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海獣の子供と白いスニーカー

夢の中で考え事をしていて、体が重くって空を飛べないことを悩んでいた。昔は空が飛べたのになと思っている気持ちは本当で、だからとてもかなしかった。

こないだ映画「海獣の子供」を観た。主人公の少女は冒頭、海沿いの塀を駆ける。勢いのままに跳びあがると少女は言う「私は空を飛ぶ。」そう言いながら駆ける少女の足には真っ白なスニーカーが輝いている。夏休み。駆け足で向かった部活。ハンドボール部の練習で少女は喧嘩をする。あの悔しさ。持って行き場のない感情。空中を飛びボールを投げ込むスポーツ、その中で汚れていくはずだったスニーカーは白いままに、少女は帰路に着く。肩を落として。朝とは違い、塀の上には人々が座っていて、その下を人々の影に覆われながら少女はトボトボと歩く。しかし映画は少女の「空を飛ぶ」という確信を見逃さない。その確信に寄り添うように映画は進行していく。

部活での喧嘩。先生の説教。アル中の母。人間関係の中で少女は空を飛べない。先生は喧嘩の前にこんなようなことを言う。「調子がいいときは危ない。」人間関係は少女の確信を否定する。多くのファンタジーがそうであるように、少女は人間関係から逃れるようにその世界へと入り込む。(たとえばハリーポッターの日常シーンがあまりに辛く、あまりに退屈なように)
鯨たちのソングに集まり、光を見つけるものは空を飛べる。少女は空を飛び、宇宙を泳ぐ。沖で発見された少女に寄り添う家族。それは一見ハッピーエンドのようにも見えるが、少女の目は輝かない。退屈な人間関係の中に戻っただけ。空を飛べない世界に戻っただけ。それは退屈な日常。退屈なだけなら別にかまわない。でもそれは少女の確信を否定する日常なのだ。

ファンタジーの時間は現実には否定される時間だ。だからそれが本当にあったと本人だけは確認できるように、お土産が渡されることはよくある。目覚めてあれは夢だったのかと、ふと握った手を開くと向こうの宝石があるというような。竜宮城から渡された玉手箱もそうだ。それらと同じように少女の足下にはスニーカーがある。白いスニーカーが汚れないままに輝いている。それはミスではない。部活のシーンでボールについている汚れがあれほど細かく描かれていることを見ればわかるように、靴の汚れをこの制作陣が書き忘れるというようなことはないだろう。だからそれは意図的に汚れていないのだ。その白いスニーカーは汚れていない。それはどういうことか。少女は夏休み、空を飛んだということなのだ。そのことがファンタジーの時間を証明する贈り物(ギフト)であり、少女の確信を肯定する、世界のやさしさなのだ。

原作の漫画とはまったく別の作品といっていい。だって原作はその出来事を現実のこととして描くから。でもどちらも素晴らしい傑作には違いない。ファンタジーとして描いた映画もまた、それを夢物語とは言っていない。いずれにしろそれは事実なのだから。

夢の話に戻る。夢の中でだってぼくは一度も飛んだことがない。空を飛ぶ夢と言うのを見たことがない。でもあのかなしみは覚えているから、空を飛んでいたことは確かなのだろう。忘れているだけ。ぼくはその確信を肯定していたい。


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