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優劣をつけるのは差別のはじまり?

優劣をつけるものは世の中にたくさんある。たとえばスポーツもそうだし、音楽コンクールもそう、芥川賞やノーベル賞、学校の成績や入学試験、就職試験も人と人を比べて、誰が優れているかを決める。

前回の投稿『差別の自覚とBlack Lives Matter』の最後に、「差別を考えるとき、事実関係を知ること以外に、(ものごとや人に対して)優劣をつけることの是非という問題もあるかもしれない。」と書いた。そのことを今回は考えてみようと思う。

優劣をつけることは社会の中でふつうにあることだ。世の中は優劣を決めることによって形成されている、とさえ言えるかもしれない。これを差別とか偏見と言う人はあまりいない。

しかしこと人(人間)に対する優劣の決定は、もしかしたら差別や偏見につながる可能性がある、と思う。

わたしはスポーツを観戦するのが好きだ。でもスポーツとは競うことであり、優劣を決めることであり、擬似戦争でもあるから嫌いだ、という人はいる。そういう意見を聞くと、ちょっと残念に思ったりもする。スポーツ観戦は、わたしにとってはある種のドキュメンタリーのようなものだから。八百長でないかぎり、とりあえずリアルな出来事が(ときにリアルタイムで)見れる。世界を知る一つの方法として。

そこで何が起きるか、がメインテーマ。

スポーツが擬似戦争とはあまり思わないけれど、競い合い、優劣を決めるものである、ということについてはある程度、認める部分はある。ただそれが(優劣を決めることが)スポーツの本質なのかについては、これまであまり考えたことがなかった。

スポーツの本質は、優劣を決めることなのだろうか。

ポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュは、人間はみんな同じ(存在)、だから比べることは無意味だ、同じものを比べることはできない、と語っていた。

スポーツは、たとえばサッカーを例にとると、強いチーム、弱いチームがあり、優れた選手とそれほどでもないように見える選手がいる。ということになっている。確かにあるシーズンの順位表を見れば、1位から20位まで成績順に並んでいて、1位のチームはたくさん勝って、勝ち点ををためたところだ。20位のチームは勝つのが難しく、最下位に甘んじている。そのままだと次のシーズンには、下のカテゴリーに落ちてしまうだろう。

ある選手は移籍金が8000万ポンドと高額だが、ある選手は500万ポンドにしかならない、という場合がある。この金額が選手の価値を表している、つまり能力の差を表していると見られている。

その意味で確かにスポーツの世界は、食うか食われるかの競争かもしれない。そして見ている方も、勝つか負けるかに一番興奮したり、結果に価値を置いているかもしれない。かなりの部分、スポーツはずっとそのようにして見られてきたと思う。

でも、と最近思った。スポーツの面白さ、楽しさは、本当はそこにはないのかもしれない。確かに試合結果が心理に及ぼす影響は大きいとしても。変な勝ち方をしても(試合内容をあまり反映していないけれど、何かのハプニングとかレフェリングの影響による勝敗など)、そのチーム(選手)のファンであれば、勝ちは勝ちでとりあえず喜べるという場合もあるだろう。ただファンの心理というのは、少し特別なものがあると思うので、ニュートラルな一般観客(視聴者)にとってのスポーツを考えてみる。

サッカーで二つのチームが試合をしていて、一方があまりいいプレーができず負けてしまったとする。そういうときに、そのチームを「ダメなチームだ、しょうもないやつらだ」あるいは「○○選手は使いものにならない」などとこきおろす人がいる。優劣をつけることの一つだと思う。いいプレーができなかった+負けた=しょうもないチーム(選手)、というわけだ。

ただ本当は、その日のその試合のプレイでは、ということなのだが。

アメリカの作曲家ジョン・ケージは、「いい演奏は、演奏家が注意を払ったときに生まれ、悪い演奏は注意を怠ったときに生まれる」と言っている。演奏者の能力ではなく、注意を払っているかどうか、集中しているかどうかが重要だ、と。これは一理あるなと思う。スポーツでも集中できていると、高いレベルのプレイにつながりやすい。

わたし自身はサッカーファンといっても、試合の中身やプレーをちゃんと分析できるような能力はない。主として試合全体の感じや流れを見ている。あるいは試合中に起きたちょっとした出来事や、選手の表情、監督の態度などに興味をもっている。また、好きな選手が出ていればその人のプレイにも注目する(この「好きな選手」というのも、必ずしもその人の有能さからくるのではなく、人間的な側面やキャラクターも含まれる。あるいは顔や表情が好きとか)。

試合を見ていてプレーがうまく運べないチームがあれば、何故だろうと思う。何がいけないのか、その原因となるプレイあるいはプレイヤーがいるのか、チーム状態に何か問題があるのか、とか。ただサッカーの場合、前半に流れが悪かったチームが、後半になって相手を押し込むような変化が起きることはよくある。あるいはハーフタイム内でも、何かをきっかけに攻守の圧力が逆転することもある。同じチーム同士、同じ試合の中ですら、能力の発揮の仕方が変わるのだ。

そういう変化には興味深いものがある。そこで、その場で何かが起きているのだ。スポーツでも音楽の演奏でも、本番で何かするというものの場合(どちらもプレイというが)、そこには何が起きるかわかないという側面が必ずあるし、いいことも悪いことも起きる。そのことに見る者は心を託している、とも言える。

だからいつも「立派な演奏」である必要はなく、「緊張感に満ちた素晴らしい試合」とか「有力チームがその能力そのままに、目いっぱい力を発揮する試合」である必要もない。資金力のない、有力選手をさほど擁していないチームが、スター揃いのビッグクラブに内容で勝った(まさった)試合などは、見ている人の予想を大きく裏切るわけだが、試合としてはスリリングで、ワクワク、ヒヤヒヤ、面白いものになる。そういうことは現実の社会でも、起きることだ。

結果から優劣をつけることは簡単だし、通常、高い得点をとった者がスポーツでも入試でも優秀であることになっている。それは得点をつける基準があるからで、設定された基準から判断した場合、一方が他方より優秀だという意味だ。

得点によって優劣をつけることは、社会に法律やルールがあるのと似たようなことかもしれない。一種、社会秩序を整えるためのものだと思う。悪いことだとまでは思わないけれど、それがすべてのものの見方や判断に影響を与えてしまうと、あるいは社会的に付された優劣だけでものごとを見る癖がつくと、それはそれで問題かもしれない。世界が狭くなる。

スポーツでもコンクールでも、入試や各種の賞でも、優劣をつける場では、公平性があるかどうかがときに問題になる。公平性があって初めて、優劣の意味は保証されるとも言える。公平性がないと、その優劣の付け方には差別があると言われてしまう。優劣をつけることが差別につながらないためにも、公平性はぜひとも必要ということ。

ただ、、、、と思う。優劣をつけることそのものの意味は、たとえば50年前と比べたら減っているのかもしれない。それは社会が広がり、文化の混合や人の移動が起きて世界が多様化していく中で、優劣の基準も限定的な意味しか持てなくなってきたからではないか。

ノーベル文学賞を得た作品にはすばらしいものもあるが、それ以外の賞でも、あるいは受賞作品でなくても、すばらしい作品はたくさんある。ショパン国際ピアノコンクールの優勝者は、ショパンの楽曲を高いレベル(得点)で演奏したかもしれないが、バッハのゴルトベルク変奏曲を神様がおりてきたような演奏をして、多くの人の心をとらえるピアニストもいる、といったことだ。

将来を有望視されていたサッカーの若手選手が、大怪我を負って、あるいは大病をして、その後それを乗り越えてピッチに復帰し、長い離脱期間を払拭するような、素晴らしいプレイを見せたとき、人はその姿に感動する。それはその物語そのものというより、そういう人間の姿に自分の人生を重ねたり、人間のもつ可能性を感じて様々な想像をするからだ。その意味で、スポーツも勝敗や優劣だけの基準では計れないものがある。

スポーツはゲームだから勝敗はあってもいいけれど、それによってすべてが決まってしまう、と思いすぎるのはつまないことだ。

人間は同じ存在だから、比べることはできない。という言葉に真実を見ることは可能だ。いや、そんなの欺瞞でしょ、人間には優劣があるし、競争によって初めて人は進歩する。そういう考えの人の方が多いかもしれないが。

ただ勝敗や優劣を中心にもの見、判断していたことから、そうではない見方や判断を意識的にするようにしたら、どんな世界が見えてくるかは、一度試してみる価値は誰にとってもあると思う。一人ひとりのそのような態度の選択が、世界を変えていく要因になる。

Photo by Ronnie Macdonald(CC BY 2.0)

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