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[エストニアの小説] #10 夜の川下り (最終回)

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 ロキはそれを聞いて、笑顔を浮かべていた。「いいの、ツィターがなくても、あたしはあなたを信じる」
 「ツィターなしでもわたしのことを信じるのかい?」 ニペルナーティはいぶかるように訊いた。
 そしてまごついた様子でロキをじっと見た。
 「信じてくれるんだね。ツィターがなくてもわたしを信じるんだね? で、わたしと一緒に来るかい?」
 「ええ、行きます」とロキ。
 それ以上の言葉は必要なかった。ニペルナーティは嬉しくなって、あっちへこっちへと走りまわった。1本1本の木に、鳥の巣一つ一つにさよならを言った。夕暮れが迫っていた。薄い雲が空を流れていった。と、突然、ニペルナーティは納屋の雌牛に藁をやっていないことを思い出した。素早い動作で干草の山に登っていき、藁を下に降ろしはじめた。
 「さあ、筏のところにいく時間だ!」 藁を下ろしながら、そうロキに声をかけた。
 「うん、わかった」とロキは言ったけれど、嬉しそうではない、陽気ではない。ロキは眠っているみたいに、目を地面にじっと当てて歩いていった。目をあげると、そこからビーズのような涙がこぼれ落ちた。
 ニペルナーティは仕事をやっと終えると、静かに小屋のドアをあけ、敷居のところから部屋の中をのぞいた。シルベル・クディシームはもう眠りについていて、白髪混じりのボーボーの髭がそこから見えた。しかしロキのベッドは空っぽだった。
 ロキは筏のところに行ったに違いない。ニペルナーティはそう思って、川まで小走りになって向かった。
 「ロキ、とうとう来たんだね!」 ニペルナーティは嬉しそうに声をあげて、筏にすわっている娘を見た。ロキはショールで身をすっぽり包み、膝の上に荷物を置いていた。ニペルナーティはあたりの暗さを感じながら、筏のロープを外し、川の流れの中へと押し出した。

 暗い空には星がポツポツと瞬いていた。岸辺の木や藪が飛ぶように後ろに流れていった。草原のここそこで驚いた鳥が飛び立ち、気味の悪い声をあげながら森の中へと消えていった。ニペルナーティは立ち上がり、船を操縦するようにして筏を前に進めた。川の急カーブのところでは、前に、後ろにと竿で筏を動かし、正しい方向を確保した。

 それからロキの隣りに腰を降ろし、その手を握った。
 「どうしてそんなに黙っているの、悲しいの?」 ロキの浮かない様子を見て訊く。「きみの手は今日は冷たくてこわばっている。こんなんじゃなかったね、いつもは。見て、見てごらん、流れ星だよ、真っ暗な空に龍みたいに長い尾を引いている。これはいい印だ、可愛いロキ。流れ星はいつだって幸運の印だ。夜の静けさの中で、川の水がどんな風に音を立てているか聴こえるかい? 怖がっているわけじゃないよね。どうしたらきみを楽しくさせられるかな。どんな話をしたら、きみの暗い気持ちが晴れるかな。あー、ロキ! 陽気になって、楽しくなって、わたしたちのこの先の暮らしは、不思議な妖精のお話みたいになるからね。わたしがツィターを弾いて、青髭公と7人の妻の歌をうたうのはどうかな。あー、きみは答えられないんだね。わたしはどうしたらいいんだ」
 「あなたに何と言ったらいいの?」 娘が静かに笑って訊いた。
 ニペルナーティは耳を澄すとロキの手を離し、がっかりしたように言った。「今晩きみの声はいつもと違っているし、そんな刺々しい言い方は聞いたことがないな。教えてほしい、ロキ。いったいどうしたんだ?」
 ロキは頭からショールを外して、ニペルナーティの方に顔を向けると笑い声をあげた。
 「あたしはロキじゃない!」 そう言った。
 「マルーだ、マルーだ!」 ニペルナーティは飛び上がって叫んだ。「どこの悪魔がきみをわたしの筏に連れてきた。帰れ! わたしは戻らないと」
 ニペルナーティは竿を手に取ると、筏を土手の方に寄せていった。
 マルーは立ち上がり、ニペルナーティの方へと向かっていって、命令口調でこう言った。「バカはやめなさい、この筏乗りが。戻っても意味ないの。森育ちの娘とどこへ行こうっていうのさ。それとも自分がこの森に住んで、人生のすべてをこの沼地に捨てようってこと? あんたの話す物語とおんなじだね、あんたは。向こう見ずな振る舞いで、あちこち壊してまわるやつだよ。あんたはひと夏でさえ、ここに住めないね。最初の1週間は歌って陽気に過ごすだろう。2週目にはもう悲しくなって、3週目になるまでに、ロキが重荷になってしまうんだ。あんたはそういうやつだよ、この筏乗りが!」
 
 ニペルナーティが鉤ざおを投げ出すと、マルーは近寄ってきてこう言った。「おねがい、あたしを連れていって、ニペルナーティ。1年、いや1週間、ひと晩でもいいから! なんであたしじゃダメなの、ロキじゃなくて」
 ニペルナーティは筏に横になって泣きはじめた。
 「ロキ、ロキ!」と狂ったようにその名を呼び続けた。
 「ロキはあんたには合わない」 腹を立てたマルーが強い調子で言った。
 「あんたと出ていかないようにロキに言ったんだ。あんたはペテン師だって教えてやった」
 ニペルナーティは立ち上がると、ツィターを肩越しに投げ、筏が川の曲がったところに来ると、土手に飛び降りた。一言も発せず、暗く厳しい顔つきで、マルーの乗った筏を川の流れの真ん中まで押しやった。
 「たすけて、助けて!」 怖くなってマルーは大声で叫んだ。
 筏は流れに乗り、スピードを上げて走りはじめた。

'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku

第1話「筏乗り」おわり

いかがでしたでしょうか。たくさんの方に読んでいただけたようで、初めての試みでしたけれどとても嬉しいです。ありがとうございました!
8月中旬より、第2話「ノギギガスの3兄弟」の連載スタート。


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