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"成果"について、ゆるやかに考える

昨日、久々に曲をボツにした。

noteの記事でも、作詞でも作曲でも
「これはダメだ! 全部やり直し!」みたいなボツの仕方って、わたしはあんまりしない。

何事も、ひとつの創作にあまり時間をかけないタイプだからだと思う。
「こういうのも、アリか」と、前向きになったり
「ひとつにすべての感情を詰め込むのはむり」と、諦めることもある。

数少ないけど、ダメになりそうなときは、気配でわかる。
だいたい「気持ちが溢れ出しているとき」か「むりやりやっているとき」のどちらかで、機能の場合は両方だった。

溢れ出す気持ち、
わたしはこの動画の最後に載せる曲を、意図して作ろうとしていた。

弾き終わってから、「これじゃだめかもしれない」と思いながらも、
あれこれ試行錯誤してしまった。
聞き直したら、やっぱり全然ダメだった。

いま載せているのは、時間が経ってピアノに向かったときに「弾けるかもしれない」と思って、さらっと弾いたもの。満足している。

新しい技法を試して、どうしていいかわからなくて、
時間が経って、「うまくいかない」とじわりと気づいた。
時間は、30分以上経過している。

この1時間の「成果」は、動画の編集が終わったこと。
ピアノは何も、残らなかった。

残らなかった、のだろうか。

そう思ったときにわたしは、「もしかして今まで、成果を気にしすぎていたのかも」とハッとした。
弾いた曲は残さなかった。
でも、DTMソフトの知らないボタンをたくさん押して、わたしは”挑戦”した。
次にあの機能を使おうとしたら、うまくいかない、わからないなりに、それでももうちょっとマシにできると思う。

成果って、なしとげた結果って意味らしい。
あることをして得た、よい結果。

よい結果なら、きちんとここにあるではないか。

挑戦して、失敗して
それだって”成果”だと、胸を張ろうと思った。

記事や曲を残すことが、全部じゃない。
「作っている」ときだけが頑張っているだけじゃない。

生きることの血肉となるものって、もうちょっと近くにある。
呼吸をするように、もっともっと漂っている。

「何もなかった」と決めるのは、いつだってわたしだ。
だったら、「何かあった」と決めるのも、いつだってわたしでいい。

物理的な”何か”が残らないと、不安になったりする。
なにをしていたんだろう、と思ったりする。

ひどいときには、物理的な”何か”が残ったって、不安になったりする。
これ、作った意味、あったのかなって。

いまは見つけられなくても、
未来の自分が、いつか答え合わせしてくれるよ。

なーんて、いまは思っている。
きっと、そうだといいなって。

だから、無意味だったなんて悲しまないで、ゴミ箱に捨てたりしないで
そういう日もあるかって。
そうやって許せる日は、許しながら生きていきたい。
もちろん、落ち込んだり責めたりする日が、あってもいいのだけれど
わたしは友達に対して「あんまり自分を痛めつけないでね」と思っている。

生きることの、血肉となるものは漂っている。

そう思ったら、少し肩の荷が降りた気がする。
なんとなく、”成果”という、見えない的と戦っていた。
ただただ、見えなくて、不安だった。

だいじょうぶ
生きてるよ、進んでるよ。

それでも見つからないときや、不安なときは相談して欲しい。
あなたの目と、わたしの目でよっつになるから。
きっと、見える景色は違うでしょう。
もっと、広い世界が見えるでしょう。

苛烈の中を生きたい、と思うわたしもいる。
確かにいる。
あまいことばっかり言ってるな、と怒っているわたしが、部屋の隅でふてくされている。
君のことも、忘れていない。

でもこの先も、長く戦いたいから、そうして漂いたいから

「新しい魔法を手に入れた」と思ってさ、
そんなに、ふてくされた顔をしないでおくれよ。




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