ナマニャの寛大で惜しみない体 ドリーン・バインガナ(ウガンダ)
COMPILATION of AFRICAN SHORT STORIES
アフリカ短編小説集 もくじ
トタン屋根の穴から漏れる光で、今日もナマニャは目を覚ます。少しの間ぼんやりとし、背中の痛みを感じて寝返りをうち、我にかえった。背中がもうやめてと悲鳴をあげていた。古着の山に屈みこむのを、市場での値段交渉を、化学薬品のツンとするニオイを嗅ぐのを、額を太陽にさらすのを、擦り切れた靴うらで砂利を踏むのをやめてくれ、と。今週3日間休んで楽にはなったものの、今日また仕事に出なければならなかった。口が食べるのを休んだりするだろうか? ナマニャはオウィノ市場への道を、痛む体を引きずっていくことになる。あれこれ言っている暇はない。行かなければ。
ナマニャはベッドから這い出てレス(アフリカの体に巻く布)を体に巻きつけた。もっと硬いベッドが必要だ。服の卸し屋のレスティトゥタは、床に寝るのがいい、それが背中には一番と言った。あの女はナマニャが誰で、どこから来たのか、千の丘の国*から来たことを知っているのだろうか? ナマニャはシーツをはがすと苛立たしげにパンパンと振り、自分の二の腕がはためくのを感じた。部屋を仕切るカーテンの内側の狭いスペースで、ベッドを整えるのは彼女のたっぷりとした体には、慣れたものとはいえ簡単ではない。それが終わって釘にかけた鍵を手に取り、上下二つの南京錠を外すと、金属製のドアがギイギイと不機嫌に鳴って開いた。ナマニャは刺すような光に一瞬息をのみ、瞬きすると手で目をおおった。向かいのヌビア人家族の開け放たれたドアが目に飛び込み、揚げ玉ねぎの匂いが流れ、最近生まれた赤んぼうの引きつった泣き声が耳に入ってくる。今日は昨日と同じ、昨日はおとといと、そして明日も同じだ。いつナマニャはここを出ていくのか。
*千の丘の国とは、国土が山に覆われているルワンダを指す。
ドアのすぐ手前で、黄色いジェリカン(ポリタンク)の水を洗面器にあけ、石けんとスポンジを手に取り、赤いスリッパに足を突っこんで、ナマニャは二つ向こうの共同バスルームに向かった。そこで500シリングを支払う。消毒剤のせいで手が灰色になっている清掃員の男が、ドアの鍵を開けてくれた。今日は誰も並んでいなかった。神に感謝。いまは朝の7時。すでに遅刻だ。常勤で働いている人たちはもう出かけていた。夜働いている人たちはまだ寝ているし、仕事のない人も同様。バスルームの壁に触れないように体を洗うコツがあるのだが、ナマニャは肘を閉じて大きな腰や尻をどう扱うべきか心得ていた。夜には電気が止まり、風呂もなし、すべてがストップする。
水浴びはささやかな楽しみであり、涼をとる方法。体の隅々を、カーブや割れ目を洗いつくすことで、自分が新しくなったと思える。デオドラント効果のある石けんの強い匂いが鼻を刺す。ナマニャは嘘がつけない。自分の体が好きだった。この温かな物体が自分を運び、また自分がこの体を運ぶ。ナマニャのなだらかな小さな肩、くったり楽しげに揺れる乳房、まあるい腹と尻、しっかりとした太もも。母親や叔母たちのかつての姿を自分の中に見た。幼かった頃、母やその姉たちが家につづく丘をゆったりとした足取りで登っていくのを見て楽しんだ。ナマニャは母たちと同じ、深く高貴な黒い肌をもっていた。ときどき鏡の中に、叔母のンクワンジを垣間見ることがあった。ナマニャの目に、かつての叔母の姿が蘇った。
昨夜見た夢。それとも記憶だったのか。今の自分にそっくりな黒くどっしりした体の母親と叔母たちが、ろうそくの灯りに照らされた薄暗い奥まった部屋にすわり、じっと自分を見ている。なぜなのだろう。みんな揃って黙りこみ、2本のろうそくの灯りが、一列に並ぶ目の中で燃えている。小さな手は膝の上で組まれている。笑顔を見せることなく、じっとこちらを見て待っている。いったい何を? 自分はまだ小さくて、悲しいこと陰気なことは嫌いだった。母親や叔母たちを笑わせようとした。バッタが腕の上にとまってくすぐるから、パシッと手で殺して生のまま食べた、と話すと、みんなは静かに、と言った。ニコリともしなかった。そして気づいた。丘の国に取り残されていた母親たちは、さらに遠のいていった。誰もさよならを言わなかった。ナマニャは目を閉じ、黙ったままの女たちはじっと彼女を見つめた。
あーっ。ナマニャは目をパッとあける。これから始まる1日のために、体を洗っていたのではないか。部屋に戻ると、タオルで体を拭き、エヴァのボディクリームを体じゅうに、腹の下の帝王切開の傷跡には特にていねいに塗った。ケロイド状の傷跡は、ナマニャが母親であることの唯一の印だった。今年23歳になるテンドーは、どこにいるのやら。やっと歩けるかどうかというときに家を離れ、自分同様、無事に生きていてくれればと願うばかり。
新しい梱包が今日開かれる。ナマニャは上物を買うだけの資金を蓄えてきた。ジム用のウェアは彼女の専門領域で、どこにそれを持ち込むべきか知っていた。緑に囲まれたコロロのジムである。ディーヴァ女性専用ジム&スパは、ナマニャのお得意様だった。そこの女性たちはお金を躊躇なく使うし、警備員のソロは暇を持て余していた。
最後のひとかけらの砂糖を入れたお茶。きょうびガソリン代と変わんないからな、とはテキ屋の言葉。とはいえ、今日、ナマニャは砂糖を少し買い足すことができるはず。そのとき母親の声が耳もとで響く。「カチャカチャ音をたてるんじゃない。カップの縁や底にスプーンを当てちゃだめ。おまえはムコピか?」 これが母親の口癖で、自分たちは平民ではなく王族であると。それがいま、何か助けになってるだろうか? いや、だが今日はナマニャの頭はさっきの女たちのことでいっぱいだった。さっさとお茶を済ませて、出かけた方がよさそうだ。食べるためには、体を動かさねば。心はどうとでもなれ。
*ムコピはウガンダの民族集団バガンダ(ガンダ人の集団)の社会階層の一つと思われる。
家のドアのかんぬきがギシギシと抵抗するように音をたて、騒音に満ちた1日の前触れとなった。それを合図に隣の赤ん坊が泣き出し、その小さな口の中はトンネルみたいに黒かった。ナマニャは街の喧騒に導かれるようにして道を進み、汚い水たまりにグレーや黒や緑のゴミ袋が行進でもするように浮かんでいるのを避けつつ歩いた。いつものやせた砂色の犬が、鼻をクンクンさせてナマニャの後を追い、やがて立ち去った。後ろ足のガニ股はテンドーみたいで、自分の父親のものでもあった。今日、彼女にはその両方が目の前を歩いているかのように、はっきりと見えた。ナマニャはそれを振り払おうと、被っているスカーフに何度も手を滑らせた。
右に左にと機械的に首をふって挨拶。毎日見る顔に目をとめる必要はなかった。砂糖、塩、玉ねぎ、マッチ箱、そしてゴシップを売る、掘立て小屋のような売店に押し込められた、商品同様にわびしくて偽物めいた常連たち。石ころやゴミに足を取られないよう目を落としバランスをとり、体重をかけて坂を登りながら、ナマニャは考える。今晩、息子にお金を送ってやれそうだ。ナマニャにお金が入ると、どうして知るのか、息子の友だちのカトウが金を届けるためにやって来る。ナマニャにお金がないときは、カトウのネズミ顔は木切れのように空虚になり、くちびるは薄く平たく閉じられた。
ワンデゲヤを出た中央通りは、すさまじい騒音と混沌が湧きたつ川の流れ、人々の押し合いへし合いと、熱い砂埃が舞う。ただ、空はある。大きくて真っ青な空が。雲はなし、ついている。今日、雨でなくてよかった。
ナマニャはミニバス・タクシーに体を押し込みすべらせ席を確保する。隣の先客はナマニャに腰を押しつけられても、そのままの姿勢で微動だにしない。マタツに乗れば幸せだ。頭の中の声を、車内の大声が消してくれるから、嫌なことから逃れることができる。ミニバスが大きく揺れるたびに、乗客は互いの肩や腕や太ももを擦り合わせた。今日は砂糖の値段についてだった。車掌と運転手は互いに、そして乗客も引きこんであざけりの言葉を投げ合い、金をとってるかのようにしゃべりでみんなを楽しませた。
「金を払え、セボ(だんな)! オールド・パークまで1000だ。おれが砂糖を欲しくないとでも? あんたみたいに砂糖なしで大きくなったとでも? 金を払えって、このニャボ(おくがた)が! ただで手に入るものはない。水だって金がかかる。赤んぼうもそのうち、母さんのおっぱいに金を払うようになるさ。見ててみろ!」
「昔は砂糖が塩と同じ値段だったって、信じられるか? そうだ、安かったんだ。ナンティ(金持ち)よ、あんたはついこの間生まれたばかり。イディ・アミンより前のことを言ってるんだ。砂糖はインド人と一緒に消えた。はーっ、おれらのカンパラに生娘がいなくなったのとおんなじだ。砂糖の代わりに塩を粥に入れる羽目になったわけだ、信じられるか?」
「あんたは嘘つきだ! 塩はントゥラ(白茄子)と同じくらい苦いのかい? もし自分をヒーヒー言わせたいなら、唐辛子を使ったらどうだ」
「笑えばいいさ、だがな、おれらは昔にもどる、インド人だって戻ってくる。見てろ。耳を澄ませて聞けよ。砂糖なしの紅茶ストレート。ミルクなしは当たり前、お偉いのは牛が好き、何千頭も飼っているのにな。紅茶は死ぬほど苦いわけよ」
「死ぬって何だか知ってる風だな。それ飲めるんかい?」
そのとき、バイクが道を横切り、ミニバスは悲鳴をあげて止まった。乗客はみんな前に投げ出され、檻の中の鶏がバタバタと大騒ぎするように怒りの声をあげた。運転手の声が最も大きく、窓から腕を出して振りまわした。
「このアホが! コマンヨコ(くそったれ)! 死にたいんか!」
ミニバスはオウィノの人の海に突入した。充満する汗で蒸した臭い、渦巻くホコリ、わめき声のギャーギャーに甲高い悲鳴の色とりどり、人間動物園の鳴き声が解き放たれ、人の肌と肌が異様に密接して押しつけ押しつけられ、プライバシーなどふっとんでないも同然。地面自体が不安定で危険でさえある。何十年も昔の舗装が壊れ、叩き割られて雨水路の中で鋭い石のかけらとなっていた。カラスの死骸みたいな黒いビニール袋はツルツルと滑り、捨てられたジュースパック、黒くなったバナナの皮、錆びた釘、そこを通る急ぎ足。普通に歩くのも簡単ではない。今日みたいに心あらずの日には、ナマニャはとにかく足を無心に動かすのだった。
ナマニャの尻が群衆の汗と押し合いへし合いに加わり、赤いスカーフとスカートがそこに色を添える。お腹の前でハンドバッグをしっかり握りしめ、ストラップを腕の下で締めつけ、両肩に熱っせられた空の中国製ビニール袋を背負っていた。汗が顔についたホコリを湿らせ、乳房の下にたまり、背中を流れて尻の割れ目に滴る。汗はナマニャの体の上にも、体の中にも流れ落ちる。車のガラガラゴトゴト音、ホコリっぽい湿った空気、大音響の音楽があたりを揺らし、泣き声、笑い声が響きわたる。この世界のすべてが、腹を減らした野良犬も含めて、ナマニャの脳に押し入り、脳を詰まらせようとしている。
まばゆい太陽の光から逃れようと、一瞬、ナマニャは目をきつく閉じた。するとまた、頭の中にはるか彼方の風景が浮かんだ。薄暗い部屋に母親と叔母たちが大きな尻と太ももを広げ、足を折って床に座りこみ、じっとロウソクの火のもと沈黙し、ナマニャをじっと見つめ待っている。ナマニャはパッと目をあけ、額の汗をぬぐった。ナマニャは今ここにいて、オウィノの中心街に行かねばならなかった。そこは新しくてピカピカで安いが1週間ももたない中国製品を売るいくつもの屋台の背後にあった。必要不必要、誰が欲しがるのかという品々が高く積み上げられた屋台の壁を通り抜けねばならなかった。テラテラした割れたプラスチックの店の裏側をなんとか進むと、板張りで騒音を遮断した薄暗い店が現れ、これも売りものかという黒い人影が鎮座している。粥を食べる人、すする人、小さなラジオをイヤホンで聞く人、誰かに電話している人。ここでナマニャは顔見知りに挨拶をした。「いるの?」と声をかけ、新たな梱包が開けられている日の当たる側へと移動した。
ナマニャが到着し、足を踏み出すと、そこには、、、何もなかった。穴だ。何もなかったわけではない。大きな長方形の穴が、家が1つ丸ごと入るくらいの幅と深さのある黒土の穴だった。その脇には、色鮮やかなオレンジの巨大なモンスターが、この事態を説明するかのように鎮座していた。ナマニャの部屋と同じくらい大きな車輪、シェラトンホテルに匹敵するほどの高さと厚みのある腕、悪夢のような馬鹿でかい爪を生やした金属の手。突如、彼女の内面は外界に抵抗しなくなった。そこには彼女の心と同様のだだっぴろく、ポカンとした空間があった。背後の街の騒音がみんな引いていった。そしてそこには叔母たちがいて、大きな穴の底に座っていた。服が土で汚れはしないのか? 瞬きすると、叔母たちはナマニャの頭の中へと吸い込まれていった。
「ちょっと、そこの女、どうしたんだ? どいてくれ、通るんだから!」
「バンビ、この人は街に来たところなんだ。ブルドーザーを見たことがないんだ。大目に見てやってくれ」
周りで笑い声が起きる。
ナマニャがそっちを向いて言う。「いったい何が起きたの?」
「あんた、どっから来たんだ? 聞いてないのか? 市長とその仲間が俺らを追い出したんだ。あいつらは俺らみんなに、また村に戻れって言ってるみたいだな。カンパラを出ていけとな」
「なんだそれ! 冗談を言ってるのか。俺らはあいつらがここに来たのと同じようにして、来たんだ。あいつらより先に来た者だっている。カンパラで生まれたのは誰だ? 俺らはどこにも行かない。あいつら作った穴に、俺らを埋めるがいい」
ナマニャは大きな土の穴に引き込まれそうになって、後ずさった。驚いたのは、その穴が心の奥底にずっとあったような、馴染み深いものに見えたからではない。そうではなく整然としていたからだ。均一な深さ、底は一様に平らだった。土壌は豊かで茶色く、すっきりと何もない空間を作っている。ナマニャはからかいの声や笑い声に引き戻され、足首を痛めるほど急旋回した。
「梱包はどこで開かれるの、いったい?」
「キョカ、何をいう! 今ごろになって訊くのか? もう終わってるはずだ。来た道を戻れ、道をわたって、トータル駅の向こうにな。いまやつらは駅裏のニューパーク近くにいるだろう」
ナマニャは売れ残りに集まる群衆を見つけ、レスティトゥタを見つけ、彼女が取っておいてくれたジム用ウェアを見つけた。ジム用ウェアは、ナマニャのように直接顧客に売らない限り、洒落たドレスやブラウス、ハンドバッグほどに人気はない。背後の争う声には耳を貸さず、ナマニャは足を大きくひろげ、臭いを放つ服の山から品選びをした。手に取った服を振り、着古したものを投げ捨て、他のものを手にとり、一つずつ高く掲げて検閲し、頭をそらし、服を広げて弾力性があるか調べ、ひっくり返して穴がないか、破れたりほつれがないか精査し、型崩れしたもの、ひどいシミのあるもの、色あせてくたびれたものを避(よ)けた。ナマニャはコロロのおしゃれなジムに来る女性たちのために、ちょっとでも古びたものに時間を使うことはなかった。女性たちはアディダス、ナイキ、プーマといった、よく知られたブランドのものを手にする。ありがたいことにあらゆるメーカー、スタイル、サイズのトップス、長短のパンツ、スポーツブラ25着が揃った。
次はさらに苦労多い作業となる。ナマニャはレスティトゥタの隣りで、葦で編んだマットに腰をすえて、値段交渉にはいる。友だちのレスティトゥタはナマニャがどこにそれを売りにいくか知っていたが、それが助けになることはなく、またナマニャが遅刻したことも同様だった。その後、ナマニャは服を見栄えよくする作業にはいった。化学薬品の臭いを消し、服を振ってから、手に入れられたときはラ・ディアナの香水を、それがないときは芳香剤をスプレーし、マットの上で一つ一つ手の平できれいに伸ばし、丁寧にたたみ、最後にその服の山を一つにする。順に従って繰り返す動作は滞りなく、慣れたもので、手と腕の動きは儀式の踊りのようだった。
ナマニャは今日、コロロまで行って金を稼ぐつもりだ。叔母たちが押しかけてきたせいで気を削がれ、心ここにあらずではあったが。ここらで美味しいランチでもどうだろう。マトケと豆のシチューとか。レスティトゥタのマットの上の椅子にすわって、ナマニャは若い給仕の女の子に声をかけた。皿を山のように積んで、バランスをとりながら人の間を縫って歩いているその娘は、マトケと同じくらい熱くオレンジ色に顔を染めている。頼んだものは、数分で届いた。
*マトケ:デンプン質の多いバナナで、果実は緑色のまま収穫され、皮をむいて加熱し潰して食べる。ウガンダとルワンダの国民食。タイトル画像参照
ナマニャはマトケをフォークでは食べない。柔らかい黄色の実は、指と手の平で何度もつぶして具合を見、シチューに浸して食べるのが正しい食べ方。バントゥー系民族のガンダ人であると公言する父親は、妻にマトケの調理法をきちんと学ぶよう強く勧めた。硬い緑色の皮を素早く優雅に剥き、たくさんのバナナの葉っぱで包む。それを蒸す。そしてガンダ人が「エンメレ(食べもの)」と単に呼んでいる柔らかな黄色い状態にまで練る。ナマニャの母親はその技術を即座に娘に伝授した。「あたしの手でこの熱いものを扱うのはきつい。あたしたちは肉やミルク、血を食べて何世代も生きてきた。十分じゃないか」 母親はフライパンにかがみ込んで、一練りごとに文句を言っていた。「あんたの父さんは勘違いしている。自分をガンダ人だなんて。あたしたち家族みんながガンダだって押しつけてる。カンパラに越してきたからそうだっていうのかね? 移動すれば血も変わるってこと? あたしはツチ人だよ、そういうこと。父さんは迎えられたって言うのさ、一族としてね。だからどうなの? それであの人の過去が消えたって? じゃあなぜ、あの人はルワンダに妻を探しに戻ったんだろうね。だけどこっちは、なんであそこを離れるのに賛成したんだか?」 母親は小さな手のひらを熱い湿った葉っぱに何度も押しつけて、自分の怒りでマトケを熱く甘くしていった。
終えると、母親は振り返ってナマニャに目をとめ、娘が芝居でも見ていたのかとでも言いたげに見つめた。娘の顔の前で手を振るというのが、母親の合図だった。「見てごらん、この小さな手を。あんたも同じだね。この手はミルクをかき混ぜてエシャブウェ(アンコール王国伝統の澄ましバター)にして、ひょうたんに入れるよう作られてる。戦争前にあたしのところの家族が飼っていた、貴重な牛のミルクだよ。ミルクのせいであたしたちの肌が滑らかで、歯が真っ白なのさ。マトケは何に効くのかい? ポンポンを満たす、それだけだ」
「あんたここに一日中いるのかい?」 レスティトゥタがナマニャに向かって眉をひそめた。
「もうちょっと、ここにいさせて。明日ここで何があるか、わかったもんじゃない。あいつらが掘ってたのを見たよね。あんた、戻ってくるつもり?」
「もちろんだよ。他に何ができる? 次に何をすべきか、わかるだろうよ。お日様が毎日登ってこないとでも?」 レスティトゥタが肩をすくめた。
そのとおり、日はまた登る。この仮の屋台、あるいは他の屋台、この仕事、あるいは他の仕事、カンパラのこの地域、あるいは他の地域、この国、あるいは他の国。
ナマニャも肩をすくめ、給仕の女の子に手を差し出した。その娘は小さな水の入ったジェリカンと石けんを手にしていた。ナマニャが体を起こすと、心の中にまた何もない空間が、かつてコンクリートやレンガ、人々、遊び人に泥棒、山のような商品、野望と汗でいっぱいだった空間が蘇った。そして今は、何もない? ナマニャはそこに戻って確かめようかと思った。いや、ちがう、口を開けた墓場に戻る必要などない。ナマニャは心の内に叔母たちを携えて、コロロに向かった。ロングスカートの裾をはらい、ブラからハンカチを引っ張り出し、濡れた手を、顔を、口元を拭い、また元に戻した。中国製ビニール袋に商品を詰め込んだ。
「うん、じゃまたな」 キガンダの別れの挨拶はお愛想であり、遠回しの嘘。もう戻ることがなくてもそう言う。彼らは何世代にも渡りマトケの農園で暮らしてきた定住者、いつもそこに戻ってきた。ナマニャの母方の遊牧民は、元気でね、とだけ言って別れを告げた。
*キガンダ:ガンダ語(ウガンダの主要言語)で、ガンダ人のやり方を指す。
コロロまで行くマタトゥ(ミニバン)はなかった。下層の者たちは排除しなければならなかったから。ナマニャはボーダのバイクに乗ることになる。トータル駅には全部で5台以上が待っていた。ナマニャは年配の男のボーダを選んだ。年取った男は安全だった。これ見よがしの無謀な走りはしないから。ムラゴ病院は手足を骨折した若い男たちで溢れていなかったか? ボーダによじ登ると、ナマニャは尻を前後に動かして体を安定させた。
「走ってもいいかい?」 運転手が笑いを含んだ声で肩越しに言った。
「なんで? ボーダにうまく乗れないとでも?」
「ただ訊いただけだよ、ニャボ(おくがた)。大丈夫だったら、出発する。気持ちよく乗ってほしいからな」
ナマニャは運転手を無視した。ちょっとしたことで罵りはじめるかもしれない運転手と会話をする気分ではなかった。心の内の大きな墓穴に落ちないようにとでもいうように、ナマニャは中国製のビニール袋をしっかり抱いた。太陽が天空からナマニャの肩のあたりまで傾いていた、ありがたい。夕方の早めの時間帯は、ジムの女性をつかまえるのに丁度よかった。ジムで女性たちを待とう。
車や自転車、色褪せた交通巡査の白い車の間を出たり入ったりしながら走るのは、 足捌きの難しいダンスのよう。力いっぱい叩く子どものタンバリンのように荒々しいかと思えば、草地を這いずり抜けていくヘビみたいにクネクネと進んだ。カンパラから抜け出しはしたものの、クイーンズ・クロックの下で渋滞に巻き込まれた。そこは巨大なゴキブリが空ぶかししながら侵入してくる、バイクの群れの合流地点。頭上の色褪せた広告看板ともども(電話サービス会社から料理油、ビール、ペンテコスタ派の伝道師の宣伝まで)、視界から追い払いたかったが、ナマニャは目を閉じるわけにはいかなかった。危険すぎる。街の中央を通り抜け、エンテベ通りを曲がって、カンパラ通りに入り、やっと大通りの喧騒を逃れてワンペウォ通りに入った。コロロへの道は、青々とした木々の緑でナマニャを迎えてくれた。そして穏やかな傾斜を登っていき、爽やかな風に頬やむき出しの腕をなでられて、ナマニャは深く息を吸い込んだ。
緑の蔦に覆われた石とレンガの高い塀を縫うようにして舗装道を進むと、遠くに見栄えの違う街が現れた。緑に覆われた大きな木々は、ここがかつて青々とした森だったことを思い起こさせた。徒歩で通り抜ける人はほとんどいない。誰もが車の中、あるいは通電装置のある壁の中に引きこもっている。ナマニャの乗ったボーダは、大使館を通り過ぎ、外交官の屋敷を、人里離れて据えられた会社の事務所を、そして韓国料理店、ギリシャ、インドなど物珍しいレストランに改装された元植民者の家々を通る曲がりくねった道を進んでいった。傾斜がきつくなると、ナマニャは体がそり返るように感じて、ボーダの運転手のツルツルしたジャケットをつかんだ。この男の臭いはこの場所のものではない。当然、ナマニャのものでもなかったが。
ナマニャの母親が言うには、自分たちは千の丘からやってきた。ここよりもっと青々として緑深い場所。ナマニャはよく覚えていなかったものの、新聞の写真で見たことがあった。山の頂上は靄の中に隠れていた。その写真は遠くの、遥か昔の、古き良き時代のことを囁きかけてきた。そんな完璧な場所だったのだろうか? 新聞を手でなでてみたものの、丘に触ることはできなかった。そこを自分のものと呼べるだろうか? 今、自分はここにいるのだから。カンパラ(インパラの住む丘)、7つの丘の街。かつてそうだったかもしれないが、今は違う。何事も変わらずそのままということはない。自分をガンダ人だとよく言っていたナマニャの父親だが、この丘まで自分のものとは言えなかった。「コロロ」という名前はキガンダの言葉でさえなく、アチョリの言葉だった。とすると、いったい誰の丘だったのだろう。
*7つの丘:メンゴ、ルバガ、ナミレムベ、マケレレ、コロロ、ナカセロ、古カンパラ丘陵。
*アチョリ:南スーダンや北部ウガンダに居住するナイル人。
さらに丘を登っていくにつれ、ナマニャは運転手をもっと強くつかまねばならなくなり、ピンと張った背中に痛みがやってきた。体ぜんたいが、丘の下の馴染みある喧騒に引き戻されたいとでもいうように、ずり下がった。やっと到着してボーダを降りたときは心からホッとした。「ディーヴァ女性専用ジム&スパ」と書かれた赤い文字が輝いていた。警備員のソロがかんぬき穴からのぞいて、しかめっ面を緩ませた。金属のゲートが開かれると、きれいに刈られた芝が広がり、堂々とした木々がそびえ、美しい茂みと揺れる花々が目に入った。そのどれもが自分の役割を熟知しているかのように、低層のレンガ色に塗られた植民地時代のバンガローを取り囲んでいた。その隣の大きなキャンバス地の屋根の下では、15人くらいの大小様々なサイズの女性たちが、アフロビートの大音響に合わせて、跳んだり跳ねたり腕を振ったりしていた。テニスボールのような筋肉質の背の低い男が、黄色いタンクトップとショーツを汗で張りつかせ、女性たちの間を歩きまわり、大声をかけていた。そこから離れたところには、青く輝くプールがあった。
ナマニャは建物の前のベランダに腰をおろし、ビニール袋を開け、持ってきた服を並べていった。「安全上の問題のため」、ナマニャが中に入ることは許されていなかった。ジムの女性メンバーの何人かが、オーナーに中に入れるよう掛け合ったが、1月に1度という許しが出ただけ。ナマニャの古着は、店で買う新品より質が高かった。ここの多くの人はもちろん、年に一度は海外で買い物をしていたが、それを補うバーゲンは悪くなかった。
ナマニャは次なる行動の準備をする。エアロビクスが終わると、女性たちは額に汗を流しエネルギーを振りまきながら、香水と汗、ヘアオイルや湿ったウェアの臭いでナマニャを取り囲んだ。どの女性もナマニャをまともに見てはいなかった、あるいは見ようとしすぎた。そしてナマニャは自分が女性たちが望んでいる女を演じていると感じた。貧乏で、無学で、憧れが強く、ぼんやりだが狡猾でもあるといった。ナマニャは女性たちが服を試そうとするとき、ほめ言葉を自分が発しているのを耳にした。「これはあなたのための服ですよ、あなただけのね! 本当に! なんでそんなにほっそりしてるのかしら。ちゃんと食べてます? 教えてくださいよ」
「あたなもエクササイズに参加したらどう?」
「あら、あたしはダメ、おくさん。あたしの体重が減ったら、夫がなんて言うか。彼はこれが好きなの」 ナマニャはそう言うと、左右の尻を振り、パンパンと叩いてみんなを笑わせた。
こんな風に振るまうのにどれだけの負担がかかる? 得た利益より多いのか少ないのか。自分を無視する人は、正直な人、ナマニャはそう感じていた。背の高いコーヒー色の肌の、金の時計に金の指輪、金のブレスレットをつけた無口な女性。その女性はナマニャに挨拶の言葉すらかけなかった。口をギュッと閉じ、ボロ布であるかのように服に手をかけ、気に入らないものを脇によけた。彼女の気に入るものはめったになかった。しかし気にいると、品物をパッと手にとってナマニャに突き出し、それはストラップが何本もついているレースの縁取りの紫のトップスだったが、ぶっきらぼうに「いくら?」と訊いた。目をウェアにとめたまま、値切りもせず、お金を差し出し、といった風だった。ナマニャもありがとう、と返さなかった。ナマニャは存在せず、紫のトップスがあるだけ。別にかまわない、それでよかった。ときには。まあ、いずれ天国で会うことになるのだろうから。
無口な女性は、ナマニャの妹だったのかもしれない。ナマニャと同じ小さくて尖った鼻をもっていたし、傘のように広がる腰にゾウのような太ももだった。レギンズは、彼女のサイズでは無理、合うものがない。彼女のコーヒー色の肌は、ナマニャの木炭色の肌と調和した。彼女のガンダ語は、ラジオ広告で嘲笑される強いくせのあるアクセントで、ナマニャの父親に似ていた。ツチの人ではないと言い逃れる方法はなかった。しかし彼女は他の場所のことなど振り返る必要などなかったはず。ここでうまくやっているのだから。
ナマニャがやるべきことは笑顔を、お世辞をつづけ、そして売ることだ。ここではナマニャは客の女たちに、おもちゃを選ぶ子どもにするように商品を手にとらせ、そしてすぐに彼らが興味を失って、ジムの方に向かったり、怪物のようなピカピカ光る車に乗り込んでいくのを見まもる。アクセサリーをジャラジャラぶらさげ、車のキーを、ハンドバッグを、ジムのバッグをぶらさげ、パソコンケース、ペットボトルを、人毛のヘアウィッグをぶらさげている。選択の自由、快適さ、安全性、あらゆるものを彼らはぶらさげていた。彼らの生息地、我が家だから。
ナマニャは散らばった服をかき集め、袋に詰め、ソロにチップをやって出ていった。中国製ビニール袋は軽くなっていた。ここから運よくボーダが見つかるところまで、丘を降りていく。嫌ではなかった、夕方の空気は涼しく、道は舗装されゆったりとしていて、財布は満杯、歩くのは楽しかった。歩くことで体の緊張がとけて、背中の固いところも緩んでくれそうだ。サンダルを地面に打ちつけるリズムが、ナマニャの心を再びさまよわせた。いったいどれだけの数の丘を、自分たちの女は歩いたことか。なぜ自分はその丘まで歩いて戻らなかったのか。
空が夕暮れに染まるころ、マナニャは丘を下ってくるバイクの唸る音を聞いた。ナマニャは立ちどまったが、運転手の顔をよくは見なかった。どの男もみな同じだった。それにこの手の男たちと知り合いにならない方がいいのだ。彼らはちょっとした隙をみて、近づこうとするからだ。
「ワンデゲヤまでいくら?」
「3000だ」
ナマニャはバイクに乗り込んだ。下りはスピードが増し、荒い運転になった。バイクが次の角を曲がろうとしたとき、ゴツンと大きな音がした。ガタガタッとバイクが道から外れ、ナマニャはシートから放り出され激しく地面に打ちつけられた。暴走してきたスモークガラスの黒い車が、キーキーと悲鳴をあげて止まった。窓が下げられ、中に乗っていた女が二人を罵倒した。ボーダの男は怒鳴り返し、窓に近づきながら腕を振りまわした。車の女はすばやく窓を閉め急発進させると、ブルンブルンとスピードをあげて丘を駆け上がっていった。それが遠ざかったとき、道に取り残されたナマニャは、濡れたマットレスのように力なく横たわり、へたり込んでいた。
「ニャボ、怪我は?」
ボーダの男のスニーカーが、ナマニャの顔のすぐ傍にあった。履き古し、茶色に変色した白と青のスニーカー。遠くに飛ばされて草の上に落ちた中国製ビニール袋とハンドバッグを、男が拾いにいった。ナマニャはいつそれを手放したのか。
「あの女の運転はきちがいじみてる。あいつを見たかい? ニャボ、起こしてやろう。ほら、俺の手をつかんで、ほらほら」
ナマニャは体を起こしてすわり、男の手を払った。「大丈夫」
暗闇の中で、男の顔は影になっていた。男は手にナマニャのハンドバッグを持っていた。
「あたしのものを返して。あっちにいって、あたしは大丈夫だから」
「だけど、ニャボ、あんた、ここにすわってるつもりかい?」
「あたしのバッグを返してって言ってるの。耳が聞こえないの?」
男はナマニャをじっと見下ろし、バッグをボトリと落とし、首を振って倒れたバイクのところに行った。バイクを起こすとブツブツ言いながら点検した。「きょうびの女たちときたら。みんな頭がおかしい。まず、あいつがこっちを車で轢き殺そうした。次にこいつだ。助けてやろうとしたのに、拒否だ。助けなければ、罵倒される。どうしたらいいんだ、こっちは。ん?」
男はバイクにまたがると、地面に屈み込んでいるナマニャを一度振り返り、ブーッと音を放って走り去った。
あたしはあの男と同じ生まれなのか、そうナマニャは思った。広がる闇と同様、あたりもシンと静まり返っていた。腕やスカートについた石を払った。腕と足を少し擦りむいたが、血は出ておらず、ちくちくするだけだった。ナマニャはハンドバッグを取り上げ、四つんばいで道の脇まで這っていき、草の上に腰を下ろした。心を整える必要があった。すわって体を落ち着かせるのだ。落下の衝撃は背中の痛みを忘れさせたように思えた。今のところは。なんという速さで大地は彼女を引き寄せたことか。なんという力強さだったことか。大地は寛大で、惜しみなく与える彼女の体を求めていた。ナマニャは大地のものだった。今、大地は彼女を静かにすわらせていた。
草地は冷たく、柔らかで、静かだった。空も静かだった、広々としてじっと上から見ていた。ときどき、頭上の木々の葉がシューシューとなだめるように音をたてた。ナマニャはボーダの運転手が自分のバッグを手にしていたことを思い出した。それに手を伸ばした。ジッパーが開いていた。ゴムバンドでとめた分厚い札束のあった場所が、空っぽだった。頭にきて、バッグを放り投げた。もちろんすぐにそれは地面に落下した。地面は何であれ落ちてきたものをとらえる。どこに落ちようとも。ナマニャがこの丘に投げ捨てられたのと同様に。
雲が空をゆっくりと、何事もなく横切っていった。オウィノで大地はじっとしていることなく動いた。動かないはずの大地が、なぜこうも容易く消える去ることができるのか。そこは過去のもの、もう消え去った。オウィノは人々の記憶の中にだけあった。ナマニャは目を閉じ、今回は意図して母親と叔母たちを思い浮かべた。さらにたくさんの女たちがゆっくりとそこに加わった、大きく口を開けた新たな墓の中にすわっていた。驚くこともなく、あのジムの無口な女、彼女に似た人が、そこにいた。レスティトゥタもいる? 他の人たちも。全員がきちんと従順に足を折りたたみ、ナマニャをじっと見ていた。自分の家族に、男たちに従って歩き、歩く、飼っている牛のようにゆらゆらと、永遠に草地を求めるようにして。おかしなことだ、みんな最終的には街にたどりついた。
空気が冷たくなっていた。犬が吠えていた。ナマニャは思い出した。ここの人たちは夜、屋敷内に犬を放すのだ。一台の車がブーンと通り過ぎていった。運転手がナマニャを見下ろし、また目を道路に向けた。ナマニャはどこかの家のメイドのようだった。意味のない存在。キリキリと背中に痛みが走った。痛みはナマニャの体に落ち着き場所を得たいのだ。そこはロウソクの灯りがともる暗い部屋、家だ。
なぜ、この広々として冷たく、静かな緑の丘が、家にならないのか。家とはナマニャの頭の中にある、ずっと昔の、どこか遠くにある千の丘のことでしかないのか。家とは、女たちでいっぱいの大きな穴だった。口をあけた子宮だった。
家とは、ナマニャの母親の子宮だった、その母も自分の母親の子宮にいた、次から次へと、内から内へと、無限につづく。いや違う、家とはバガンダでありその新たな一族のことだ、そう父親は言った。ここ、今。定住する場所。
ちがう、ナマニャの息子は言った。家とは、自分が立ち去った場所のことだと。トラックに乗ってモンバサに行き、戻り、ケニヤを横断し、ウガンダを横断し、コンゴを横断して戻る、そこが家。何度も戻る。家とはナイトクラブであり、女たちの股の間の穴だった。
いや、ちがう、とナマニャ。家とは、食料を与える場所。オウィノ市場だ。あるいは家は金の指輪であり、金のブレスレットであり、金のイヤリングであり、巨大な車かもしれなかった。
いや、ちがう。家とは自分が一度も手にしたことのないもの。振り返ることだ。家とは、ナマニャを呼びつづける、年老いた叔母たちだった。家とは、家族でゆっくりと埋まっていく大きな墓場のことだった。
ちがう。家とは空だ、すべてを覆う空だった。
そうではない。家とは、ナマニャをどこへでも運んでいく、この大きな体のことだった。前も後ろも膨らんだ、彼女の体だった。乳房、腹、尻のことだった。ナマニャは足をまっすぐに伸ばし、足首をまわし緩めた。腕を伸ばし手のひらを広げ、それを眺めた。そして裏返して、土で汚れた爪をじっと見た。ナマニャはお腹が空いていた。家はいつも腹を空かせていた。手のひらを地面につけて、ナマニャは起き上がった。荷物を引き寄せたものの、サンダルは履かないことにした。足の下の草が冷たかった。
だいこくかずえ訳
The Georgia Review / Fall 2022
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