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KOJIKI<國⑥>

さて、いろいろありましたが、大国主命は二人の神御子の
思いを確かめこの国を天の神の子孫に譲る事にしました。
けれども、國ゆずりに際して
大国主命は 自分を祀る神殿を建てる事を天の神に約束をさせました。

「我が子等の申し上げた通り、この葦原中国を献上致します。
 ただ我が住処として天の御子の日継(ひつぎ)の御殿のような
 大地の底まで宮柱が届き

高天原まで千木(ちぎ)が高くそびえ立つほどの大きくて
立派な神殿をつくってわたしを祀ってください。
そうすれば幽冥の国に身を隠します。

また、わが長子の八重事代主神が先頭のしんがりとなって
わがこの百八十の神を率いて仕え奉り 
命令に違わぬように致します。」

こうして八雲立つ出雲の地に
高天原に千木が届くほどの高い、高い、
神殿が建つ事になったのです。
そう、これが出雲大社です。

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國學院大学の資料から。出雲大社本殿は屋根の大きな千木が印象的。手前の社にはタギリヒメノミコトが祀られています。

その宮柱は大地の底の底まで深く深く刺し貫かれ
大国主命の御霊は丁重に祀られ
この神殿につかえる膳夫(かしわで)など
食事を備える役目も定め置かれました。

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古代出雲歴史博物館にある、平安時代の出雲大社本殿模型です。こちらも歴史博物館のHPから。

この出雲の大社は杵築大社とたたえられました。
この国譲り、幽契となりました。
こうして天下りのための地上の国の準備が整ったのです。

さて、古事記は8世紀はじめに編纂されたものですが、すでにその前の4世紀ごろには4世紀後半にはすでに出雲で祭祀が行われ、ヤマト王権が重要視するほどの力があったと思われる土器や銅鐸が発掘されています。

大国主命に國譲りを迫った建御雷神(たけみかずちのかみ)を祀る鹿嶋神社の5世紀の祭祀で使われたとされる遺物が出土しています。

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森の中にある鹿島神宮の本殿。

 こちらで出土した土器や銅剣などもヤマト朝廷の文化を色濃く反映したものがあり、5世紀に行われた鹿島神宮の祭祀は、当時の中央であるヤマトの影響下だった可能性が高いです。

 出土されたものを祭事学、考古学で見ると、國學院大学の研究では、国家的な祭祀が始まったのは4世紀後半とされています。鹿島神宮は、関東県内で一番古い祭事遺跡とされていますが、宗像大社(福岡県)、出雲大社では4世紀後半の遺跡が見つかっているようです。


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