ヨーガニドラー(シャヴァアーサナについて)

シャバアーサナ(あるいはヨーガニドラー)にも色々とやり方はあるが、それらをまとめて比べてみると、タントラ的にはどの流儀にも共通して存在するメニューというのがある。どんなやり方でも必ずこれは入っているという幾つかのものだ。

ちなみに言うと、スタジオで行われているヨーガニドラーというか、シャバアーサナの今風のリラクゼーション誘導的なものの事は全く知らんし、今は全然それとは無関係の話をしているのであらかじめ。

さて、
①自分の身体の隅々をポイントアウトしながら全体を軽くしたり重くしたりする②なんらかのプラーナヤーマをおこなう③自分の外側に別の自分の身体をイメージで作り出し、そこに自己を移し替える④チャクラをひとつづつイメージの中で構築していく・・

これらは色んな流儀やあるいはビハールの本あたりに出てくる様々なシャバアーサナの、ほぼ全てに共通して出てくるテクニックだ。

要するにこれらがシャバアーサナの「必須メニュー」という事になるわけだが、これらは基本的にパンチャコーシャ(5つの鞘)理論に関連している。すなわち、

最初に行う身体中に意識を巡らすやり方(※上では身体を軽くしたり重くしたりと書いたが、これはおそらく「重さ」と「軽さ」の相反するイメージを同時に行う事が肝なんだと思う。そもそも「重い」とか「軽い」なんてのはどちらも物理的物質的な次元の話なので、それらの相反するイメージを相殺する事によって物理的な身体イメージを解体する、とまあそんな感じ)、これはアンナマヤコーシャ(食物鞘)に関わるものだし、2番目のプラーナヤーマ・・うちの師匠はスッスッハーッっていう浄化系の呼吸をいつも使うけど、俺は様々な流儀のシャバにおいて一番よく使われる逆V字プラーナヤーマ(を2往復半1サイクルとして100回廻す)が好みだけど、これはそのままプラーナマーヤコーシャに関わる。

3番目の自分の肉体の外側にもうひとつの自分の身体をイメージで作り出す・・これはカバラーを含むいわゆる西洋魔術の行法にもほぼ同じものが存在するけど、要するにまさしく『意識体(マノマーヤコーシャ)』を立ち上げるということで、更にそこに『魂移し』を行う。

この『魂移し』は別に儀式的な話ではない。端的に自分の視点の起点、つまりウパニシャッド的にいう認識主体(アートマン)をそちらに移し替えるという事だ。先日の『クンダリニーをアゲリシャス 』でやったクンダリニー瞑想なんてのもこの辺に繋がっていたりする。

そしてここからチャクラ瞑想に入っていくのだが、これは要するに、5コーシャ理論でもクンダリニーヨーガでもそうなんだけど、上位項の『理知鞘』『歓喜鞘』や『サハスラーラ・チャクラ』へのフォーカスつっても、その領域はもはや人の作為の向こう側、流行りの言葉で云うとマインドフルネスの外側の世界なので、その領域にイメージングという作為で突入しようとしてもそれは『偽り』にしかならない。なのでとりあえずチャクラ理論を用いて便宜上その中で『理知』『歓喜』の擬似体験をするしかないわけだ。
ちょうどクンダリニーヨーガが理屈上だと自己の意識で作為的にサハスラーラに入ったり出たりが出来ないので、低位サハスラーラ(のコーシャ間超越ゲート)を擬似サハスラーラに用いるのと同じこと。

これでほとんどのヨガについてまわる宿命的な(その割にはあまり誰も気にしてない)『上位項にテクニックでは触れられない問題』は回避できる。

さて、いわゆるシャバアーサナとかヨーガニドラーと呼ばれる行法はだいたいこんな感じで行われるのだが、実は、これらの必須メニューの他に、というかある意味これら以上に重要とされるものに「サンカルパ」というものがある。

これは、簡単に言うとシャバアーサナがノッできたどこかの時点で自分の誓願つまり願い事をとなえるというもので、この誓願は例えば

「大きなイチモツをください」

みたいな個人的な願いではダメで、「世界平和」とか「人の役にたてますように」みたいな公共とか利他の願いでなくてはならない。しかもこの誓願は一度決めたら2度と決して変更してはならない。ようするにけっこうヘヴィなものなのだ。

これは、「他のメニューははしょったとしても、このサンカルパだけはヨーガニドラーにずえっっったい入れろ!」と言われているくらい重要なものとされているが、俺は常にスルーしている。

なぜこのサンカルパがそんなに重要なのかと言うと、ヨーガニドラー中のいわゆる深層意識的なもの(別にインナーなんちゃらでもよいよ)が剥き出しになっている時に、そこにエゴを超越した利他的あるいは公共的な行動指針を書き込む事が、実践者のエゴの解消とか考え方や行動の高邁化とか聖化に効果大だとされているからだ。

つまり聖人のような行動を取るプログラムを自己の深いところに書き込むってことね。ちなみにこのやり方もまた、西洋魔術に酷似していたりする。

そんなわけで、これは脱俗した修行者の目指すところであって、ふつーに自分の生活や生き方を良くするためにヨガやってる人たちは、

「己れを捨てて衆生の為に生きる人となろう」

なんて高邁なプログラムを自己の深いところに書き込む必要なんて別にない。人の本心の願いなんていつだって『大きなイチモツをください』程度のものであるが、それを本当に自己滅利他に転じようとする覚悟があるならこのサンカルパを用いればいいし、心の底の底からそういった聖化を望んではいないのに、SNSに自己アピールとして『感謝』だの『全ての人になんちゃら』みたいな綺麗事を書き込む程度の気持ちで形式としてだけ取り入れるなら、それはやめといた方がいい。

ともあれ、ヨーガニドラーというのは単なるリラクゼーションのテクニックではない。「全てを手放しましょう」とか「今にとどまりましょう」とか「今の自分を認めましょう」みたいな、昭和の自律訓練法のカセットテープの時代から使い古されてるしょうもない文言を聴きながら居眠りする時間でもない。

まずこれが出来なきゃ話にもならないっていう根本的な前提として

「絶っっ対に指一本からだを動かしてはならない」

「絶っっ対に寝てはならない」

があって、ちゃんと理論的な根拠のあるいくつかの必須メニューを経て、擬似的な『死』を体験する行法なのだ。

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