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[エストニアの小説] #2 川を下る若者たち (全10回・火金更新) 

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 筏乗りの若者たちは遠い村や町からやって来て、川を渡って海に向かう。ブラックリバーが鋭角に曲がっているところ、ハバハンネスの農場で彼らは筏をとめ、土手で焚き火をし、人が出て来るのを待つ。ロキの小屋にやって来ることはない。彼らはハバハンネスの農場に行って、パンとミルクを買い、冗談を言い合ったりする。夜になると、筏乗りたちのハーモニカが聞こえてくる。そして踊りだし、ワイワイ大声で騒ぐ。しかしそこにいる女の子はといえば、マルー・ハバハンネス一人だけ。

 「ここには他に女の子はいないのかい?」 赤く火照った顔の汗をふきながら、若者たちが訊く。
 「いない」とマルーは答え、父親のハバハンネスも「いない、いない、そういうことだ」と返す。
 「だけどあそこにある小屋は、空っぽなのかい?」 若者たちは疑わしげに訊く。
 「あそこに住むのはクマくらいよ」とマルーは声をあげて笑い、父親のハバハンネスも「クマだけだ、そういうことだ」

 筏乗りたちを見ると、クディシーム爺は不安と疑いの入り混じった気持ちになる。クディシームはロキのあとをうろうろとついてまわる。
 「筏乗りのところに行くんじゃないぞ」 クディシームは警告を発する。「あいつらは悪いやつだ、おまえに何もいいことはしない。おまえを筏に乗せて連れ去る。ちょっとからかって、マッチの燃えカスみたいに捨てる。そうしたら、おまえはどこへ行く? 誰が罪深いおまえに目を向ける?」

 ロキは父親の説教を聞いて、筏乗りのところには行かない。それはロキの父親は年老いて弱っているからだ。そして春が来るたびに、枯れた切り株のようにさらに縮んでいく。ロキは筏乗りのところには行かなかったけれど、彼らの笑顔にじっと目を据え、一つ一つの動きを貪るように見つめた。あー、ロキはいつか、あの筏に乗ってみたい。よその世界を、人々を見て、その人たちのようになりたい! これまでロキは誰とも会わず、話をしたこともなかった。鳥たちと野生動物だけが仲間だった。頭の中では遠くまで旅をしたり、未知の道をたどることはあっても、ロキは木が根っこを据えるように、この森に固定されていた。

 やがて筏乗りたちは筏を川に戻し、土手の焚き火を消して、歌いながら出ていく。マルー・ハバハンネスは取り残され、姿が見えるかぎり、声が聞こえているかぎり、去っていく若者たちを悲しげな目で見送る。木の陰に隠れていたロキは、苔の上にしゃがみこみ、シクシクと長いこと泣きつづける。なぜ泣いているのか、自分にもわからない。

 「筏乗りはまたすぐやってくるさ!」 ロキは思いついたように言う。「春になってムクドリが来れば、あの人たちもよそに行きはしない」 
 シルベル・クディシームは寝返りをうったが、答えない。そしてロキにはその答えを待つ時間がない。あれこれやることが、終えなければならないことがたくさんあった。毎時間、何か新しいものがやってきた。ブラックリバーはどんどん水位をあげ、大地は雪を振り払い、氷はヒヨコが殻から出てくるように自由の身になった。ユキノハナが川の土手で咲きはじめると、ロキは窓も、テーブルも、そしてベンチも花で埋めつくし、クディシームはすわる場所がなかった。ヒューヒュー、ホーホーと渡り鳥が一羽、また一羽と戻ってくる。ハチクマ、赤爪のチョウゲンボウ、チゴハヤブサ、コミミズク、ブッポウソウ。ロキは、トビが小屋の上を飛び回っているのさえ目にした。森は鳥たちの互いを呼び合う熱い鳴き声で溢れた。その年初めての蝶が窓辺にやって来て、パタパタと羽をガラスに打ちつづける。夜は暖かで、心地よい風が吹き、湿地は冬の眠りから目を覚まし、蒸気をあげ、喉を鳴らす。森も牧草地も畑も、静かに流れる水で溢れる。草が芽をふき、木々は葉でおおわれる。

 ロキは耳を澄ます。が、川からの歌声はまだ聞こえてこない。筏乗りの若者たちは、今年は来るのが遅い、とロキは思う。マルーは身支度を整え、まだかまだかと川の土手を行ったり来たり。ときに小舟を出して、筏を探しに川をのぼっていく。しかし夕方には、一人で戻ってくる。どこか遠く、ずっと遠くで、斧を振るう音が聞こえ、ドサリと大きな音がする。

 日が過ぎ去り、1週間がたち、やっと筏乗りたちの声が川の方から聞こえてくる。ところが最初の筏は通り過ぎ、止まらずに去った。その筏には、あごひげを伸ばし、帽子を深くかぶり、パイプをくわえたた年配の男たちが乗っていた。女たちも筏の上でしゃがみ、川の曲がったところでは男たちが筏を操る手助けをしている。午後になって、次のグループが来たが、やはり行き過ぎてしまった。

 ハバハンネスは土手に立って、声をかける。「がんばれよ!」
 「ああ、がんばるよ」と筏乗りたちは応える。
 「今年はここで降りないのかい?」 ハバハンネスが訊く。
 「どうかな」 そう筏乗りは応えると、素早く通り過ぎていく。
 「時間はないのかい? そんなに急いでいるのか?」 ハバハンネスは追いかけるように声をかける。しかし筏乗りは流れに乗って行き過ぎてしまい、もう声は届かない。

 「無礼じゃない?」とマルーはがっかりして言う。
 「無礼だな、そうだ。そういうことだ」 ハバハンネスはボソボソと言い、悪態をつきながら家に向かう。マルーは怒りを目に溜め、気落ちしてその後につづく。

'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku

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