドとして学んでいるか、実情を知らないので何とも言えません。ただ、こういった基本要素、標準化された指標のことをメソッドと言うのではないかな、と思います。クラシック音楽を学ぶ際に、このようなメソッドをひとたび身につければ、生まれもった才能に関係なく、ヨーロッパ音楽らしい音や響きを出すことができるようになります。

つまりメソッドとは、基本になる要素とそれを手にするための標準的な方法論のことだと思います。これにより、どの流派に属しているかとか、誰を手本とするか、どの模範に従うか、といったことと関係なく、西洋音楽を学ぼうとする者だれもが一定のメソッドを手にできます。

メソッドというのは一度身につけて、それが自分のものになると、のちのちそれを基に自分ひとりでも技術を高めたり、進化させたりすることができるようになります。音楽で言えば、3大要素のリズム、ハーモニー、メロディの基本メソッドが自分のものになっていれば、先生についていなくとも、自習がある程度できます。初めての楽譜を見たとき、そこから自分で音楽を引き出すことが可能になります。

習いごとというのは、何十年と続けられればそれはそれでいいですが、なかなかそうもいきません。ピアニストの人たちだって若い間は先生についていますが、一生習っているわけではなく、いずれ独立して自分自身で学ぶようになります。一般人とピアニストとはもちろん違いますが、趣味のピアノであっても、研究、探求、自習はできます。そしてそうやって自分ひとりで学んでいこうとするとき、過去に学んで身につけた演奏のメソッドが役に立ってきます。

かつてピアノを習ったことがあって、家にピアノもあるけれど、ほとんど触っていない、という人は案外多いと思います。音楽とのつながりが、習うのをやめた途端切れてしまった、ということでしょうか。そういう場合も、音楽の基本メソッドが少しでも自分の中に残っていたら、再開することは可能だと思います。このようなケースのためにも、意味あるメソッド、実際的に音楽と結びついたメソッドは一生ものの財産になるでしょう。

*指導曲集のCDを繰り返し聴く:ひと時代前の日本人が、西洋音楽を学ぼうとしたとき、楽譜を見ただけではどう演奏すべきか、汲み取れなかったとしても不思議ではありません。ヨーロッパの人には聖歌など古代・中世とつづく教会音楽(西洋音楽の元となるもの)が背景にありますが、そのようなものは日本人にはないからです。なので明治、大正、昭和と西洋音楽が日本で一般化していくときに、演奏の手本として、「本場」の演奏の音源を繰り返し聴いて、その溝を埋めることは必要なことだったと思われます。スズキ・メソードの創始者である鈴木鎮一さんは、クライスラーのレコードをかけてバイオリンのレッスンをしていたそうです。クライスラーのような豊かで美しい音をどうやったら出せるのか、と研鑽を積んだといいます。「指導曲集のCDを繰り返し聴く」というスズキ・メソードは、こういった体験から生まれた指導法かもしれないな、と想像します。

*繰り返して同じ曲や演奏を聴くことについての面白い記事を読みました。やらされてではなく、どうしようもなくそうなってしまう、というケース。


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