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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2021年3月の記事一覧

わたしの速度で

わたしの足並みは、ずいぶんと勇ましかった。 ひとりの帰り道は、いつもそういうつもりで歩いている。 急いでいるわけではないけれど、しっかりと目的地に向かっている、という心持ちでいる。 わたしより歩くのが早い人が、隣をすり抜けてゆく。 その後姿を見つめていると、自転車がすうっと走り去った。 きっとわたしは、歩くのが速くない。 背が低いのでそれは当然だと思うけど、 背が低いのに、妙に歩くのが速い人もいるから不思議だ。 わたしは、そうなれなかった。 勇敢なのに、とろかった。

あなたの、名前を書くだけで

久し振りに、手紙を書いた。 手紙を書くのは好きなくせに、どうも後回しになってしまう。というときがある。 日課ほど頻繁に取り組んでいるものじゃないし、手紙を書くためにはデスクを片付けなきゃいけない。あの子に書くならついでにあのひとにも、とか、いろいろ考えちゃう。 でも、わたしは手紙を書く。 どれだけ時間が経ってしまっても、どこかのタイミングで必ず思い立つ。 手紙が、わたしを救ってくれる、ということを、わたしの本能が知っている。 親愛なるあなたへ、と名前を書く。 手紙だけで

良い旅を

雑踏の中、わたしを追い越した足に目を奪われた。 ニューバランスだった。 色違いで、おそろいのニューバランスが、歩いてゆく。 * 恋人とおそろいや、色違いの装備をする。 ということを、わたしも昔やったことがある。 それは、「おそろいがいい」と思ってそうしたというよりは 「ソレかっこいいね!」と言ったら、「じゃあ買おうか」という流れだった。 コンバースのジャックパーセル、 レッドウィングのアイリッシュセッター、 クラークスもそうだったし、ナノユニバースでカバンも買っても

ないものとあるもの

髪を切りに行こう。 それがいい、そうしよう。 そうと決まったら予約しよう。 わたしは電車の中で、少し浮かれていた。 * 「松永さんって、趣味とかありますか?」 担当してくれている美容師さんとは、もう4年くらいの付き合いになる。 もう、気兼ねなく話せる仲になって、今日はふいに質問をされた。 「え〜特にないよ」と、わたしは笑って答えた。 趣味については、最近考えていた話題のひとつで、わたしにとっては「ハードルの高い言葉」だった。 なかなか、趣味と呼べるものはない。 人並

夢でも会えたなら

2021年1月 仕事を始めて、感動したことがあった。 夜、よく眠れる。 朝にきちんと起きて、日中活動すれば、夜こんなに眠れるんだ… 眠れずに寝返りを打ちながら、始発の音を聞いていた日々は、一体何だったんだろう。 どう考えても、昼寝のしすぎだ。 夢も見ずに眠っていた。 そんな感覚は久し振りだった。 と思っていたのは、ほんの束の間で 無職の、ウルトラハイパー不規則時代と比べたら寝付きはよくなったけど、仕事を始めて2週間も経てば、夢を見る暮らしに戻った。 結局、眠りの浅い日

今日は、クッキーを食べる

「なにそれ、小学生みたい」と、友達は笑った。 友達の部屋でばんごはんを終え、いろいろなことが一段落したときだった。 電気ケトルが仕事を始めた音がする。 友達がキッチンに向かう、これはコーヒーが入る合図だ。わたしは確信している。 そわそわと、でも気取られないようにコーヒーを待っていると、ほどなくして白いカップがやってきた。 コーヒー用のいつものカップに、「やったあ」と手を伸ばす。 充分なしあわせを手に入れてニヤついているわたしの隣に、ひとつのお皿が置かれた。 これはなんだ

そうしてもう一度、積み上げてゆく。

がらり、と音がする。 鈍い音だ。 “大きな何か”が崩れたのだと、わたしは慌てる。 心の中で鳴る音を、わたしは今日も正確に掴めない、 崩れた 聞こえた ような気がする。 ある意味に於いては、実勢にそうなのだと思う。 わたしは、”わたしが積み上げてきたモノが崩れた”と”感じて”いる。 次々とよぎる思考は、まったく意味を成さない。 この思考は、目的地にも解決策にも向かっていない。 湧き上がるこれは、名前のない”不安”や”後悔”だ。 もう少し冷静さを取り戻せば、この音も遠くなる

ぜんぜん前に進めなくて、自転とも反対向きなの

「仕事」と思うと、毎朝起きれるのは本当に不思議だと思う。 仕事、あるいは約束があれば、わたしは大概きちんと起きる。 元気よく目覚めることは、できない。 朝はいつもぼおっとする。 ぼおっとする時間をたくさん確保できるほどの早起きもできないので、ラジオ体操で無理やり目を覚ます。 健康のため、ダイエットのため。 なんていうのは結局二の次で、朝手っ取り早く目覚めたいだけだった。 少しはマシになった身体を引きずって、身支度を整えながらスープを温める。 これは、おひるごはん。 あさご

色とりどりに咲く

順番に、傘が開いてゆく。 その日の天気予報は雨で、電車を降りたら小雨が降っていた わたしは、鞄の中の折りたたみ傘に手をかけながら、様子を伺う。 傘なんて、自分がさしたければさせばいい。 同じように、自分が要らないと思えばそれがすべてなのに、小雨のときはどうしても、辺りを見回してしまう。 ひとつ、 ふたつ、 咲くように傘が開いてゆくのを見て、わたしも慌てて傘を開く。 ピンクやオレンジの傘が開いてゆくのを、わたしはうっとりと見つめていく。 今日は、いろんな傘が見える。 い

あの日のお迎え

あ、と思う。 前を歩く人を、見送る。 帰り道、駅の近くで車に乗り込む人がいる。 お迎えが、来ている人。 * 18歳まで、とんでもない田舎に暮らしていた。 いま住んでいるところも、すごい都会というわけじゃないけれど、駅までは歩けるし、電車でどこへでも行けるようになった。 地元にいるとき、家の前のバス停にバスがやってくるのは、1時間に1本か2本くらいだったと記憶している。 静岡駅から最寄りのバス停までの最終バスは、18時台だった。 その手前、本数が多いバス停というのは家か

とりあえず、キッチンを攻め落とす

(いま、ベッドに飛び込んだら、どれほどしあわせだろうか…) 感情が、よぎった。 * 帰ってすぐバスルームに駆け込んだのが、まずえらい。 最近の目標は「帰宅後、すぐにお風呂に入る」なんだけど、達成率は50%くらいだと思う。 帰宅後のわたしは、だいたい意識を失っている。動かなくなる。 だから今日は、もう100点なんだ。もういいじゃないか。 ベッドが、わたしを呼んでいる。 現実世界の視界では、シンクの洗い物が映っている。 洗ったお皿もそのまま置きっぱなし。 洗い物をするに