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いまも、手紙みたいに

「最近、たまにnote見てるよ」と言われて、びっくりした。
定期的に会う友人で、わたしたちはいま、向かい合ってケーキを食べている。
「なんだか変わっていなくて、安心した」と言われて、またびっくりした。

昔のまま、
昔の、わたしの文章…

「あなたに書いていた手紙から、変わっていないかもしれない」

わたしたちは10代の頃、手紙のやり取りをしていた。
友達は、几帳面そうな、線の細くて、きれいな字を書く人だった。
いつも、きれいでおしゃれな便箋だった。
(わたしは、400円でいっぱい入っている、ファンシーなレターセットを使っていた)

わたしはいまでも、手紙は好きなくせに字は汚いままで、
特に、縦書きは上手にできないので、宛名もむりやり横書きしている。
友達の文字は、縦書きでも綺麗なままだったので、感動したのを覚えている。

「紋華ちゃんの手紙は、耳元でしゃべっているみたいねえ」

母の親友であり、いまでもわたしの文通友達である人に、かつて言われたことがある。

いまでもわたしは、そういう書き方をしているかもしれない。
手紙やnote、歌詞みたいな「瞬時にお返事のないもの」に関しては、やり方は変わっていないんだ、と思えた。

「ああ、そうかもしれない。書き殴った、手紙みたいな」と言って、友達は笑った。
自分は勢いで書いたから、書いた内容なんて覚えてないやつね、と言ってまた笑った。

書く内容については、10代の頃とも、20代の頃とも変わったはずだ。
でも、「書きたいこと」の本質は、変わっていないかもしれない。

その”本質”についても、なだらかに変化し、ゆるやかになってきた。
そうした変化の過程については、今日まで、指差し確認しながら一緒に歩んできた。
こぼれ落ちてしまいそうな小さな感情も拾い集めて、ときどき、顔を見合わせて確認をしてきた。
人生の、違うルートを通ってきたはずなのに、「最近、同じことを思った」なんて言いながら、歩き続けてきた。

だから、「変わらない」と言ってくれたことは、
「一緒に変わってきたこと」のような気がして、じんわりとあたたかく、許されたような気持ちになった。

いまでも、手紙のように受け取ってくれているならば、わたしは嬉しい。

noteを続けて半年、
たくさんの友達から「たまに読んでいるよ」と言ってもらえた。

それは、あなたの隣で、気だるそうに煙草を吹かしたり、ときおり一生懸命語ったりしちゃう、
もしかしたら「それ、何年か前に言ってたよ」なんて、言われちゃうかもしれないような
そういう「耳元のおしゃべり」を受け取ってもらっている。

もしかしたら、そういうことなのかもしれない、
そうだとしたら、とっても嬉しい。

わたしは今日も相変わらずで、元気だよ。



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