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残響

原点回帰でも、なんでもなかった。

1曲だけうたえるライブ、
36人もいるならば
べつに課せられたものなどないし
「悪い魔法」をうたおうと思っていた。
ただ、わたしのピアノのための曲。

いやなんか違う、と思ったのは前日のスタジオだった。
流れる音があった。

あとは、会いたい、それだけだった。
もう1度この曲に会いたい。

わたしはずるいから、
もうピカロステイトの鍵盤だったとは名乗らないし、
やっぱり、はらぺこというユニットをやっていた、というはなしも
聞かれなければしなかった。
いまはいまだった。

経歴的にはこれがいちばん長く、
もうすべてと言っていい。
21歳くらいから、27.8歳くらいまでやっていた。
わたしがピアノを弾く、
みおりさんがうたってくれる。
ただ、それだけだった。

だから、はらぺこの曲は、はらぺこのものだし、
わたしはみおりさんみたいにはうたえないから、
連れていくことはない、と思っていた。

実際わたしは、この曲をうたうと決めたあと、みおりに「借ります」と連絡している。

いいよ、と言ってくれると確信していた。
わたしは甘えてばっかりだった、
許されてばっかりだった、
そう思うなら、やったほうがいいよ
絶対にそう言ってくれる人だった。
絶対に、人の夢を笑ったりバカにしたりしない人だった。
だから、借りてもいい?とは聞かなかった。
彼女の、もちろん、という
その頷きを、わたしは確信していた。

はじめて、みおりさんとうたの話を少しして、
やっぱり、もちろん、て言ってもらえて
なんかそれが全部だった。
大事にしよう、と思った。
わたしの二十代、
彼女と過ごした時間、
そして、彼女と作った曲たち。

会いたいと思ったのは「残響」という曲でした。
はらぺことしては挑戦の一手で、
ある種、想像の幅を深く持たせるファンタジーさを大事にしていたのに、
現代の人間、
電話、という言葉を直接的に作った実話に近い物語だ。

この曲の歌詞を書いて、
みおりさんに、どう?て聞いたときのこと覚えてるよ。
「わたしも、こういう曲を書こうと思ってた」みたいなことを言ってたね、
練習していた、町田WESTVOXの客席だった。覚えてるよ。

挑戦の一手を、町田プレイハウス36年の記念すべき日に歌おうと思った。
必要だと思った。

カバーです、て言ったら
「カバーじゃないだろ」て言われた
「スガシカオが夜空ノムコウをうたうのと一緒だ」「セルフカバーって言うんだ」と言われてしっくりきた。
たしかに、あのピアノと歌詞考えたのはわたしだから、ある意味わたしが唯一無二のオリジナルであり、
やっぱり、はらぺこのカバーだと思うから

活動休止したのに、自分の曲を聴いてって言うのはずるいと思ってた。
じゃぁやれよって話だから。

たぶん、そういうのじゃなくて
たぶん、魂の一部みたいなそういう

そして、作曲が行き詰ったわたしを
たぶん、あなたが助けてくれるのでしょう。
あなたを足場に、
わたしはまた、新しい景色を見るのでしょう。

また、手紙書きます。
心配してない、
だけど元気で

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