雨 さいたまの軽井沢

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数年前までは、この季節、
リトリート
と言ってキャンプのやうな研修のやうなことを軽井沢でしてゐましたが、それも絶へてオンラインに。
たださいたまにも「軽井沢的」な場所があるので歩ゐてみました^_^

軽井沢の詩人たちを動員しませう

雨は愛のやうなものだ 
それがひもすがら降り注いでゐた
人はこの雨を悲しさうに 
すこしばかりの青もの畑を 
次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた 
雨はいつもありのままの姿と
あれらの寂しい降りやうを 
そのまま人の心にうつしてゐた
室生犀星「雨の詩」

雨が降り出した。
そうしてそれは降り続いた。
とうとう梅雨期に入ったのだった。
そんな雨がちょっと小止みになり、
峠の方が薄明るくなって、
そのまま晴れ上るかと思うと、
峠の向側からやっと匍い上って来たように見える濃霧が、
峠の上方一面にかぶさり、
やがてその霧がさあと一気に駈け下りて来て、
忽ち村全帯の上に拡がるのであった。
堀辰雄「美しい村」

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた 
あのとき
叢は露の雫にまだ濡れて 
蜘蛛の念珠も光つてゐた
東の空には 
ゆるやかな虹がかかつてゐた
立原道造「虹とひとと」

立原の卒業設計は、日常を忘れるべく愛した浅間山麓を敷地としながらも、単に牧歌的な楽園を夢想したものではなかった。田園にありながら、都市に準ずる機構がきちんと整備された現実性のある計画だったのである」
『立原道造の夢みた建築』種田元晴

堀辰雄の文学は、この世ならぬ、ある香りのようなもの、実在しない、素敵な夢のようなもの、現実であるには純粋すぎるもの、というふうに受け止められ、それが夢見がちな若者の心を捉え、彼等が人生に直面しようとするのをその眼を外らさせようとする、つまり快い逃避の文学と理解されがちだ・・・
・・・にも拘らず氏の小説は、他の多くの作家同様、この生の、私たち自身が生きている日常の現実からその素材を汲みとられたものである。そして、その現実の生の場における、氏自身の感覚、人生観が、結晶して作品となったものであり、どこか存在しない、人生以外の場から空想的に作り出された生命のない、造化的作品ではない・・・」
『風立ちぬ』解説「堀辰雄 人と作品」中村真一郎
#みんなのさいたま #artsightama

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