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実際は『多様性』を否定するような人間が多いという事

最近よく疑問に思うのは
「多様性」とか「人間はみんな違う」とかいってる人なのに、人の本質を見ようとしてなかったり人を表面やタイトルで判断する人が多い事だ

多様性の重要性を標榜するなら、なぜ相手を"理解"しようとしないのか。「この人はこういう人ね」と勝手に理解した気になるのは、多様性を受け入れてるわけでも理解しているわけでもなく、多様性という箱にその人を放棄しているだけにすぎない

もっと言うと、みんな多様性という言葉がもてはやされる時代になったからこそ、多様性という箱をとりあえず作ってるだけにしか見えない

多様性を受け入れるという事は、目の前にいる相手がどんな相手だったとしても同じ目線に立って"1人"の人間として受け入れようとする事だ。それは果てしない想像力と視野の広さ、相手に寄り添う優しさを持っていないといけないのではないか。相手の国籍も性別も出立も全く関係なく、相手を1人の人間として、「この人はどういう人だろう、なんでこう考えるんだろう」と想像力を持って理解する必要があるし、自分の常識や思考の癖や経験が目の前の相手には通じない宇宙人かもしれないと理解し受け入れる視野の広さや度量が必要である。それにその人間を構成する要素はなんなのか、またその要素はその人のどういう経験や文化、思考回路から成り立っているのか、そこまで知ろうとする、相手の価値観に寄り添う優しさが必要とされる。

多様性を受け入れるという事は、目の前にいる人間が自分の理解の範疇を超えた全く違う人間である(もしくは宇宙人かもしれない)、それを大前提として0から相手の理解を深めていこう、そして想像力を持って自分の価値観で相手を決めつけないようにする、そこまでして初めて「多様性を受け入れる」という事になるのではないのだろうか。

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