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なにやら昔書いた記事が急にたくさん読まれている。なんでだろうと不思議に思ったが、タイトルに「志村けん」が含まれているからだとわかった。 記事自体はまったく志村けんと関係がない。去年行ったウラジオストク旅行の話だ。(ウラジオストクにすら着いていない。)でも夢に出てくるくらいに、志村けんというアイコンは日本人の無意識に刷り込まれているということだろう。 両親はドリフが嫌いだったようで、志村けんをテレビで見る機会は人より少なかったように思う。それでもバカ殿の強烈なビジュアルと、
家族という言葉は何を指すのか。家族や血という括り方にとても大きな違和感を持っている。家族と距離を置き、あまり信用していない自分。それでも家族について考察してしまう矛盾。 子どものころ、小学三年生辺りからか、ぼくはあまり写真に写らなくなっていた。実家のアルバムを見ると、ぼくの写真がある時期から一気に減っているのがわかる。学校で撮る写真や友だちと撮る写真には普通に写っていて、家の写真には写っていない。その差についてあんまり意識してこなかったのだけれど、多分「家族」というものに自
JOKERを観に行ったとき、隣に高校生カップルが座っていた。ポップコーンをふたつキャラメル味と塩味を分け合いながら仲良く喋っている。 「俺、ネタバレ一切聞かんようにしてきたから。」 「そんな面白いのかな。」 「うわキャラメル味ヤバ。カロリーエグくない?」 「ポップコーンってカロリーあるのかな?だってとうもろこしでしょ。調べてみよ。」 「白いのはカロリーゼロだから。」 「何それ?」と返す彼女の声は暖かく、彼のことが本当に好きなんだろうなという感じのトーンに思えた。
JOKERを観てきました。ネタバレするので、気にならない人は読んでください。正直ネタバレどうこうっていう映画ではないので、気にしなくてもいいと思います。そもそもネタバレでつまらなくなる映画は最初からつまらない映画だと思いますし、シックスセンスはネタバレされても面白い映画だと思うからです。 笑いとは裏切りだ。前提を覆したところに笑いがある。前提とは何か。それは場によって異なる。たとえばそれが世間の常識であった場合、世間ズレした者は笑いの対象となる。これは喜劇の基本的な構造だろ
以前、「誰かを否定したり自分を卑下したりしないお笑い」という再生リストを作った。今でもたまに更新している。 (ホントは、佐久間一行の井戸のオバケ(R-1でやってたやつ)とか、ハナコの犬のやつとか、千鳥の医者のやつとか入れたい。) 何か最近は、かが屋が流行ってきて、この視点が普通になってきた気がする。でも改めて、前プレイリストを作った気持ちを思い出しつつ、それについて書いてみる。 「お笑い第七世代」という言葉が広まりだしている。霜降り明星がm-1で優勝してからだ。
趣味がないと言う人が多い。でも話を聞いているとワンダイレクションをなけなしの金でSS席で見に行って感動した人とか、大手町から戸塚まで箱根駅伝をなぞるように友達と走る人とか、急に食べたくなってスーパーで鯵を買ってなめろうにして食べた話をする人とか、昨日オールで飲んで二日酔いのまま仕事に出る人とか、「どこが趣味がないんだよ。」と思う人が多い。趣味を趣味と思えてないだけなのだ。ではなぜ「趣味」と言えないのだろう。アメトーークの所為だ。 趣味を語るテレビ番組と言えばやはりアメト
オードリーのオールナイトニッポンin武道館をライブビューイングしてきた。興奮冷めやまぬ夜。そのまま電気を点けたまま寝てしまって朝。まだ興奮している。 一人で真夜中、布団の中で聞いていたラジオ。隣にいる両親の寝室に聞こえないように笑いをこらえながら聞いていたラジオ。友達も誰もいない高校生の時聞いていたラジオを二万二千人が一緒に聞いていて、笑っていることを目の当たりにしてしまったら、泣いてしまう。 中高生の頃は、人生で一番暗かった。そんな時に出会ったものは今でも大切なも
粗品おめでとう! 今年のR-1ぐらんぷりはいつもとまったく違う雰囲気だった。 客席の空気が軽いのだ。いい意味で。 いつもR-1ぐらんぷりの客席は重くて、笑いづらい雰囲気が流れていた。 なんでだろう? 漫才やコントを二人の会話とすると、R-1はずっと独り言だ。だから話される観客は耳をすまさなければならない。話しかけられているから。 そもそも「R」は落語の略だけれど、落語もまた会話を演じる。 たとえば飲みの席を想像してみる。さし飲み、三人で飲むとき、集中力