#blackouttuesdayの#000000が表すものとは

6月2日火曜日、instagramを見ていて、突如タイムラインに不具合が出た。

と、思った。

スクロールできるが、明らかに真っ黒な画面が何回も出てくる。これは何だ。読み込み直しても、黒は黒のまま。そしてようやく気がついた。これが「黒い画像」なのだと。

気づいてからはすぐに、例の事件のことが頭をよぎった。そしてこれがその事件に対する、黒人差別に対する、ひいては人種差別に対する抗議のメッセージなのだということも理解できた。もう一度画面をスクロールする。有名人も、友人も、みんなこの画面をアップしている。#blackouttuesday、あるいは#blacklivesmatterというハッシュタグとともに。

私には、アフリカ系アメリカ人の友達がいない。(そもそも、ほとんどが日本人の友達だ)

アフリカ系アメリカ人や黒人が多く住んでいる国や街に行ったこともない。

自分との関わりを無理やり考えるならば、アフリカ系アメリカ人ではなくもはやアフリカになってしまうが、最近読んだばかりのユニティ・ダウ著『隠された悲鳴』(英治出版)が一番近いアフリカ体験だ。話がだいぶ逸れてしまうので、本の感想については追い追い書くことにする。ただし、それを読むことには自分の中ではっきりとした理由があった。

2017年の『WIRED vol.28 ワイアード、アフリカにいく』巻頭で、若林恵が引いていたこの言葉がずっと引っかかっていた。

「コンピューターにはアフリカが足りない」(ブライアン・イーノ)

その2年後、仕事でアフリカ現地での医療に取り組む杉下智彦医師に出会い、呪い(呪術)を実在のものとして考える文化や、欧米文化(書くまでもないが、日本も実質的には自国の文化はほとんど残っておらず、この欧米文化を受容するなかでいま再びその違和感に出会っている頃だ)にはない自由さ、厳しさ、率直さ、フィジカルな精神的感覚、そして強さについて知る機会をもつことができたからだ。アフリカという(あえてこう書こう、)ATITUDEに見出せる可能性。それは見も知らぬ異郷の地への畏怖ではなかった。人類はアフリカから出発したのだ、私たちは誰もがそのあり方に、たとえ初めて知った慣習さえ、どこか懐かしく感じずにはいられない。

人類の恥

2018年にノーベル平和賞を受賞したデニ・ムクウェゲ医師は、来日講演の際に、レイプや戦時性暴力について、日本人記者に対してこう指摘した。

「レイプは人類の恥であり、女性だけの危機ではない」

コンゴだから日本には関係ない、アフリカは遅れているからレイプが絶えない、女性は無防備だから、女性が扇情的な容姿をしているからこんな事件が後を絶たないのだろうか?ーーそんな理由で、私たち日本人は、自らがその関係者ではないと、一部の人間のどうしようもない愚行だと決めつけ、片付けてしまおうとしてはいないか。しかし、それを人類の恥であると考えるならば、それは私たち全員がそれに関する関係者であることを示す。そして、そういった問題はじつにたくさんあって、黒人差別の問題、人種差別の問題、そして、人種差別にとどまらない差別全般の問題はまさしく「無関係者が一人もいない」人類の問題であるといえるだろう。

#blacklivesmatter (あるいは#blackouttuesday)のハッシュタグを使うことは、黒人差別への否定的な視線を送りつつも、結局のところ、「私は差別はいけないと思っている」という意思表明にしかなりえておらず、さらに厳しい言い方をするならば、「ポストした」ということがある種の免罪符となってそれ以上の思考を止めてしまうことにさえなりかねない。そう思った理由は大きく分けて2つある。

#blacklivesmatter (あるいは#blackouttuesday)のタグのみを使うことについて

多くの#blackouttuesdayの投稿の中で、もっとも違和感を感じたのは、「真っ黒の画像」に「ハッシュタグ」のみの投稿だ。「真っ黒の画像」に対する違和感は2つ目の違和感として後述するが、「ハッシュタグ」のみを投稿する行為からは本人がそれに対して何を感じ取っているのか、どのような関係者であるかがまったく見えてこない。その意味では、「ハッシュタグ」+「自己弁護」つまり「投稿することに意味がある」系のコメントをつけている人も、なぜ投稿することに意味があるのかは残念ながら見えてこない。

ちなみに上で引いているのはエマ・ワトソンのポストであるが、彼女はまず真っ白なポストを3枚投稿してからこの真っ黒なポストを3枚投稿している。そしてその後、メッセージやストーリーズでの引用など、様々な言葉を使ってこの問題についての自分の考えをフォロワーに伝えている。

真っ黒な画像を使うことについて

ビリー・アイリッシュはこの事件に関してかなり早い段階で意思表明をした有名人の一人だが、彼女は黒一色の画像は使わなかった。彼女が黒一色にしなかった明確な理由は本人に聞いてみない限りわからないが、黒一色を選ばなかったことそのものが、何らかの恣意性があってそうしている、ということを十分に示している。

blacklivemattersの黒。

blackouttuesdayの黒。

どちらでもある。blackoutの黒であれば、真っ黒であることは妥当性が高いとも言える。ただしこれは電力問題についての抗議ではないのだ。これは人種差別への抗議なのだから、そこは自ずから、もう少し慎重に考えざるを得ないといえる。

唐突だが、肌が、というか皮膚が、全身の中でもっとも重要な器官の一つであることをご存知だろうか。

皮膚はもっとも大きな器官の一つで、面積は1.6~1.8㎡、重さは3~5kgにもなる。また、人の知覚には大きく識別知覚と防御知覚があり、識別知覚があることで私たちは周囲の環境と物理的にうまく関わることができ、防御知覚があるからこそ身体を健康で安全な状態に保つことができる。これがなければ、たちまち外傷を負い、それに気づかずに欠損部からは血が出て膿み、最悪の場合死んでしまうだろう。

黒=#000000、黄=#FFFF00だなんて、思ってる?ほんとに?

はっきり言って、自分の考えが絶対的に正しいと考えているわけではないし、すでに何人かの人を傷つけながらこの考えを文章にまとめていると自覚している。それでも、私は子どもの頃から一度も黒人の肌を「黒い」と感じたことはないし、白人の肌を「白い」と感じたこともないし、黄色人種という言葉を知ったときには「随分と意地の悪い色感だな」と面食らったものだし、何だったら肌の色そのものではない区分としての「白色・黒色・黄色」という言葉にもずっと違和感を感じてきた。もちろん実際にかなり肌の色の暗いアフリカ系の人はいるが、黒い、だなんてことがあるだろうか。

はじめから、言葉に悪意はなかったと思う。ただ、言葉が連れてきたイメージは文字通りimage(画像)を連れてきた。

だからこそ、そこには「その人に見えている肌の色」が感じられる言葉が、#000000以外のimage(画像)が、添えられていなければならない。

「差別が存在している、それをどうするか」

それを口に出すべき場所は、もしかしたらSNS上ではないのかもしれない。

画像1

(筆者instagramのストーリーズより)

以上、#blackouttuesdayの#000000が表すものとは、でした。

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