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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2020年6月の記事一覧

クチサキ

「口で言ってるだけなんですけど」 そんな風に言われたことを、覚えている。 前に住んでいた家で、弟と呼んでいる人が、遊びに来てくれたときのことだったと思う。 何年も前のことなのに、そのときのことを、覚えているような気がする。 あの頃、わたしたちはふたりとも二十代だった。 わたしたちは、人生の迷子だった。 ライブハウスで出会ったのに、ふたりとも音楽活動をしていない頃だったと思う。 ちゅうぶらりんの一人暮らしだった。 弟とはたまに、人生とか、目標とか、そういう話をする。 そん

ともしびの夜

そういえば 弟と呼んでいる友人は、 うちに来ると、ちょこんと椅子に座っている。 キッチンの椅子か、居間のソファーに わたしより、まっすぐと伸びた背中で そういえば 同居人と暮らして、何年か経つというのに 彼が、ソファーに座っているところを、あまり見たことがない。 だいたい、床に座っている。 猫背で、あぐらがかけないので、ソファーに寄り掛かって、変な姿勢だ。 わたしは、ソファーにも床にも座る。 できるだけごろごろしたいので ソファーを占領できるときは、ソファーの埋もれる

温度計と暮らす

このあいだ友達と出掛けたときに、無印で運命の出会いをした。 温度計と湿度計が一緒になってるやつ。 無駄なものは買わないと決めていたけど「無駄ではない」と決めて、買うことにした。 色は、友達に選んでもらって、白にした。 「友達に選んでもらった」というのは、なんだか嬉しい。 見た目もかわいいし、数字も見やすい。 無印の、「過不足ない感じ」がとても気に入った。 家族がいる人はみんな「エアコンの温度設定問題」があると思う。 座っている場所や、個人によって違うのだから仕方がない。

弟と、小さな贈り物

「弟」と思っている人がいる。 血の繋がりはない。 でも、たったひとりの弟だ。 もう、10年近くわたしの弟をしてくれている。 弟はもともと、友達のバンドメンバーとして紹介された。 いつからか、ふたりで会うようになった。 わたしが、当時の彼の家の近くで、ひとり暮らしを始めた頃からだったような気もする。 不安だったし寂しかったから、時々来てもらっていた。 いまでも、時々来てくれる。 弟はよく、小さな贈り物をしてくれる。 このあいだは、わたしが欲しがっていた、ピカチュウがパッケー

素材の味がして、いいね

久し振りに料理をした。 同居人の祝い事があったので、手近なものでお祝いをしようと思った。 料理は本当に全然しない。 食べるものに、あんまり興味がない。 興味がないものにお金をかけたくないので、同居人がいなかった時代は料理をしていた。 お弁当も自分で作っていた。 信じて欲しいけど、料理をしないのであって、できないわけではない。 そしてやっぱり、興味がないので料理はほとんどしない。 今日は特別だ。 にんじんのしりしりは、お弁当を作っていたときによく作っていた。 これは覚えてい

夏のお中元

「お、夏のカタログギフト」 スーパーで会計をしたあと、「ちょっと待ってて」と言われてひとり残された。 わたしは、買ったものを袋に詰めて、そのギフトカタログを見つけた。 お中元の季節だ。 世の中のイベントやルール、常識といわれるものに疎いわたしだが、お中元は知っている。 こどもの頃よくもらっていた。そんな記憶がある。 父親と祖父は、大工だった。 田舎の、なんでも屋のような それでも、大工だった。 仕事上、たくさんのお付き合いがあった。 瓦屋さん、左官屋さん、水道屋さん、

サンダルと絆創膏と、寂しさ

足に、水ぶくれができていた。 昨日は外出をして、なんだ足が疲れたし、痛かった気がしていた。 でも、リュックの中には大量の荷物も入っていて重いし、 暑いし、 こうやって外出をするのは久し振りだから、当然の痛みや疲れだろう。と思っていた。 ああ、サンダルのせいだったんだ。 やっぱり、わたしの足は痛みというSOSをあげていたんだ。 ということに、ようやく気づいた。 昨日は、去年買ったサンダルを履いていた。 靴なんか買ったら際限ないし、置く場所もないし、と思っていたわたしが 悩

今日は、風が吹いている

電話をするときの何回かに一回は、近くの川辺まで行く。 川が好きだ。 今日は同居人がゲーム実況をやってたので、電話のために外に出た。 1時間、わたしは煙草を吸いながら友だちと話す。 一瞬、雨の気配を感じたけど、すぐに去っていった。 水面を撫でたあとの風は、どうしてこんなにおだやかなんだろう。 家に帰ったら大変な熱気だった。 「実況中は声が大きくなるので、絶対に窓を閉める」というのは、わたしが決めた約束だ。 前の家で、「うるさいから」と警察を呼ばれ、退去に追い込まれたことを、

だからわたしは、クレープを食べない

クレープ屋さんが、たくさんある街で働いていた。 だけどわたしは、ほとんどクレープを食べなかった。 クレープを食べたら終わる、と思っていた。 甘いものは大好きだし、 クレープは今もなお、最強の贅沢のうちのひとつだ。 わたしの「好き」しかない。 薄い皮に、わたしの好きなものだけ挟んでくれる。 生クリームにいちご、プリンやチーズケーキ、アイスを挟むことだってできる。 全部大好き! クレープはいつだって、わたしをしあわせにしてくれる。 だけどわたしは、ほとんどクレープを食べな

小さなフライパンと、大きなお皿

今日は、フライパンが流しにあった。 キッチンについては、基本的に同居人の領域なのでよくわからないのだけれど 「フライパンは、使い終わったあと毎回洗わなくてもいい」のだそうだ。 なのでフライパンは、流しにあるときが「洗剤をつけてスポンジで洗っていい」という合図になる。 これもよくわからないんだけど、うちにはフライパンがみっつある。 今日は、いちばん小さなフライパンが置いてあった。 小さいので軽く、からだが小さなわたしが、自分だけのお昼ごはん(焼きそばとかスクランブルエッグ)を

まっさかさまより、まっしぐらに生きたい

仕事をクビになるとわかった夜、母親に電話した。 「会社をクビになるなんて、人生で経験しない人も多いであろう、クレイジーな出来事が起こった!これは是非、母親に報告しなくては!」という一心だった。 静岡に住んでいる母親とは、この何年か、そういう関係を続けていた。 そういう風に、いろんなことを、一緒に笑い飛ばしてきた。 見る人が見たら、「ピンチ」という、そういう状況を、わたしたちはなんでもネタにしてきた。 案の定、彼女は「すごいチャンスだね」というようなことを、言っていた気がする

これからもずっと、変わらない夢がある

晴れた日は散歩をする。 この日は、公共料金や家賃を払いに行くついでに駅前まで歩いて お気に入りのカフェの前を通った。 しばらく店内営業をお休みしていて、 テイクアウトのみの営業なので、いつもスタッフの誰かが外に立っている。 今日も見慣れた顔を見つけて、ほっとしながら、 わたしは、吸い込まれるように声をかけた。 頼んだ商品を待っているあいだ、他愛もない話をする。 今日は見知った顔の他に、もうひとり出てきて 「うちの若い子!会ったことありましたっけ?」と尋ねられた。 人の顔を

落ちるものと、落ちないものがある

独立洗面台を磨いた。 いつもの掃除メニューに入っていない箇所なので、 気づいたときとか、気が向いたときだけ磨くようにしている。 白い独立洗面台についている汚れは、 だいたい染み付いたものなんだと思っていた。 スポンジで擦ったって、どうせ変わらないだろうと。 そんな風に思っているから、たまにしか磨かないんだ。 でも、磨いてみたら、なんだかびっくりしちゃった。 すごく極端に、 これでもかってくらいわかりやすく、 落ちるものはするっと落ちるし、 落ちないものは、どれだけ必死