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ロシアと日本をつなぐもの、文学とか

日本とロシア、地理的にヨーロッパやアメリカよりずっと近いわけですけど(日本にとって)、文学においてもそれが反映されていたのでしょうか、両国がとても近い関係にあったことを最近発見しました。
*上の画像は「大江健三郎の本から、10の引用を」と題したロシアの出版社Ekcmoの記事(2017.1.31)から

きっかけは以前にnoteに書いた重訳についての論考にありました。

最近ベトナムの研究者の論文を読む機会があり、重訳に対して新たな視点を得ました。神戸大学大学院博士課程のグェン・タン・タムさんの「異文化対照法としての重訳」という論文です。グェン・タン・タムさんによると、1990年代以前のベトナムにおける日本文学の翻訳は、英語やロシア語などを介したものが9割だったそう。つまり日本文学がベトナムに伝わるために、重訳が一定の役割を果たしていたということです。

重訳?? プアな行為ではなかった!」より

これを読んだとき、英語はわかるとして、なんでロシア語を介して日本文学が紹介されたのだろうか、と思いました。でも考えてみれば、ベトナム戦争後、この国は社会主義の国になっているわけで、人々がロシア語を学んでソビエトから情報を得たり、文学に触れたりすることは不思議ではなかったと考えられます。日本語ができる人はいなかったけれど、ロシア語ならいたということでしょう。

しかしベトナムの人がロシア語ができたとして、当のロシアに日本文学が流通していないことには、ロシア語から翻訳をすることはできません。それで調べてみました。ロシア語にどれくらい日本文学が訳されていたのか、そしてそれはどのような人によってなされたのか。

アレクサンドル・ドーリンさんという東洋学の研究者の興味深い発表の記録が、検索で見つかりました。「ソビエットの日本文学翻訳事情:古典から近代まで」というタイトルで、1991年2月に行なわれた国際日本文化研究センターのフォーラムでの発表です。その記録であるPDFには、そこの所長である梅原猛氏の言葉が、前置きとしてありました。

PDFで十数ページほどのそれほど長いものではありませんでしたが、内容は驚くべきものでした。ロシアあるいはソビエトという国の人々が、いかに日本文学やその背景にある文化に親しみの感情をもち、尊敬の念を抱き、多くの作品を翻訳し出版してきたかということです。

『万葉集』『平家物語』などの古典文学から、松尾芭蕉をはじめとする俳句や短歌、徳冨蘆花、夏目漱石、谷崎潤一郎、有島武郎など近代に入ってからの小説、安部公房、大江健三郎といった現代作家の小説、北原白秋や萩原朔太郎などの近代の詩歌、エンターテイメント文学では松本清張や森村誠一など数限りない作品が、ロシアの日本文学研究者や翻訳者によってロシア語に訳されてきたようです。

もしかしたらロシア語訳の方が、英訳されたものより多いのでは(*これについては記事末尾に詳細)、と思わされるくらいの充実ぶり、層の厚さ、熱の入れようなのです。また、ただ翻訳出版されて世に出たというだけでなく、ロシアの人々が日本文学を古典から現代文学に至るまで、本を手に入れ読むことを熱望したことで、ときに30万部という大部数の本が市場に出て、それがあっという間に売れ切れるといった現象もあったようです(これはドーリンさんの訳した古典俳句の本の例です)。

翻訳においては、通常、起点テキスト(source text)が訳者にとって外国語で、目標テキスト(target text)が母語という例が多いと思います。ほとんどがこのケースと思われます。従って、ロシア語への日本文学の訳者は、日本語を学んだロシア人と考えていいと思います。

ではどのような人が日本語および日本文学を学んで、ロシア語に翻訳するということをしていたのでしょう。アレクサンドル・ドーリンさんの発言を見てみます。

たとえばネブスキイ(N.Nevsky)博士について。日本語の他に中国語、朝鮮語、チベット語などもできる優れた言語学者だったそうで、日本に10年以上住み、日本の大学で教えたこともあるとか。その後、国に帰り大学の日本語科で教鞭をとったそうです。これはロシア革命(1917年)以前の話。ネブスキイ博士が日本文学で翻訳したものとしてドーリンさんが特筆しているのは、アイヌや宮古島の民謡です。ネブスキイ博士はスターリンの時代になってから逮捕され、シベリアで亡くなったそうです。日本学を教えていた学者や学生が、スターリン時代に逮捕されシベリア送りになった例は、他にもたくさんあったとドーリンさんは言っています。つまり当時、日本文学を翻訳することは厳しい制約状態にあったということのようです。思想的な問題で日本の古典文学は排除された、と言われても、どこかピンときませんが。

スターリン時代は日本のプロレタリア文学ばかりが翻訳されていたそうです。小林多喜二、宮本百合子といった作家の作品です。しかし読者の方は古典文学への関心が強く、革命前に訳されていた日本の詩歌集、おとぎ話集などを大切に保管していたといいます。

第二次大戦後になってやっと、日本古典詩歌のアンソロジーが出版されています。たとえばマルコワさんという翻訳者による、『万葉集』から20世紀初めまでの詩歌が少しずつ収められた本があります。読者の反応は著しく、新聞や雑誌に批評がたくさん載ったといいます。1971年には、グルスキナさんという翻訳者の『万葉集』全編が出版されました。グルスキナさんの翻訳は1950年代初めに完成していたので、初めての西洋語訳になった可能性があったのですが、当時のソビエト社会の諸事情で出版が叶わなず、後発の書となりました。

1970年代には、日本古典文学の研究や翻訳がますます盛んになったそうで、『大和物語』や『源氏物語』などが全訳されています。ただ当時、すぐに出版とはならなかったものもあったようです。

さてでは反対にロシア文学の日本語への翻訳はどのような状況だったのか。これも検索によって、非常に面白く有益な論文を見つけました。エレナ・バイビコフさん(1977年、サンクトペテルブルク生まれ、神戸外国語大学准教授)による「日本におけるロシア文学の翻訳」という論文です。

日本語に翻訳されたロシア文学の最初の本は、プーシキンの『大尉の娘』で日本語タイトルは『魯国奇聞 花心蝶思録』だったそう。これが1883年のことで、その数年後の1889年に、最初の近代日本文学作品とみなされている二葉亭四迷の『浮雲』が出版されます。二葉亭四迷は1873年に設立された東京外国語学校(ロシア語学科)の出身で、ロシア文学からインスピレーションを得て自作を書いたそうです。

日本の近代文学が翻訳文学から生まれた(様式や文章において)ということは、よく聞く話ですが、なんとなく英語とかドイツ語の翻訳書からの影響と思っていました。二葉亭四迷がロシア語の人とは知りませんでした。

もう一人、この時代(1886年)に、森體という人がトルストイの『戦争と平和』を翻訳しています(一部のみ)。この人はロシア正教会の亜使徒聖ニコライによって創設されたロシア語学校の出身だったそうです。

明治中期から大正時代にかけて、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、ゴーリキーなど数多くの作品が日本語に翻訳されたとバイビコフさんは書いています。日露戦争前後はロシアへの反感が高まったにもかかわらず、ロシア文学や思想、演劇への関心は高まっていったそうです。ただ1930年代中頃から第二次世界大戦にかけての時期は、日本政府の思想統制が強まり、翻訳点数は激減したとのこと。また1960年以降になると、アメリカからの文化的影響が強まったせいで、ロシア文学への関心は衰えていったとしています。

そして現在はどうか。わたしの感じ方でいうと、ドストエフスキーなど特定の作家を除けば、日本におけるロシア文学やロシアの文化への関心はかなり低いのでは、と。領土問題もあって、中国や韓国同様、ロシアへの反感や敵視はそれなりにあるのかなと。(現在の紛争を別にしても)

ちょっと話がずれますが、韓国については、BTSやブラックピンク、小説『82年生まれ、キム・ジヨン』、映画『パラサイト』などの人気もあって、またJリーグにたくさんの韓国人選手が入ってきていることなど、文化面の交流によって対立がずいぶん和らげられているように感じます。こういう動き、現象は歓迎すべきもの。政治的な対立がそのままスポーツや文化交流、個々の人間レベルで表れてしまうのは、悲しいことです。

特に芸術においては、普遍的な人間への深い考察が底辺にあると思うので、そのときの政治的思惑や社会システムなどに簡単に絡めとられてほしくないな、と。

話を少し戻すと、「日本におけるロシア文学の翻訳」のエレナ・バイビコフさんは、三島由紀夫、村上龍、村上春樹、吉本ばなな、新美南吉などの翻訳をこれまでしてきた人で、この論文の冒頭で非常に面白い発言をしています。

西欧列強による植民地支配を免れつつも、脱亜入欧の近代主義イデオロギーのもと貪欲に欧米社会の文化や制度を学び、これを導入しようと努めてきた日本社会はまれにみる単一言語社会を形成し、そのために多くの書物が日本語に翻訳されてきた。単一言語社会は,言語教育の失敗の結果ともいえるが,それゆえに翻訳文化が栄えてきたとも解釈できる。

エレナ・バイビコフ「日本におけるロシア文学の翻訳

日本は「単一言語社会」だったんですね! そしてそれは言語教育の失敗の結果。う〜ん。そうなのか。。。つまり多文化的な側面のない、標準的日本語1本やりの社会、ということでしょうか。でもそれがために翻訳文化が栄えてきた、と言われれば、なるほどと思います。あまり他で聞いたことのない、鋭い指摘です。

最初にアレクサンドル・ドーリンさんの「ロシアにおける日本文学の翻訳事情」を、そして次にエレナ・バイビコフさんの「日本におけるロシア文学の翻訳事情」を見てきました。このどちらもが、両国の文学的交流の深さを、歴史の長さを強く感じさせるものでした。

ここでロシア語文学に関する、葉っぱの坑夫スタート当時(2000年)のプロジェクトの一つを紹介したいと思います。アレクセイ・アンドレイエフによる『ロシア語ハイク日記 MOYAYAMA ぼくのほらあな』です。この作品のオリジナルは、シカゴのスモール・ガーリック・プレスという出版社から出たもので、原文は著者自身がロシア語から訳した英語によるものです。日本語版では、その俳句を英語と日本語で載せるだけでなく、翻訳の際に著者のアレクセイとやり取りしたメールの文章も含めています。

今回、この記事を書くにあたって読み返してみたところ、いくつか面白い点があったので、一つ紹介したいと思います。この本がシカゴで出た1990年代後半、アレクセイは23歳、コンピューターサイエンスを学ぶ留学生でした。
たとえば年末年始に飾るツリーについて、こんなメールをもらいました。

捨てられて
金のマフラー振りながら
さよなら言いあうツリーたち

thrown away New Year's trees
wave to each other
with scarves of tinsel

アレクセイからのメール:10 Feb 2000
ツリーというのは、ニューイヤーズツリーのこと。ロシアでは12月31日から1月1日にかけてが祝日で、このときツリーを飾る。現代のロシアではクリスマスより正月の方が大切にされている。トウヒとかモミの木を正月には用意するわけだけど、お祝いが終われば用済みだからみんなゴミ箱いき。それとロシアのクリスマスは1月7日、つまり旧暦でやるんだ。正月のあと、にね。

「日本にも門松といって松と竹をアレンジしたものをお正月に飾るけど」という説明に:

アレクセイからのメール:11 Feb 2000
思うんだけど、ニューイヤーの祝い方に関して、ロシアと日本は似ているかもしれない。キリスト教が入ってくる前、ロシアには土着の宗教があった。樹木や石、太陽、月といったものを信仰する。仏教が中国から入る前の、日本の神道に近いんじゃないかな。ロシアでも日本でもニューイヤーズツリーは、古い土着宗教からきている。クリスマスツリーというのは、クリスチャンたちが自分たちの新宗教に、元からあった土着のシンボリズムを取り入れた結果だと思う。だってキリスト教にはもともと「ホーリーツリー」の逸話はないもの。昔の宗教儀式からの再利用だよ。

ロシアと日本が土着宗教において似ている、っていうことが、ぼくがこんなにも俳句に惹かれる理由じゃないだろうかって。ふつう俳句の精神は「日本的なるもの」と思われているようだけど、でも、ほんとうは、ぼくたちロシア人にもよく似たものの見方や感覚があるんだ。それはぼくらの土着宗教からきているのだと思う。こういうことって、忘れられているでしょ。

ロシア語ハイク日記 MOYAYAMA ぼくのほらあな』より

いかがでしょう。土着宗教において似ているところがある? こんな話はこのとき初めて聞いて、とても面白いと思いました。
このエピソードは載っていませんが、俳句はサイトでも全編読むことができます。

以上、ロシアと日本の文学を通じた関係性を見ていきました。歴史を遡ると互いに影響しあい、それを糧に自分の文化を成長させていった豊かな事例が見えてきます。

現在ヨーロッパで起きている国と国の激しい敵視をわたしたちはどうすることもできません。でも、それを見守るしかない、直接関与のない国の人間は、分裂の感情や敵視の気分に過剰に流されないよう、せめて気をつけていたいという風に感じています。

*本文中の「もしかしたらロシア語訳の方が、英訳されたものより多いのでは」について:
歴史的に見て、日本文学がどのように翻訳されてきたか、国際交流基金による「日本文学翻訳作品データベース」で調べてみました。期間は1900年〜 2000年で、ロシア語と英語のみをとりあえず見ました。

徳冨蘆花の小説では、ロシア語は『黒潮』が1957年、『自然と人生』が1958年にソビエトで出版。英語は『思い出の記』が1970年にロンドンで出版。夏目漱石の『こころ』はロシア語では1973年、英語では1950年が最初(ただしこれは日本の研究社の出版)。海外では1957年にシカゴの出版社から出ています。その前年にロシア語で『坊っちゃん』が出版。ロシア語の『こころ』は1973年に『三四郎』『それから』『明暗』『門』とともにソビエトで出版されています。『吾輩は猫である』は1960年でした。(ロシア語版はほぼソビエトでの出版。英語版に関しては、全期間にわたってタトル、朝日新聞社など日本の版元からのものも多いようです)

古典文学はどうでしょう。英語版の『万葉集』は1949年に細川書店から、1960年にタトルから出ています。いずれも日本の版元です。ロシア語版『万葉集』はこのデータベースでは1987年にグルスキナさんによる訳が出たとなっています。しかし前述のアレクサンドル・ドーリンさんの発表では、1971年に出版となっていました。15年のずれがあります。ということは、国際交流基金のデータベースは参考にはなるものの、すべての出版を網羅できてはいないと判断した方が良さそうです。

日本文学の英語への翻訳というと、ドナルド・キーンさんが日本ではよく知られています。キーンさんは大学時代(1940年)に、アーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』をたまたま手に取り、日本文学の世界に魅せられたといいます(Wikipedia 日本語版)。そこから日本語の勉強を始めるのですが、ある時点で、それまで学んできたフランス文学の道に進むか、中国と日本の研究を続けるかで迷ったそうです。そのときフランス出身の友人から「フランス語のできるアメリカ人は山ほどいるが、日本語のできるアメリカ人は皆無に近い」と説得され、日本研究の道に進んだとのことです。

ということは、キーンさんあたりがアメリカにおける日本研究の草分けとなるのでしょうか。学生だった第二次世界大戦中に、日本語の勉強に打ち込んだキーンさん。ロシア革命以前にすでに何人もの日本研究者や翻訳者がいたロシア、という風に見ていくと、文学的な交流の歴史はロシアの方が長いようです。当時のことを想像すれば、地理的な近さがやはり大きかったのでしょう。

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